2022年2月20日日曜日

 今日は朝から雨で、昼には止んだが一日どんよりと曇っていた。まだ寒い日が続く。
 オリンピックも終わった。パラリンピックは配信してくれるのかな。その前に戦争が始まってなければいいが。
 人権というのは結局のところ、生存競争の一プレーヤーとして、公正なルールの下に自立的に戦う権利なんではないかと思う。その意味では、ゲーム用語の「人権」の用法も意外に当を得ているのではないかと思う。
 このまま第三次世界大戦が起きても、残念ながら日本には人権がない。笑って死ぬのを待つだけだ。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。今回は温泉回、と言っても爺さんだけど。

 「此暮より又患ふ事さえかへりて、風さへ加はり、日数経ぬ。如月の末つかた、おこたりぬれど、都のあらましは打置て、「上野の国草津といふ湯に入て、駿河国にまかり帰らんの由思ひ立ぬ」と言へば、宗祇老人「我も此国にして限(かぎり)を待はべれば、命だにあやにくにつれなければ、ただの人々の哀れびも、さのみはいと恥かしく、又都に帰り上らんも物憂し。」(宗祇終焉記)

 年末から宗長の体調が再び悪化し、それに風邪も加わり、正月過ぎても直江津に閉じ込められたまま日々を過ごす。
 二月の末になってようやく体調が回復すると、京へ上るのをやめて草津温泉行き、そこから元来た道を戻って駿河に帰ろうと思い立ち、宗祇を温泉に誘う。
 宗祇もそれに賛同する。越後で死ぬことになると思っていたら、思いのほか「つれなく(その気配もない)」ということで、上杉家の人たちにいつまでも世話になるのも気が引けるが、だからと言って都に帰るのものも、あっちもいろいろごたごたしていて面倒くさい。
 宗祇が越後に旅発った直後、七月二十八日に京都大火があって種玉庵が焼失したことも知っていたのだろう。

 「美濃国に知る人ありて、残る齢の陰隠し所にもと、たびたびふりはへたる文あり。あはれ伴ひ侍れかし」と、「富士をもいま一度(たび)見侍らん」などありしかば、打捨て国に帰らんも罪得がましく、否びがたくて、信濃路にかかり、千曲川の石踏みわたり、菅の荒野をしのぎて、廿六日といふに草津といふ所に着きぬ。」(宗祇終焉記)

 美濃はかつて宗祇が東常縁から古今伝授を受けた土地で、そこに知り合いがいたのであろう。度々手紙を交わしていて、自分もそこへ行き、その途中でもう一度富士山を見たい。ということで、宗長の駿河に帰る道に同行して、そこから美濃へ向かうことにする。
 宗祇がこれまで最後に富士山を見たのはかつての東国下向からの帰りで、三島で最初の古今伝授を受け、そこから美濃で古今伝授を終了するまでの間に見て以来のものだったのだろう。文明四年(一四七二年)以来三十年ぶりになる。
 そう言われれば、一人で駿河に帰るわけにもいかないので、ここで宗長は駿河へ、宗祇は美濃へ、ともに旅をすることになる。
 まあ、今で言えばこれがフラグという所か。
 信濃路は北国街道とも呼ばれているもので、直江津から野尻湖の脇を通って行く、今の国道十八号線に踏襲された道であろう。そのあといまの長野市の善光寺を通って、千曲川を渡り、千曲川の東岸を遡って、上田の辺りで東山道に合流する。越後に来る時も、おそらくこの道を通ったと思われる。
 二十六日に草津に着いたとあるが、二月の末に病が治ったとあったから、三月のことか。どのルートで入ったかはよくわからない。

 「同じき国に伊香保といふ名所の湯あり。中風のために良しなど聞きて、宗祇はそなたに赴きて、二方に成ぬ。此湯にて煩(わづらひ)そめ、湯に下(を)るる事もなくて、五月の短夜をしも明かし侘びぬるにや、

 いかにせんゆふづけ鳥のしだり尾の
     声うらむ夜の老の旅寝を」(宗祇終焉記)

 伊香保も今でも有名な温泉地で、草津から渋川の方へ行った、榛名産の中腹にある。二つの温泉で一月以上ゆっくりと休養する所だったが、山奥の旅が御老体にはきつかったのか、今度は宗祇の方の体調が悪くなり、五月になる頃には温泉に入ることもなくなった。
 そこで宗長が一首。

 いかにせんゆふづけ鳥のしだり尾の
     声うらむ夜の老の旅寝を
             宗長法師

 「ゆふづけ鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「木綿付鳥」の解説」に、

 「〘名〙 (後世「ゆうづけどり」「ゆうつげどり」とも。古代、世の乱れたとき、四境の祭といって、鶏に木綿(ゆう)をつけて、京城四境の関でまつったという故事に基づく) 木綿をつけた鶏。また、鶏の異称。木綿付の鳥。
  ※古今(905‐914)恋一・五三六「相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ〈よみ人しらず〉」
  [補注]「俊頼髄脳」では「ゆふつけどりとは鶏の名なり。鶏に木綿をつけて山に放つまつりのあるなり」と説明されていたが、「奥義抄」が、それを疫病流行の際に朝廷が四方の関で行う四境祭の儀式であると説き、「袖中抄」「顕昭古今集注」もこれを継承した。」

とある。その四境祭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四角四堺祭」の解説」に、

 「〘連語〙 陰陽道で、疫神の災厄を払うため、家の四隅と国の四堺とで行なった祭祀。また、朝廷で六月と一二月の晦日(みそか)に行なった鎮火祭と道饗(みちあえ)の祭をいう。四角四境の祭。四角四境鬼気の祭。四角祭。
  ※朝野群載‐一五・長治二年(1105)二月二八日・陰陽寮四角四堺祭使歴名「四角四堺祭使等歴名 陰陽寮 進下供二奉宮城四角巽方鬼気御祭一 勅使已下歴名上事」

とある。
 「ゆふづけ鳥のしだり尾」は病魔を払うためのまじないとして、鶏に付けられたものなのだろう。
 「しだり尾」というと、

 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
     ながながし夜をひとりかも寝む
             柿本人麻呂(拾遺集)

の歌がある。
 「しだり尾」が「ながながし夜」を導き出すように、下句の「声うらむ夜の老の旅寝を」はそれによって導き出され、ここでは病気のことが心配で寝るに眠れなかった、という意味になる。
 なお、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(一九九〇、岩波書店)の注には、「宗長は草津に、宗祇は伊香保に別れて滞在した。宗祇には宗碩・宗坡が同行。四月二十五日、伊香保において宗祇・宗碩・宗坡の三吟がある(宮内庁書陵部本也)。」とある。
 宗碩・宗坡はいつから同行しているか定かでない。ただ、この二人が宗祇について行ったとなると、宗長の方は誰が同行していたのだろうか、ということになる。
 本文に記されてはいないが、宗祇の高齢と当時の治安の悪さを考えると、実際はそれなりの人数で移動していたのだろう。
 宗祇の『白河紀行』や宗長の『東路の津登』を見ると、館に泊まった時は、そこの武士が護衛となった送って行ったりというのもあったようだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿