今日散歩していたら、山内図書館の前の河津桜が少し咲いていた。春は確実に来ている。
ステルスオミクロンと呼ばれたBA.2が日本にも入ってきているという。一月にヨーロッパで広がったオミ株のバリエーションで、ヨーロッパではすでにピークアウトしていて規制解除も始まっているから、そんなに心配することもない。
ヨーロッパで主流のSGTF検査では検出されにくいためにこの名前があるが、日本のPCR検査では検出されるという。これまでも入ってきていて、通常のオミ株として処理されてきた可能性もある。
あと、民族間の単純な嫌悪や対立、過去の怨恨などは有史以前から繰り返されてきたことだが、レイシズムは西洋人の発明だという認識で合っているかな。
民族間のわだかまりは感情レベルのものだから、状況によって大きく左右される。そのため、多民族の集まる貿易都市などでは、昔から民族を越えた友情も存在してきた。
また、たまたまやってきた異境の旅人を歓待する習慣もどこの民族にもあった。
レイシズムはこうした感情とは無関係に、疑似科学によって理性に働きかける仕方で拡大した。それは人類の平等と侵略戦争を両立させるための口実だった。
そのため、親しき友人だったユダヤ人を、感情を押し殺して、汝為すべしの定言命令に従ってナチスに渡すという矛盾したことをやっていた。
レイシズムは人間の自然の感情ではない。あくまでも偽造された理性の産物だ。こういうものは戦うのではなく、忘れることでその存在を消し去ることができる。
性差別やLGBTの問題でも基本は一緒だ。本来は誰しも持つ感情で、それを一つの思想として意識したら負けだ。「意識高い系」などという言葉があるのはそういう理由によるものだ。意識することで対立は逆に深まる。その対立のエネルギーを奴らは欲しがっている。
あらゆる差別の問題は理性の議題に乗せるよりも、個別の生存の取引の繰り返しで、妥協点を勝ち取ることを優先させた方がいい。人権団体も個々の問題解決のサポートに徹するべきだ。言葉刈りもサピア=ウォーフ仮説の亡霊で科学的根拠はない。
同性愛になまじっか「性同一性障害」なんて病名を思わせるような表現をするから、それで勘違いして病院へ行けだとか、治療しろなんていう連中が出て来る。
逆に敵はいかに意識させるかに腐心して、組織的なネットの炎上などを繰り返す。無視しろ。
第三次世界大戦を防ぐには、まず身近なところから対立を忘れさせることを考えろ。ガンジーは無抵抗非服従を説いたが、ポリコレに対しては無反論非服従が一番いい。
それではこの辺で宗長の『宗祇終焉記』でも読んでみようかと思う。まあ、これも歳旦から始まるし、季節的におかしくはない。
テキストは『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(一九九〇、岩波書店)による。
「宗祇老人、年比の草庵も物憂きにや、都の外のあらましせし年の春の初めの発句、
身や今年都をよその春霞」(宗祇終焉記)
宗祇は応永二十八年(一四二一年)の生まれで、
身や今年都をよその春霞 宗祇
の句は明応八年(一四九九年)の歳旦になる。
我身は今年、都以外の所で春の霞を見ることになる、という旅立ちの句になっている。「都の外のあらまし」の「あらまし」は、元は「こうあったら良い」という意味で、願望や計画を意味する。
金子金治郎著『旅の詩人 宗祇と箱根』(かなしんブックス、一九九三)によれば、明応八年正月四日種玉庵での百韻興行の発句になっていて、『実方公記』の明応八年正月六日の条にも見られるという。宗祇の数えで七十九歳の時になる。昔の人は誕生日が分からないので、正確な満年齢はわからない。
「年比(としごろ)の草庵」はこの発句による百韻興行が行われた種玉庵のことで、金子治金次郎著『宗祇の生活と作品』(一九八三、桜楓社)によれば、文明五年(一四七三年から一四七四年)秋・冬に京に居を定めてから、文明七年(一四七五年から一四七六年)十二月に『種玉篇次抄』を著しているので、その間に作られたという。(当時は旧暦なので、冬の場合は新暦正月を過ぎて翌年になっていることもあるので、一四七三年から一四七四年という書き方になる。)
応仁の乱(一四六七年)の起こる前年に宗祇は東国に下り、『吾妻問答』『白河紀行』などを書き表し、文明三年に東常縁(とうのつねより)から三島で古今伝授を受け、文明五年に美濃で古今伝授を終了し、その後京へ戻り種玉庵を開き、それから二十三年余り京を中心に活動する。
ただ、ずっと京にいたわけではなく、その間に何度も旅をしていて、文明十二年(一四八〇年)には九州へ行ったとこのことを『筑紫道記(つくしみちのき)』に記している。
「その秋の暮、越路の空に赴き、このたびは帰る山の名をだに思はずして、越後の国に知る便りそ求め、二年(とせ)ばかり送られぬと聞きて、文亀初めの年六月の末、駿河の国より一歩をすすめ、足柄山を越え、富士の嶺を北に見て、伊豆の海、沖の小島に寄る波、小余綾(こゆるぎ)の磯を伝ひ、鎌倉を一見せしに、右大将のそのかみ、又九代の栄へもただ目の前の心地して、鶴が岡の渚の松、雪の下の甍はげに岩清水にもたちまさるらんとぞ覚侍る。山々のたたずまゐ、谷(やつ)々の隈々、いはば筆の海も底見えつべし。」(宗祇終焉記)
明応八年正月四日の種玉庵での興行には宗長も参加していた。
ただ、鶴崎裕雄著『戦国を征く連歌師宗長』二〇〇〇、角川叢書によるなら、その後三月二十四日に三条実隆を訪ねて以降、消息がはっきりせず、駿河に帰ったものと思われる。この頃はまだ丸子の柴屋軒はなかった。柴屋軒は永正元年(一五〇四年)以降になる。
宗長は駿河国の出身で最初は今川義忠に仕え、寛正八年(一四六五年)に出家するがその後も義忠に仕えていたようだ(『戦国を征く連歌師宗長』による)。ここで関東下向した時の宗祇と出会い、師事することになる。
そういうわけで、宗長は応永八年の春以降の二年余りに渡って宗祇との接触はなく、宗祇の正確な足取りを知っていたわけではない。それが、「その秋の暮、越路の空に赴き、このたびは帰る山の名をだに思はずして、越後の国に知る便りそ求め、二年(とせ)ばかり送られぬと聞きて」という文章になっている。
実際に宗祇が越後へ旅立ったのは明応八年の秋ではなく、翌明応九年(一五〇〇年)の七月十七日だったという。明応九年の秋になる。
「帰る山の名」は、敦賀と越前の間の歌枕で、
我をのみ思ひつるかの浦ならは
かへるの山はまとはさらまし
よみ人しらず(後撰集)
こえかねていまぞこし路をかへる山
雪ふる時の名にこそ有りけれ
源頼政(千載集)
などの歌がある。宗祇の越後下向は二年ほどの滞在が予定されていて、すぐには帰らない、と宗長は認識していた。なお宗祇はそれまでも頻繁に越後に足を運んでいて、これが七度目だという。
宗長はその翌年の「文亀初めの年六月の末」に、越後へ向かう。
「文亀初め」は文亀元年で、明応十年(一五〇一年)は二月二十九日に改元して文亀元年となる。宗祇の発句から二年たっている。
駿河を出た宗長は、「足柄山を越え、富士の嶺を北に見て、伊豆の海、沖の小島に寄る波、小余綾(こゆるぎ)の磯を伝ひ、」という行程で、まず鎌倉へ向かう。 「足柄山を越え、富士の嶺を北に見て」は順序が逆になる。駿河国を富士の嶺を北に見ながら旅をして、足柄山を越える。この頃は足柄峠越えよりも箱根越えが主流になっていて、ここでいう足柄山も箱根のことと思われる。
「伊豆の海、沖の小島」は初島のことで、
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や
沖の小島に波の寄る見ゆ
源実朝(金槐和歌集)
の歌で知られている。
ただ、初島が見えるのは箱根山の南の十国峠を経て伊豆山へ抜ける道で、箱根峠から湯本へ抜ける道ではない。
小余綾(こゆるぎ)の磯は今の大磯で、
こよろぎの磯たちならし磯菜摘む
めざし濡らすな沖にをれ波
よみ人しらず(古今集、相模歌)
の歌で知られている。
そのあと宗長は鎌倉へ向かう。
「右大将のそのかみ、又九代の栄へ」は右大将源頼朝と、それを含む鎌倉幕府の九代の将軍を言う。といっても頼朝、頼家、実朝の三代の後は藤原九条家に移り、六代以降は親王が将軍となっている。
その昔の鎌倉の繁栄を目の前に見るような心地で、「鶴が岡の渚の松、雪の下の甍」などを見物する。
渚の松はそういう名前の特定の木があったのかどうかは定かでない。由比ガ浜は材木座海岸があるので、その辺りにはかつては松原があっただろうし、若宮大路もかつては松並木だったという。
雪の下は鶴岡八幡宮の辺りの地名で、鶴岡八幡宮の甍であろう。京の石清水八幡宮にも勝るというのも、鶴岡八幡宮を同じ八幡宮ということで比較しているから、渚の松も若宮大路の松だったかもしれない。
「山々のたたずまゐ、谷(やつ)々の隈々、いはば筆の海も底見えつべし。」と讃えているのも、鶴岡八幡宮の周辺の景色であろう。
「ここに八九年のこのかた、山の内、扇の谷(やつ)、牟楯(むじゅん)のこと出で来て、凡そ八ヶ国、二方に別れて、道行人もたやすからずとは聞えしかど、此方彼方知るつてありて、武蔵野をも分過ぎ、上野(かうづけ)を経て、長月朔日比に越後の国府に至りぬ。」(宗祇終焉記)
昔の鎌倉幕府九代を偲びつつ、現実に目を向ける。
八九年とあるのは長享の乱のことで、ウィキペディアに、
「長享の乱(ちょうきょうのらん)は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いによって上杉氏は衰退し、伊勢宗瑞(北条早雲)を開祖とする後北条氏の関東地方進出の端緒となった。」
とある。
ここ八九年、山内上杉と扇谷上杉との対立から、関八州が二分されている。「牟楯(むじゅん)」は矛盾のことで、ここでは楯と矛で争う状態をいう。
関東が敵味方に分断されている状態だから、これから越後に向かうにも通る道を選ばなくては、余計な争いに巻き込まれることになる。
これまでの連歌興行などで親しくしていた武将などの伝手を頼りながら、武蔵から上州を経て九月一日にようやく越後へ無事に辿り着くことになる。二か月以上かかったことになる。
ルートは特に回り道しなかったならば、鎌倉街道上道で高崎へ出る道であろう。『曽我物語』に、
「化粧坂をうち越え、柄沢・飯田をも過ぎ給ひ、武蔵国関戸の宿に着かせ給ふ。」
とある道で、そこから先は入間川を渡り児玉を経て高崎に至る。
そこから越後国府のある今の上越市直江津へ向かう。ルートはおそらく碓氷峠を越えて上田、長野を経由したのではないかと思う。直江津には上杉氏の居城である至徳寺館があった。
越後上杉氏は上杉房能(うえすぎふさよし)の時代だった。
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