ここまで貞門時代の芭蕉(宗房)の句と貞門の捨女の「や」の使い方を見てきた。
捨女の方は明らかに主観的な比喩や空想を「や」で表わすものが多かったが、芭蕉の場合はそれほどはっきりしない漠然とした疑いの「や」を使っていた。
芭蕉の代表的な句でも、
夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉
閑かさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
のような句は、「夢の跡」が実在しない主観的内容だし、「しみ入る」も実際に染みているのではなく染入るかのようだという主観的な表現なので、「疑いのや」は必然的といえよう。
これに対し、
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
の場合は主観的な内容がないので、単に水の音がしただろうか、というぼかした言い方として「や」を用いているにすぎない。
確かに田んぼの畦道を歩いているとじゃぼじゃぼと蛙の飛び込む音が聞こえたりするが、音ははっきりと聞こえても蛙の姿はちらと見た程度の場合が多い。
また、この句の場合は決して「古池」に出あった感動を詠んでいるのではないから、「や」は古池に対する詠嘆ではない。あくまで「古池に蛙飛び込む水の音のするや」であり、「蛙飛びこむ水の音」を「や」で受けている。
切れ字の「や」は疑いとはいっても疑問文の末尾のような「?」の意味で使われることはまずない。「だろうか」というちょっとぼやかした治定と言った方がいい。
この両方の用法を「疑いのや」と呼ぶとして、気になるのは許六自身がこの「疑いのや」を正しく使っていたかどうかだ。それを今日は岩波文庫の『蕉門名家句選(下)』(堀切実編注、一九八九)で辿ってみようと思う。
しがらき
しがらきや僧とつれだつごまめ売 許六
句に特に主観的な内容はない。「しがらきや」とあるが、信楽に来たということに感動した句ではないので、詠嘆の「や」とは言えないだろう。 殺生を忌むお坊さんと殺生を生業とするごまめ売りが一緒に旅をしている光景は、別に信楽でなくても田舎の細道ではいかにもありそうなことだ。その意味では「信楽あたりだろうか」程度の意味で軽く疑っているといっていいだろう。
人先に医師の袷や衣更 許六
これは例の「底をぬいた」句だが、これは「人先に医師の袷は衣更だろうか」という、本当の衣替えではないという意味では「や」と疑うのはもっともだ。
本当の衣更ではないが衣更の句だという所で底を抜いている。医師は世俗のことに無頓着で、暑くなったら卯月を待たずに勝手に袷を着たりしていたのだろう。
鶯や軒につみたる灰俵 許六
「灰俵」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 灰を詰めた俵。
※玉塵抄(1563)六「その日大雨大風して灰俵(タワラ)七俵入たことあるぞ」
とある。例文は土嚢のように水害を防ぐのに用いたか。堀切実の注には「灰は肥料に用いる」とある。
冬の間の暖房で出た灰を春の農作業の開始に向けて俵に詰めて軒下に積んであったのであろう。
ただ、この場合は鶯ががメインなので、この「や」は詠嘆ではないかと思う。
寒菊の隣もありや生大根 許六
「生大根(いけだいこん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 畑から引き抜いたままの大根を地中に深くうずめて、翌年の春まで貯蔵し、食用とするもの。いけだいこ。《季・冬》
※俳諧・笈日記(1695)中「寒菊の隣もありやいけ大根〈許六〉」
とある。
この場合は「隣」が主観的な表現なので「や」は「疑いのや」になる。
出替や哀すすむる奉加帳 許六
「出替(でがわり)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「奉公人が契約期間を終えて入れ替わること。多年季・一年季・半年季などがあり、地域ごとに期日を定めた例が多い。」
とある。
「奉加帳」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「寺社の造営,修理などのために財物を寄進するに際し,寄進する財物の目録や寄進者の住所,氏名を記入する帳面。寄進帳,勧進帳ともいう。転じて一般の寄付の場合の帳面をもいう。」
とある。
出替りで村に帰ると待っているのは寄付の催促だったりする。せっかく稼いできたのにと、哀れさを誘う。許六はこういう句を作るのは上手い。
「哀すすむる」が主観的なので「疑いのや」となる。
新藁の屋ねの雫や初しぐれ 許六
初しぐれの頃は新藁の頃でもある。「屋根の雫に初しぐれや」の倒置で、葺いたばかりの屋根にさっそく初しぐれか」という句になる。
御命講や顱のあをき新比丘尼 許六
「御命講」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「一〇月一三日、日蓮忌に行なわれる法会(ほうえ)。弘法大師の御影供(みえいく)とまちがえられるのをさけていう「大御影供(おみえいく)」の変化したものといわれる。おめこう。おめこ。御影供(おめいく)。御会式(おえしき)。《季・秋(もとは冬)》」
とある。
「顱」は「あたま」と読む。別に法会でなくても出家したばかりの僧は剃り跡が青い。この場合は「御命講」がメインなので詠嘆の「や」と言ってもいい。
明方や城をとりまく鴨の声 許六
「城を取り巻く」という所に城が包囲されて四面楚歌の連想を誘おうという意図か。そのあたりに空想が入るため、これは「疑いのや」で間違いない。
こうやって見て行くと、許六さん自身が大分当時の詠嘆の「や」のような使い方をしているし、あまり徹底しているとは思えない。
順番を飛ばすが、
木曾路
桟やあぶなげもなし蝉の声 許六
この句は「や」と疑っておいて「なし」と言い切っている。切れ字を二つ使っている。
桟のあぶなげもなし蝉の声
桟やあぶなげもなき蝉の声
のどちらかではないかと思う。許六さん自身の説明が聞きたい。
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