日本の古典を出典として元号を選ぶことの難しさが、今回は露呈してしまったのではないかと思う。というのも、日本の文章は漢文の影響を受けすぎているため、日本のを出典としても、その出典に更に中国の出典があるのは珍しくないからだ。
元来ネイティブでない日本人が文法も単語もまったく違う中国の文章を綴るのは簡単ではなく、何かしら中国の文章を手本にしながら、少し変えてというのは普通に行われていたと思われるからだ。
『万葉集』のみならず、芭蕉の文章でも中国に出典を辿れるものは多い。
たとえば、『野ざらし紀行』の小夜の中山の所の文章、
「二十日余のつきかすかに見えて、山の根際(ねぎは)いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚く。」
は、
早行 杜牧
垂鞭信馬行 数里未鶏鳴
林下帯残夢 葉飛時忽驚
霜凝孤鶴迥 月暁遠山横
僮僕休辞険 時平路復平
に基づいている。
有名な『奥の細道』の冒頭も李白の『春夜宴桃李園序』の
夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客。
而浮生若夢、為歓幾何。
に出典を求めることができる。
近代になると、近代文学の文士達は西洋文学を学び、一生懸命真似したし、戦後の日本のロックミュージシャンは英米の六句の歌詞を一生懸命真似した。RCサクセションの「たとえばこんなラヴ・ソング」はwingsのSilly Love Songsの翻案のようなものだ。こうして日本の文化は様々なものを取り込んで発展してきた。
日本のオリジナルの元号がというなら、いっそのこと飛蛙だとか猿蓑だとかにすればいいのでは。
それでは『俳諧問答』の続き。今日は少し。
「一、第一初蝉といふ題号ハ、『淋しさや岩にしみ込む蝉の声』の句より出たると、惟然坊が書たる事、うたがひあるまじ。
然る所ニ此句、蝉といふ題号のしかも奥に入たり。是如何成賞翫ぞや。
題号とする程の妙句を雑句と同じやうに書入る事、題号ニせし賞翫曾てなし。
うき世の北などいへる集ニ、口へ出す珍しからずと、新ミニ奥ニ書入たりや。是以の外の不賞翫たるべし。
此集へ出さぬハ、一重賞翫もあるべし。序ニ書たる上ハくるしかるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.124)
淋しさや岩にしみ込む蝉の声 芭蕉
の句は、芭蕉が元禄二年の『奥の細道』の旅の途中、立石寺で詠んだ、
立石寺
山寺や石にしみつく蝉の声 芭蕉
の句を直したもので、最終的には『奥の細道』の、
閑さや岩にしみ入蝉の声 芭蕉
に落ち着くのだが、これが発表されるのは元禄十五年でこの『俳諧問答』の五年後になる。この時点では元禄九年刊の風国編の『初蝉』で「淋しさや」の句を知ることになる。
なお、この前年、壺中・芦角編の『芭蕉翁追悼こがらし』には、
淋しさの岩にしみ込せみの声 芭蕉
の形で既に発表されている。
ただ、ならばなぜ「淋しさや」の句を巻頭に掲げなかったのかと許六は言うわけだが、別にいいじゃないかといいたいところだが、そういうのが気になるのが許六さんなのだろう。
『猿蓑』のイメージが強すぎるのだろうけど、一句がきっかけになって、それを巻頭に集を作ろうとなるのは極めて稀なことで、『初蝉』の場合は、句も初出ではないし、ただ、題を決める時に参考にした程度だから、わざわざ巻頭に持ってくる必要もないだろう。
実際の所、「淋しさや」の句が巻頭に掲げられてしまっていたら、元禄十五年に『奥の細道』が刊行されたとき、この句は何だったんだということになりかねなかった。
当時「閑かさや」の最終形を知っていたのはまだ限られていた。野坡本を持つ野坡、曾良本を持つ曾良、清書をした素龍、素龍本を保有していた芭蕉の兄半左衛門、それを受け継いだ去来くらいだったか。風国は去来と交流があったから、ひょっとしたら何らかの形で最終形が存在することを知ってたのかもしれない。
『奥の細道』の公刊に向けて周到な準備がなされていた時期なら、あえて目立たない形で『こがらし』既出の句を載せたのかもしれない。『初蝉』のタイトルも、蝉の字が入っているだけで、「初」は芭蕉の句にはない。「淋蝉」だったなら巻頭に置いても良かったかもしれない。
0 件のコメント:
コメントを投稿