そりゃま、当然来るよな。また、どっかの馬鹿が「まさかこんなことになるなんて誰も思わなかった」なんて言うのかな。
ここまでアメリカが頼りにならないとなると、日米同盟も見直した方がいいかもな。台湾の時も見捨てられるんじゃないの?
今すぐにでも維新や国民民主と協議して、憲法改正して再軍備した方がいいんじゃない?
やっぱ日本にも「人権」あってもいいんじゃん。勝てるかどうかでなく、面倒だから後回しにしてくれるだけでも時間が稼げる。
薔薇は羊に食べられてしまうのに、それでも棘を持っているのは、食べる時の優先順位を下げるだけでも効果あるからだ。これが星の王子様の疑問への答。
ウクライナのメタルを聞いてたのは、もう十年前になるのか。ロシアのОпричьとベラルーシのPiarevaracienとウクライナのЧурのスプリットアルバムがあったなと思って探したら、まだちゃんとあった。
実はこのCDのタイトルのТриединствоが意味深で、これは三位一体という意味だが、ロシアでは、大ロシア(いわゆるロシア)、白ロシア(ベラルーシ)、小ロシア(ウクライナ)が一つであるという意味を持っている。
これが、それぞれ国は違っても同じロシア人じゃないか、という意味で用いられていたなら問題もなかったのだろう。それが政治的な意味で「一つのロシア」になってしまうと全く違う意味になる。ちょうど香港や台湾の問題で「一つの中国」が意味するのと同じものになる。
だから、今度の戦争で同じロシア人じゃないかと思うなら、台湾でそれが言えるかどうか考えてみると良いかもしれない。まあ、ロシア側のプロパガンダに騙されないように。
「小ロシア」という単語はウィキペディアの項目にもなっている。その歴史がざっと書いてある。
ロシアの語源となった「ルーシ」は元はキエフ大公国に由来するもので、角谷英則さんの『ヴァイキング時代』(二〇〇六、京都大学学術出版会)には ルーシはヴァイキング時代のスカンディナヴィア人とフィン・ウゴル人、スラブ人の融合によるもので、その比率についてはいろいろ議論があるようだ。
「ヤンソンは、チメリョヴォの墓域にあらわれている発展の各段階では、異なる物質文化をあらわす諸要素が別々の集団をあらわすのではなく、異なる出自をもちはするが、自分たちを一つの共同体として、さらにおそらくは「一つの民族集団としての意識をもったひとびとの共同体」をあらわしているという。
カルメルによっても同様の見方が提起されている。かれによれば、ロシアの遺跡・遺物には、たしかにヴァイキング時代のスカンディナヴィアの文化的特徴がは明確にのこされているが、それはもはやスカンディナヴィアでみられる文化的なパターンにそった、まとまったアイデンティティの表現として理解することができないほど、変化してしまっているか、それがおかれた文脈を異にしている。この変化、それも相当急速におこった融合そのものが古代ロシアにおけるもっとも重要な発展であり、その結果として形成されたのが「ルーシ」というあらたなアイデンティティ(およびキエフ・ルーシという国家)であった可能性が考えられるのである。」(『ヴァイキング時代』p.111~112)
ウクライナはロシア発祥の地だったというわけだ。それが「小ロシア」じゃ面白くないよな。ウクライナでヴァイキングメタルも歴史を考えれば自然なことだ。彼らはヴァイキングの子孫でもある。
初期の国家が成立するときに、複数の民族が一つのアイデンティティを形成するのは珍しいことではない。日本も縄文人と弥生人がいた所に様々な渡来人が入って来て、大和朝廷時代に「日本人」が形成されたようなもんだし、中国も黄河の漢民族と長江の秦人、楚人、呉人、越人などが融合して中国人の意識が形成され、韓国も伽耶、倭人、新羅人、高句麗人、扶余人などの融合によって韓民族が形成されている。イギリスもケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、デーン人、ノルマン人などが合わさってイギリス人が形成された。
キエフは北欧とビザンチウムを結ぶ交易ルートの要衝で、ヴァイキングがそこを行き来していたことは、フィンランドのTurisasの「The Varangian Way」というアルバムのコンセプトにもなっている。さあ、日本もホルムゴー、その向こー。
それでは「宗祇終焉記」の続き。
「此月の晦日は月忌の初めなれば、草庵にして素純など来り会はれて、あひとぶらはれし次(ついで)、連歌あり。発句、
虫の音に夕露落つる草葉かな
この発句を案じ侍し暁、夢中に宗祇に対談せしに、「朝露分くと申発句を使うまつりて、又夕露はいかが」と尋侍しかば、吟じて、幾度(いくたび)も苦しからざる由ありしも哀れにぞ覚侍る。」(宗祇終焉記)
七月晦日没なので、毎月晦日が月命日になる。この年の八月は小の月なので、八月二十九日(新暦十月十日)が月命日になる。
宗長の庵に素純などが集まり、連歌会を行う。
その発句、
虫の音に夕露落つる草葉かな 宗長
の句は、桃園定輪寺で「消えし夜の朝露分くる山路哉」と詠んでいて、「朝露分くる」「夕露落つる」が似ているのが気になったのだろう。
すると夢に宗祇が現れて、「何度でも問題はない」という答えだったので、この句で良しとした。
「浅露分くる」は旅体で、「夕露落つる」は涙の暗示だから、意味はまったく異なる。「草葉」は「草葉の陰」というように、これも死の暗示になる。草葉の陰に御隠れになった宗祇さんに虫の音が悲しく、夕べには涙を落とします、という追悼の句になる。
「同じ日の一続の中に、寄道述懐(しゅつくわい)と云題にて、
たらちねの跡いかさまに分けもみん
遅れて遠き道の芝草
素純」(宗祇終焉記)
「一続」は前にも出てきたが、今回は「寄道述懐」という題で詠む。
述懐(しゅっかい)は連歌では恋と並ぶくらい多くの頻度で詠まれる主要なテーマで、過去を振り返って、満たされぬ思いや苦しみを吐露することを本意とする。
例えば『水無瀬三吟』ではこういう感じだ。
二十一句目、
夢に恨むる荻の上風
見しはみな故郷人の跡もなし 宗長
の句は前句の恋からの展開で、「恨む」を恋の恨みから、故郷が戦乱に荒れ果てて、家族や仲間を失った恨みにする。荒れた故郷はただ荻の上風だけが悲しく吹いている。
次の二十二句目は、
見しはみな故郷人の跡もなし
老いの行方よ何にかからむ 宗祇
と、故郷の人達と死に別れて、これから先の老後をどうすればいいのか、という不安へと展開する。これも述懐の体になる。
続く二十三句目は、
老いの行方よ何にかからむ
色もなき言の葉にだにあはれ知れ 肖柏
と、咎めてにはになるが、和歌など下手で拙い言い回ししかできないが、それでもこの悲しみをわかってほしい、と訴える。これも述懐になる。
たらちねの跡いかさまに分けもみん
遅れて遠き道の芝草
素純
この和歌もまた、亡き母の跡をどうやって追いかけることができるだろうか、生き残っている私にとっては遥か彼方の旅路だ、というもので、喪失の辛さを「道」の遠さに喩えて訴える「寄道述懐」になっている。
「東(とうの)野州に古今集伝授聞書并切紙等残所なく、此度今はの折に、素純口伝附属ありし事なるべし。同じ比、素純の方より、初雁を聞きて宗祇の事を思ひ出でてなど言ひ送られし、
ながらへてありし越路の空ならば
つてとや君も初雁の声
返し、
三年経て越路の空の初狩は
なき世にしもぞつてと覚ゆる」(宗祇終焉記)
東野州は東常縁のことで、ウィキペディアに「官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される。」とある。
宗祇に古今伝授を行ったことは前にも述べた。素純(東胤氏)の父親になる。
古今集伝授聞書并切紙は宗祇が東常縁から古今伝授を受けた時の内容を記したものや切紙伝授で、切紙伝授はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切紙伝授」の解説」に、
「〘名〙 室町時代以後、歌道、神道その他の諸道で、口伝(くでん)による誤りをなくすために、切紙に書いて弟子に伝授したこと。」
とある。
こうした遺品は東常縁の息子である素純に受け渡された。
その素純が、初雁の音を聞いて、一首詠む。
ながらへてありし越路の空ならば
つてとや君も初雁の声
素純
この初狩の声はきっと、まだ存命中に越後の空からよこした便りなのでしょう。遅れて今届きました。
これに対し、宗長は答える。
三年経て越路の空の初狩は
なき世にしもぞつてと覚ゆる
宗長
宗祇のいた三年の間越後の空にいた雁ならば、亡くなってからでも便りを届けなければと思うことでしょう。
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