2022年2月10日木曜日

 昨日のオリンピックネット観戦は午後のスノーボード男子ハーフパイプ予選から。四人とも予選通過。決勝が楽しみだ。なぜか女子の配信がなかった。
 夕方はノルディック複合個人ノーマルヒルジャンプ。ジャンプは良いけど距離で抜かされるというパターンが多いが。前回の札幌もそうだったし。
 夜はまずショートトラック男子1500m準々決勝。1000mの時と同じようなメンバーが出てきていて、今日は平穏だった。失格選手はいたけど、そんな波乱という感じではなかった。中国選手も一人しか残れなかったし。まあ、一回だけなら偶然だと言い張れるというところか。
 そのあとのショートトラック女子1000m予選以降も、安心して見てられた。男子1500m決勝は黄大憲の勝利で、まあ良かった。
 アニメの「終末のハーレム」はdアニメの無修正Ver.で四話まで見たが、正直期待外れな感じはする。
 このアニメが女性蔑視だとしたら、それはむしろ男性主人公が異様なまでに貞操観念が強いため、女性が無節操に見えてしまうことだろう。三話から出てきた少年も同じだ。はっきりいって男性キャラは一人を除いてリアリティーがない。岡本倫さんの『パラレルパラダイス』の方がまだ自然だと思う。
 基本的にはアマゾネス神話のような完全な女社会で、男が種馬になるという設定だと思うが。
 オミ株の死者数が増えているのは、実際の感染者数と検査で見つかった感染者数のギャップがこれまでよりかなり大きいからだと思う。
 オミ株の場合は大半は無症状で、感染したことに気付いてないから検査を受けていない。多少の熱や喉の痛みくらいがあっても、重症化率が低いから危機感もなく、わざわざ検査を受けようとする人も少ない。
 ただでさえ保健所はパンクしているから、電話したって後回しにされるだけだし、それで陽性が発覚しても仕事ができなくなるだけ損をする。
 実際に検査を受けているのは濃厚接触者の連鎖の上にいる人と、職業的に検査を義務付けられている人に限られている。それであの人数なのだから、実際は既に一日数十万人のレベルで感染していて、それが死者数を押し上げているのではないかと思う。オミ株自体の毒性が強いわけではない。
 統計上の感染者数と実際の感染者数に大きなギャップがあるなら、逆に集団免疫がそれだか早く獲得され、早期のピークアウトが期待できる。ただ、死者に関してはコロナ以前のインフルエンザ並みの数は覚悟した方がいい。
 デルタ株の一日の検査陽性者数のピークは去年の八月二十日で25,975人。検査数のピークはその前日の232,366人。検査に対して陽性者は一割強。これに対して今年の二月五日の検査陽性者数は100,870人。その前々日の二月三日の検査数は266,034人。この陽性率の高さが何よりも証明している。
 筆者も昔から喉が悪くて、年がら年中咳や鼻水が出るし、冬になると一度ぐらいは扁桃腺が腫れて熱を出していた。コロナが始まってから発熱はなくなったが、時々喉が痛くなる時がある。ひょっとしたら既に罹っていたのかもしれない。
 三回目のワクチン接種は昨日の発表で一日888,339回。百万ペースに近づいてきている。

 さて、世間話はこれくらいにして、『阿羅野』の歌仙二つ読んだところで、同じ『阿羅野』の発句の方も見ていこう。

   初春

 若菜つむ跡は木を割畑哉     越人

 若菜を摘んだ休ませている畑は、そのあと真木割りの場所になる。

 精出して摘とも見えぬ若菜哉   野水

 若菜摘は野遊びで、生計のためのものではないから、そんな真剣になるようなものではなかった。お喋りをしながらのんびりと、というところか。

 七草をたたきたがりて泣子かな  俊似

 七草叩きはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「七種を囃す」の解説」に、

 「七種の節供に、前日の夜か当日の朝に、七種の菜を俎(まないた)にのせ、吉方(えほう)に向かい「ななくさなずな、唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬさきに云々」などと唱えながら、これを打ちたたくのをいう。当日の朝、この菜を七種の粥にして食べる。後世関東では、青菜と薺(なずな)とに、火箸・すりこぎ・包丁・杓子・わり薪を合わせ七種とし、俎上などで打ち囃す。若菜囃す。〔古今要覧稿(1821‐42)〕 《季・新年》」

とある。
 面白そうなので子供がやりたがるが、神事なので大人の仕事だったのだろう。小正月の「鳥追い」は子供の出番だが。

 女出て鶴たつあとの若菜哉    小春

 女たちが若菜を摘みに来ると、今までそこにいた鶴がどこか行ってしまう。

 側濡て袂のおもき礒菜かな    藤羅

 若菜摘みと同様、海辺では磯菜摘みも行われる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「磯菜摘」の解説」に、

 「〘名〙 磯菜を摘みとること。《季・新年‐春》
  ※無言抄(1598)下「春〈略〉磯菜摘 春なり」

とある。

 こよろぎの磯たちならし磯菜摘む
     めざし濡らすな沖にをれ波
              よみ人しらず(古今集、相模歌)

の歌もある。「こよろぎ」は鎌倉の小動(こゆるぎ)岬で、腰越の辺りにある。
 海辺で摘むので波でびしょ濡れになり、海水を含んだ袖に採った礒菜を入れるから、二重の意味で重い。

 吾うらも残してをかぬ若菜哉   素秋

 「うら(裏)」は多義だが、我が家の裏のことか。村人の一家総出の儀式だから、若菜のあるところにはどこにでも人がいて摘んでいる。

 石釣てつぼみたる梅折しけり   玄察

 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉もあり、桜の枝は折ってはいけないが、梅の枝は折っても良いというところで、梅の枝を折るのも梅の風流の本意となるのだろう。桜の枝を折ってはいけないのは、才麿編の『椎の葉』の須磨寺のところに出てきた弁慶筆の制札に、

 「此花江南所無也、一枝於折盗之輩者、任天永紅葉之例、伐一枝者可剪一指、寿永三年二月日」

とあるように、指を折って償えというほどのものだった。
 梅は折ってもいい物ということで、石を吊って枝を撓ませてでも折る。

 鷹居て折にもどかし梅の花    鷗歩

 『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注に、

   円融院の御屏風に秋の野に色々の花咲き乱れ
   たる所に鷹据ゑたる人あり
 家つとにあまたの花も折るべきに
     ねたくも鷹を据ゑてけるかる
              平兼盛(拾遺集)

の歌が引用されている。これを本歌にして、季節を春の梅に作り替えたと思われる。
 鷹がいるので梅の枝が折れない。

 むめの花もの気にいらぬけしき哉 越人

 寒い時期に咲く梅の花は、春が来てるのだけどまだどこか物足りない感じがする。

 薮見しれもどりに折らん梅の花  落梧

 見知れはよく見ろ、注意して見よ、という意味で、薮の向こうに梅の花が見えたから、今は急ぐけど帰りには立ち寄って梅の花を折っていきたいから、この薮にはよく注意しろ、という意味になる。

 梅折てあたり見廻す野中哉    一髪

 梅を折って、誰かに見られやしなかったかと辺りを見回す。梅は折ってもいいものと思っても、何となく気になる。

 華もなきむめのずはいぞ頼もしき 冬松

 「ずはい」は『芭蕉七部集』の中村注に「気条(スハエ)。ずはえ、細くのびた枝。」とある。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「楚・楉・杪」の解説」には、

 「〘名〙 (後世「ずわえ」とも)
  ① 木の枝や幹から、まっすぐに細く長く伸びた若い小枝。すわい。ずわい。すわえぎ。
  ※能因本枕(10C終)二二五「細きすはえをさしよせんに」
  ※源平盛衰記(14C前)二八「白浄衣に立烏帽子著たる老翁六人、梅の楉(スハ)へに巻数(くはんじゅ)付て」
  ② 刑罰に用いる道具。むち。しもと。また、それで打つこと。
  ※書紀(720)大化二年三月(北野本訓)「笞(ほそきスワヱ)杖(ふときスワヱ)」
  ※宇津保(970‐999頃)蔵開下「『桃ずはへしてよく打たばや』などいひあへり」
  ③ 舞楽で、舞人が持つ白い木の棒。〔龍鳴抄(1133)〕」

とある。梅のすわえは上へ向かってまっすぐ伸びてゆく。

 みのむしとしれつる梅のさかり哉 蕉笠

 梅の盛りだと梅の木をくまなく見るので、蓑虫が発見されたりする。

   網代民部の息に逢て
 梅の木になをやどり木や梅の花  芭蕉

 芭蕉が『笈の小文』の旅で伊勢へ行った時の句。
 代民部(あじろみんぶ)とは足代弘氏のことで、談林の祖、西山宗因に俳諧を学び、延宝五(一六七七)年には宗因との両吟百韻が高政編の『後集絵合千百韻』に入集している。俳諧発祥の地伊勢に談林俳諧を広めるべく神風館をを作った。ただ、残念ながら弘氏は天和三(一六八三)年に四十四歳の若さで没氏、芭蕉が会ったのはその息子の足代弘員(雪堂)だった。
 句のほうは、「梅の木」とは梅翁と呼ばれた西山宗因の梅の木に忠実な神風館のことで、延宝三(一六七五)年に宗因が江戸に来たときに宗因に感化されながらも後に袂を分かち新風を起こした芭蕉はヤドリギだと、謙遜をこめて詠んだ句だ。
 神風館も談林の流行の衰退とともに次第に先細りになってゆき、やがては蕉門の涼菟(りょうと)によって再興されてゆくことになる。

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