だいぶ暖かくなった。この先もっと暖かくなるようで、ようやく河津桜も一気に平句かな。
コロナワクチンの三回目接種も17.3%、六十五歳以上だと44.3%で順調に進んでいる。
NATOも米軍もウクライナには介入しないことを宣言して、初戦はロシアの完全勝利に終わった。火事になっても消しに行かないで、焼け出された人にテントを与えて労働力として利用する。これが西洋の人権だ。国が一つ失われるたびにこのことを繰り返している。
難民の受け入れはどんなに善意でやっているにしても、対処療法にしかならない。難民が発生する元を絶たなければ、これからも難民は増え続ける。ロシアのみならず、世界中の独裁国家の侵略が続けば、その都度難民が発生し、同時に難民を受け入れることのできる地域そのものが縮小してゆく。最後に待っているのは共倒れだ。
忘れてはいけない。地球は無限の広さがあるわけではない。生産力だって限られている。地球は小舟にすぎない。
元来それぞれの人間の人権と人権とは真っ向から衝突するものであり、これまでの民主主義体制は、それをルールある競争と多数決という仕方で解決してきた。今の人権派は独裁者の独断で解決する社会を作ろうとしている。
これに対抗するには、まず組織を作るな。組織を作れば組織内で独裁体制が生まれる。これではミイラ取りがミイラになる。何物にも服従するな。まずはそこからだ。
あとネトウヨが誤解しているところだが、左翼は憲法第九条を崇拝してなんかいないし、その効果を信じてなんていない。ただ、今の親米政権を弱体化させるために、護憲派のふりをしているだけだ。護憲はあくまで方便だ。
彼らの言う「民主主義革命」が起きたなら、現行憲法の改正手続きに寄らずに革命憲法を作ることができる。それは現行憲法が明治憲法の改正手続きによるものではなく、八月革命による明治憲法と断絶した革命憲法だとするのと同じ論理だ。
その時には間違いなく米軍の脅威に対抗するために、どういう名称かは知らないが必ず軍隊を作る。その軍隊は同時に反革命勢力にも向けられる。
何だか時代があまりに急に動き出したんで、考えがうまくまとまらないが、それでも思考停止は防がなくてはならない。猫一匹の命がかかっているのではない。世界中の多くの命がかかっている。
それでは「宗祇終焉記」の続き。
「此比、兼載は白河の関近きあたり、岩城とやらんいふ所に草庵を結びて、程も遥かなれば、風にのつてに聞きて、せめて終焉の地をだに尋ね見侍らんとや、相模の国、湯本まで来(きた)りて、文にそへて書き送られ長歌、此奥に書加ふるなるべし。」(宗祇終焉記)
上野白浜子著の『猪苗代兼載伝』(二〇〇七、歴史春秋社)の年表によると、兼載は文亀元年(一五〇一年)秋に、
「兼載都を落ちて遠く会津へと旅立つ。妻子共々彼を見送った。この年は奥州白河に越年した。」
とある。
その翌年文亀二年(一五〇二年)には、
「正月白河にて、対松軒張行を催し、二月会津に入る。
領主芦名盛高に父子の争いを進言したが却ってその忌諱にふれ、黒川自在院に籠り俳諧百韻を詠みこれを諷した。
四月上旬、会津を去り岩城に向う。」
とある。(「俳諧百韻」は以前読んだので、鈴呂屋書庫にもアップしている。)ただ、金子金次郎著『連歌師兼載伝考』(一九七七、桜風社)には、「ともあれ岩城に草庵を構えていたことは、宗祇終焉記に明らかであり」とある。あとは「兼載天神縁起」にある、「嘗結草庵干磐城西寺之側而居焉」の記述で、城西寺の側だという。今の常磐線と磐越東線の分かれるあたりにある。大舘城跡の東側にあるが、実質城内といっていいような場所だったか。
江戸時代には磐城平藩の内藤家の人達が芭蕉のパトロンになっていたが、磐城の風流の下地は兼載によるものだったか。
兼載はこの後永正二年(一五〇五)から芦野に住み、永正五年(一五〇八年)に古河に移る。宗長の『東路の津登』の旅はその翌年で、佐野に立ち寄った時に古河にいる兼載の病気を見舞う手紙を出している。
その兼載が箱根湯本まで来て手紙を送っている。『東路の津登』の時の宗長もそうだが、何でそこまで来ながら逢いに来なかったんだろうか。
なお、磐城から箱根湯本というと、元禄六年の「朝顔や」の巻二十六句目の、
うき事の佐渡十番を書立て
名古曽越行兼載の弟子 芭蕉
の句のことも思い起こされる。もっとも勿来の関の場所は諸説あって、今のいわき市と北茨城の間にある「勿来の関」は、磐城平藩の内藤のお殿様が、陸奥の歌枕をことごとく藩内に見立てて誘致したということもあり、かなり怪しい。
さて、その長歌だが、
「末の露 もとの雫の ことはりは おほかたの世の ためしにて 近き別れの 悲しびは 身に限るかと 思ほゆる 馴れし初めの 年月は 三十あまりに なりにけん そのいにしへの 心ざし 大原山に 焼く炭の 煙にそひて 昇るとも 惜しまれぬべき 命かは 同じ東の 旅ながら 境遥かに 隔つれば 便りの風も ありありと 黄楊の枕の 夜の夢 驚きあへず 思ひ立 野山をしのぎ 露消えし 跡をだにとて 尋ねつつ 事とふ山は 松風の 答ばかりぞ 甲斐なかりける
反歌
遅るると嘆くもはかな幾世しも
嵐の跡の露の憂き身を」(宗祇終焉記)
冒頭の「末の露 もとの雫」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「末の露本の雫」の解説」に、
「(草木の葉末の露と根元の雫。遅速はあっても結局は消えてしまうものであるところから) 人の寿命に長短はあっても死ぬことに変わりはないということ。人命のはかないことのたとえ。
※古今六帖(976‐987頃)一「すゑの露もとのしづくやよの中のをくれさきだつためしなるらん」
とある。例文の歌は、新古今集にも収録されている。
末の露もとの雫や世の中の
後れ先立つためしなるらむ
僧正遍昭(新古今集)
で、新古今集の仮名序にも、「しかのみならず、高き屋に遠きを望みて民の時を知り、末の露本の雫によそへて人の世を悟り」とある。
遅速はあってもいつかは消える、その「ことはりは おほかたの世の ためしにて」と、このあたりはこの長歌の枕となる。この導入部で「近き別れの 悲しびは 身に限るかと 思ほゆる」と宗祇の死という本題に入る。
「馴れし初めの 年月は 三十あまりに なりにけん」は亡き宗祇とは三十年の付き合いだった、ということで、兼載と宗祇との出会いは、はっきりとした記録はないが、宗祇が関東に下向した頃、兼載が心敬に師事していて、その頃だとされている。『猪苗代兼載伝』(上野白浜子著、二〇〇七、歴史春秋出版)は応仁二年(一四六八年)頃としている。三十四年前になる。
なお、『旅の詩人 宗祇と箱根』の金子注は、その二年後の文明二年(一四七〇年)正月の「河越千句」に登場する興俊が後の兼載だとしている。
「そのいにしへの 心ざし 大原山に 焼く炭の 煙にそひて 昇るとも」の大原山は京の大原の里で昔から炭焼きが有名で、大原女が京にエネルギーを供給していた。
こりつめて真木の炭やくけをぬるみ
大原山の雪のむらぎえ
和泉式部(後拾遺集)
嘆きのみ大原山の炭竃に
思ひたえせぬ身をいかにせむ
よみ人しらず(新後拾遺集)
などの歌に詠まれている。
『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』の注は、「心ざし大原山」のつながりから、
心ざし大原山の炭ならば
思ひをそへておこすばかりぞ
よみ人しらず(後拾遺集)
の歌を引いている。ともに連歌への思いを起こし、煙の寄り添うように、ともに同じ道に励んできたという含みを取ってもいいだろう。
その一方で空へ消えて行く煙は哀傷歌ではしばしば死者の火葬の煙にも重ね合される。ともに大原の煙をともにしながらも、同時に火葬の煙を導き出す枕として大原山の炭焼きの煙を用いて、「昇るとも 惜しまれぬべき 命かは」と繋がる。このあたりの移りの面白さは、連歌師ならではのものかもしれない。
「同じ東の 旅ながら 境遥かに 隔つれば」は宗祇も自分の同じように東国を旅をしているが、宗祇の東国下向の時以降、なかなか会うこともなかったということで、「便りの風も ありありと」と風の噂に聞くのみだった。
明応九年(一五〇〇年)の七月十七日に宗祇は京を離れて越後に向かったが、その年の十月、兼載は後土御門天皇崩御を知り、京に上ったという。ここでも行き違いになっている。大原山を引き合いに出したのは、この時の大葬のイメージがあったからか。
その風の噂で宗祇の死を知り、「黄楊の枕の 夜の夢」の黄楊の枕はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「黄楊の枕」の解説」に、
「ツゲの材で作った枕。つげまくら。
※古今六帖(976‐987頃)五「ひとりぬるこころはいまもわすれずとつけの枕は君にしらせよ」
とあり、和歌では「告げ」と掛けて用いられる。夜の夢に続くと、夢でもお告げがあったという意味になる。
「驚きあへず 思ひ立 野山をしのぎ 露消えし 跡をだにとて 尋ねつつ」と宗祇の死に驚いて弔いに駆けつけようと思い立ち、野山を旅し、露のように儚く消えていったその跡だけでも尋ねようと、磐城から箱根湯本までやって来る。
そして、宗祇終焉の地に立ち、「事とふ山は 松風の 答ばかりぞ 甲斐なかりける」と箱根の山を尋ねても既にその跡はなく、松風のシュウシュウという悲しげな音ばかりが答えるばかりだった。
そして反歌。
遅るると嘆くもはかな幾世しも
嵐の跡の露の憂き身を
兼載
「遅るる」は死に遅れるで、宗祇が先に死んでしまい自分が残されたという意味で、それを嘆いてもむなしく、「幾世しも」はどれほどの年月をの意味で、長いこと会えなくて、このまま永遠に会えないことの嘆きと、「行く由も」「生く由も」に掛けて用いられる。逢えなかった過去の嘆きだけでなく、これからもどうして良いのかという嘆きとが重なり合う。
この死別は心の中の嵐のようなものであり、実際に台風などの嵐の多い季節でもあった。その嵐の後、我が身は嵐の後の露のように、いつ散ってもおかしくない儚い身の上だと結ぶ。
長歌反歌とも見事なもので、宗長も感銘してこの歌を『宗祇終焉記』の巻末に据えることを厭う理由もなかった。
「此一巻は、水本与五郎上洛之時、自然斎知音の今京都にていかにと問はるる返しのために書写者也。一咲々。」(宗祇終焉記)
水本与五郎は宗碩とともに国府(こう)に登場した宗祇の従者だが、おそらく越後の旅からずっと付き添っていたのだろう。このあと宗長は駿河に留まるが、水本与五郎が京へ上り、都にいる宗祇の知人に宗祇の最期を伝えるために、この『宗祇終焉記』を書き写して送ったのであろう。
自然斎は宗祇の号で、「知音(ちいん)」は知人と同じ。韓国語だと「知人」も「ちいん(지인)」と読むが、何か関係があるのか。
最後の「一咲々」は一笑々で、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』の注に、
「書簡の結びの言葉。「一笑に付してください」といった類。中世によく使われた」
とある。
この自然斎知音は三条西実隆のことであろう。この部分はその三条西実隆へ書簡として付け足されたもので、『宗祇終焉記』は兼載の長歌と反歌をもってして完結している。
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