2022年2月7日月曜日

 昨日のオリンピックのネット観戦、まずはスノーボード女子スロープスタイル決勝。一回でも決まればという勝負で残念だった。最後の大逆転、あれがあるからこういうスポーツは常にチャレンジしなければいけないんだな。安全圏なんてのはない。
 午後はスノーボード男子スロープスタイル予選を見た。何だこの差はと言うくらい、みんなくるくるよく回るし、このコースはこんな使い方もあるのか、のようなものもたくさんあった。結果の方は何とか大塚さんと浜田さんが残ってくれた。
 東京の時も感じたことだったが、こういうエアを競う競技は体操やフィギュアスケート以上に性差が大きいような気がする。それを埋め合わそうとすると女子の極端な低年齢化が生じるのだが、フリースタイルスキーやスノボではまだそれが起きてないというのもあるのかもしれない。スケボではすでに起きているが。
 性転換選手が増えたら、競技の時一々「生まれながらの女子としては最高記録です」とか言うようになるのかな。なんかクリリンのようなポジションだが。
 夕方から始まったアイスホッケー女子日本・中国戦は延長まで行ったがサッカーで言うPKのようなshootoutというので負けた。サッカーと逆でキーパーの方が有利なんだ。
 画面が二つあるので、一つは女子モーグルにして、もう一つは男子ノーマルヒルにした。先にジャンプの方の結果が出た。小林陵侑さんはやってくれました。
 ところで昨日も気になっていたが、あの表彰式のパンダ達磨。貯金箱にでもなっているのかな。
 モーグルの方はあと一歩、決勝1回目にピークが来てしまった。三回目であの点数なら銀だった。

 それでは続けて『阿羅野』の春の俳諧、「美しき」の巻を読んでみようと思う。
 発句は、

 美しき鯲うきけり春の水     舟泉

 「鯲」は「どぢやう」でドジョウ(泥鰌)のこと。
 ドジョウは普通は泥の中に住んでいる。それが浮いてくるというのがどういうことかが問題だ。
 一応グーグル先生に聞いてみると、農機具のクボタのサイトに「通常はえら呼吸ですが、水中の酸素が足りなくなると水面まで上がって空気を吸う、珍しい魚です。」とあった。どうやら水温が上がると酸素が不足して水面の方に来るみたいだ。ウィキペディアには、

 「えらで呼吸するほか、水中の酸素が不足すると、水面まで上がってきて空気を吸い肛門から排出する、腸呼吸も行うが、腸呼吸は補助的な酸素取り込み手段であり腸呼吸だけでは生存のための必要量を摂取できず死亡する。この腸呼吸の際の酸素の取り込みは腸管の下部で行われる。」

とある。
 「美し」は多義で、時代によって意味も変ってきている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「美・愛」の解説」には、

 「① (古くは、妻、子、孫、老母などの肉親に対するいつくしみをこめた愛情についていったが、次第に意味が広がって、一般に慈愛の心についていう) かわいい。いとしい。愛らしい。
  ※書紀(720)斉明四年一〇月・歌謡「于都倶之枳(ウツクシキ) 吾(あ)が若き子を 置きてか行かむ」
  ※万葉(8C後)五・八〇〇「父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし宇都久志(ウツクシ)」
  ※源氏(1001‐14頃)若菜下「いづれも分かずうつくしく愛(かな)しと思ひきこえ給へり」
  ② (幼少の者、小さい物などに対して、やや観賞的にいうことが多い) 様子が、いかにもかわいらしい。愛らしく美しい。可憐である。
  ※播磨風土記(715頃)賀毛「宇都久志伎(ウツクシキ)小目(をめ)の小竹葉(ささば)に 霰降り 霜降るとも」
  ※枕(10C終)一五一「うつくしきもの、瓜(うり)にかきたる児(ちご)の顔。雀の子のねず鳴きするにをどり来る」
  ③ (美一般を表わし、自然物などにもいう。室町期の「いつくし」に近い) 美麗である。きれいだ。みごとである。立派だ。
  ※大鏡(12C前)六「西京のそこそこなるいへに、いろこくさきたる木のやうたいうつくしきが侍りしを」
  ※御伽草子・木幡狐(室町末)「うつくしく化けなしてこそ出でにけり」
  ※浮世草子・好色一代女(1686)四「女は妖淫(ウツクシ)き肌を白地(あからさま)になし」
  ④ (不足や欠点、残余や汚れ、心残りなどのないのにいう) ちゃんとしている。きちんとしている。
  (イ) ちゃんとしていて申し分ない。きちんと整っていて結構だ。
  ※源氏(1001‐14頃)乙女「かくて大学の君、その日のふみ、うつくしう作り給て進士になり給ひぬ」
  ※今鏡(1170)二「楽なんどをもうつくしくしらせ給ひ」
  (ロ) 残余や汚れがなく、きれいさっぱりとしている。
  ※日葡辞書(1603‐04)「ネコガ vtçucuxǔ(ウツクシュウ) クウタ」
  ※人情本・英対暖語(1838)三「お前は岑さんにうつくしくわかれて」
  ⑤ 人の行為や態度、また、文章、音色などが好ましい感じである。
  ※歌舞伎・助六廓夜桜(1779)「『こはう物を言はんすりゃ、何処までも腰押し、又美しう頼まんしたらば』『揚巻に逢はしてくれるか』」
  ※枯菊の影(1907)〈寺田寅彦〉「夭死と云ふ事が、何だか一種の美しい事の様な心持がしたし」
  [語誌](1)上代で優位の立場から目下に抱く肉親的ないし肉体的な愛情であった原義は一貫して残り、平安時代でも身近に愛撫できるような人や物を対象とし、中世でも当初は女性や美女にたとえられる花といった匂いやかな美に限定されており、目上への敬愛やきらびやかで異国的な美をいう「うるはし」とは対照的であった。
(2)やがて中世の末頃には、人間以外の自然美や人工美、きらびやかな美にも用いるようになり、明治には抽象的な美、そして美一般を表わすようになった。」

とある。ここでは②の意味で良いのだと思うが、泥の中にいたのが上がってくるという意味で、多少④の意味も入っているように思われる。
 春の水にドジョウも濁世を逃れて水面に遊ぶ、という含みを持たせていたのかもしれない。
 脇。

   美しき鯲うきけり春の水
 柳のうらのかまきりの卵     松芳

 「卵」は「かひ」と読む。
 春の水辺に柳を添え、カマキリの卵で俳諧とする。特に寓意はなさそうだ。
 第三。

   柳のうらのかまきりの卵
 夕霞染物とりてかへるらん    冬文

 発句が「けり」と強く言い切っているので、「らん」と疑って展開する。
 霞はしばしば「霞の裾」と衣に喩えられる。夕霞はその意味で染物とも言える。
 「染物とりて」は干した染物を回収するということか。柳は桜とともに「錦」になり、山は夕霞が染めて、春の景色の美しい染物も、日が暮れて闇に包まれてゆく様を、染物の喩えて「らん」で結んだか。
 四句目。

   夕霞染物とりてかへるらん
 けぶたきやうに見ゆる月影    荷兮

 夕霞に月も包まれ、けぶったように見える。
 五句目。

   けぶたきやうに見ゆる月影
 秋草のとてもなき程咲みだれ   松芳

 「とても」も時代によって意味や使い方が変わってきた言葉で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「迚」の解説」に、

 「〘副〙 (「とてもかくても」の略)
  [一] 条件的に、どうしてもこうしてもある結果になる意を表わす。
  ① いかようにしても。とうてい。何にしても。どっちみち。どうせ。結局。しょせん。
  (イ) (打消を伴って) あれこれしても実現しない気持を表わす。
  ※平家(13C前)三「日本国に、平家の庄園ならぬ所やある。とてものがれざらむ物ゆへに」
  ※田舎教師(1909)〈田山花袋〉一一「とても東京に居ても勉強などは出来ない」
  (ロ) 結局は否定的・消極的な結果になる気持を表わす。諦めや投げやりの感じを伴いやすい。
  ※延慶本平家(1309‐10)五本「下へ落しても死むず。とても死(しな)ば敵の陣の前にてこそ死め」
  ※俳諧師(1908)〈高浜虚子〉四五「もうああ狂って来ては迚(トテ)も駄目だらうね」
  (ハ) 決意を伴っていう。どうあろうと。
  ※太平記(14C後)五「や殿矢田殿、我はとても手負たれば此にて打死せんずるぞ」
  (ニ) 否定的・消極的ではなく肯定的な内容を導く。
  ※歌謡・閑吟集(1518)「とてもおりゃらば、よひよりもおりゃらで、鳥がなく、そはばいく程あぢきなや」
  ※西洋道中膝栗毛(1870‐76)〈仮名垣魯文〉六「とてもねがふなアアら大きなことをねエエがヱ」
  ② 事柄が成立する前にさかのぼって考える気持を表わす。どうせもともと。
  ※三道(1423)「又、女物狂の風体、是は、とても物狂なれば、何とも風体を巧みて、音曲細やかに、立振舞に相応して、人体幽玄ならば」
  ③ あとの句に重みをかけていう。どうせ…だから(なら)いっそ。「の」を伴うことがある。
  ※風姿花伝(1400‐02頃)二「さりながら、とても物狂に(ことよ)せて、時によりて、何とも花やかに、出立つべし」
  [二] 状態・程度を強調する語。たいへん。たいそう。はなはだ。
  ※澄江堂雑記‐「とても」(1924)〈芥川龍之介〉「『とても安い』とか『とても寒い』と云ふ『とても』の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論『とても』と云ふ言葉は東京にも全然なかった訳ではない。が従来の用法は『とてもかなはない』とか『とても纏まらない』とか云ふやうに必ず否定を伴ってゐる」
  [語誌](1)(二)については、挙例のように芥川龍之介が随筆の中で触れており、大正期の中ごろから多用されるようになったらしい。
  (2)元来「とても」は「とてもかくても」を略したもので、(一)の意味では否定表現を伴うことも肯定表現を伴うこともあった。しかし、明治以後は否定表現を伴う用法が多くなった。
  (3)(二)の用法が発生したことについて、新村出は「琅玕記‐とても補考」で、発生理由はいくつか考えられるが、「とても面白くて堪へられない」の「堪へられない」が略されてできた形ではないかと推測している。これは「僕の知ってゐる家はとても汚くっていけません」(永井荷風「腕くらべ‐一五」)のように「とても」は打消の「ん」と呼応しているのだが、「とても汚い」とも受け取られやすいところから次第に(二)の用法が出てきたとするものである。
  (4)(一)①(ロ)に挙げた「俳諧師」の例のように肯定形ではあるが否定的な意味を持つ「駄目」「むづかしい」などを修飾する用法は明治期にも見られ、これが多用されていくうちに、一般に肯定形と結びつくことの不自然さが薄れて(二)の用法が出てきたとも考えられる。」

とある。
 今でも「とてもかなわない」という言い回しは残っていて、これが古い用法になる。近代になって「とても良い」のように強調の言葉として用いられるようになったとき、芥川龍之介などは不快感を持っていたようだ。これだとドラえもんの歌の「とっても大好きドラえもん」もアウトなのか。口語では「超」だとか「まじ」だとかに置き換わって、最近はあまり用いられない。
 この句では古い用法と新しい用法の中間のような「この上ない」「れいのない」という意味で「とてもなき」が用いられている。この用法が広まったところから、いつしか「なき」が省略され、近代の強調の用法になったのかもしれない。
 秋草の中には背の高い草もあれば、クズのような蔓性のものもあり、澄んだ月もそれらに紛れてけぶたそうだとする。
 六句目。

   けぶたきやうに見ゆる月影
 弓ひきたくる勝相撲とて     舟泉

 今でも大相撲の取り組みの後に弓取り式を行うが、その起源はコトバンクの「百科事典マイペディア「弓取式」の解説」に、

 「相撲興行において,1日の最後の取組の勝力士に賞として与えられる弓を代人の幕下力士が受け取り,土俵上で縦横に振り回し四股(しこ)を踏む儀式。平安時代の相撲節会(せちえ)で,勝者の近衛側から舞人が登場し,弓を取って立合舞を演じたのが起源とされ,勝力士に弓を与えることは織田信長に始まる。江戸の勧進相撲では千秋楽の結びの3番の勝力士に,大関相当者に弓,関脇相当者に弦,小結相当者に矢1対を与えるようになった。のち次第に儀式化し,1952年1月場所からは毎日弓取式が行われることになった(三役の勝力士に対する弓,弦,矢の授与は千秋楽だけ)。」

とある。古くからあったようだ。月の下の相撲は、芭蕉の『奥の細道』の旅の山中三吟第三に、

   花野みだるる山のまがりめ
 月よしと角力に袴踏ぬぎて    芭蕉

の句がある。
 初裏、七句目。

   弓ひきたくる勝相撲とて
 けふも亦もの拾はむとたち出る  荷兮

 「たち出(たちいづ)」はやって来るの意味でも去って行く意味でも用いられる。
 「もの拾う」がよくわからない。土俵上には金が落ちてるとはいうが、弓だけでなく御ひねりとかもあったのか。
 八句目。

   けふも亦もの拾はむとたち出る
 たまたま砂の中の木のはし    冬文

 「木のはし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「木の切り端。取るに足らないつまらないものをたとえていう。
  出典徒然草 一
  「人にはきのはしのやうに思はるるよ」
  [訳] 人には木の切り端(つまらないもの)のように思われることよ。」

とある。
 例文の『徒然草』第一段は

 「法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。人には木の端のやうに思はるゝよと清少納言が書けるも、げにさることぞかし。」

とあり、その清少納言の『枕草子』第七段には、

 「思はむ子を法師になしたらむこそ心ぐるしけれ。ただ、木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。」

とある。
 昔は嫡男が家を継ぐと、それ以外の兄弟は出家させられることが多かったのだろう。無用な家督争いを避けるためで、曽我兄弟の箱王もそうなるはずだった。お寺というのは、そういう不要になった子息の捨て場所のようなものだったのだろう。
 前句の物を拾いに行く者を、そういう海辺に捨て去られて乞食暮らししているものとして、自らを木の端のようなものだからと自嘲する句としたか。
 九句目。

   たまたま砂の中の木のはし
 火鼠の皮の衣を尋きて      舟泉

 「火鼠の皮の衣」は『竹取物語』では右大臣阿倍御主人に課せられた「ゆかしき物」で、右大臣阿倍御主人は実在した人らしい。ウィキペディアに、

 「阿倍御主人(あべのみうし)は、飛鳥時代の人物。氏は布勢・普勢(ふせ)ともされ、阿倍普勢(あべのふせ)の複姓で記される場合もある。姓は臣のち朝臣。左大臣・阿倍内麻呂の子。官位は従二位・右大臣。
 壬申の乱における大海人皇子(天武天皇)方の功臣。天武朝から政治に携わると、持統・文武朝で高官に昇り、晩年には右大臣として太政官の筆頭に至った。平安時代初期に成立した『竹取物語』に登場する「右大臣あべのみうし」のモデルである。」

とある。
 その右大臣阿倍御主人は王慶という中国人に火鼠の皮の衣を探させたが、そこいらの砂の中の役に立たないものを送ってきたのだろう。いとあへなし。
 『竹取物語』の描写を見ると、火鼠ではないにせよ、それなりに高価な毛皮を染めたものだったのではないかとは思うが。
 十句目。

   火鼠の皮の衣を尋きて
 涙見せじとうち笑ひつつ     松芳

 前句の「火鼠の皮の衣」を恋の炎の着かない人、つまり冷たい人という意味に取り成したか。泣いても心動かさないような人なら、ただ笑って別れるしかない。
 十一句目。

   涙見せじとうち笑ひつつ
 高みより踏はずしてぞ落にける  冬文

 空から落ちたというと久米の仙人だが。
 墜落した時の痛みで涙が出そうだが、それをぐっとこらえて求婚したのだろう。
 十二句目。

   高みより踏はずしてぞ落にける
 酒の半に膳もちてたつ      荷兮

 宴会の途中でお膳を持って運ぼうとしたら、思ったよりも酔いが回っていたのだろう。

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