2022年2月27日日曜日

 ロシアはオリンピックの終了に合わせて動き出したが、中国が動かないのはまだパラリンピックをやらなくてはならないからだろう。パラリンピックの終了と同時に中国も動き出す可能性がある。
 ロシアと中国の連携はオリンピック外交で確認済みだと思うし、何らかの密約があると思っていい。ジャンプ団体の銀メダルとワリエワさんの出場はその時のプレゼントだろう。
 トランプさんがプーチンは天才だと言ったのはよくわかる。筆者も思わず「敵ながら天晴」と言ってしまったからね。あの人の良い所は、とにかく何考えているかが分かりやすいところだ。だから背後の組織がなくても人間力で大統領になれたんだね。バイデンさんはわかりにくいというよりか、何も考えてないんじゃないかという気がする。
 若い頃一通り勉強して、何か分かった気になると、そこで思考を停止してしまう。そんな大人にはなりたくない。
 思うに、最初に人類が誕生した時には、どんなに強い奴でも大勢でかかればやっつけることができるというのを発見し、それで完全な「出る杭は打たれる」状態が生じて、レビ=ストロースの言う「冷たい社会」が生じた。
 完全な「出る杭は打たれる」状態では、誰も優位に立つことができない。これをマルクス主義者は原始共産制の理想社会とした。
 ところが、文明が発達すると、高度にして高価な武器が次々と発明され、この均衡は装備の差で覆された。つまり、最高の装備を持つ者は、容易に大量殺戮を行うことができる。そのため、最高の装備を持つ強者はもはや民衆の力では倒せない。
 それを覆して、独裁のない世の中を作ろうとするのがどんなに難しいことか。少なくとも発想をがらりと変える必要がある。
 救いがあるとすれば、核兵器は一人では作れないし、一人では管理も操作もできない。つまりある程度かなりの人数がないと、この破壊的な攻撃力のある武器は扱えない。ここに必ず弱点があるはずだ。
 とにかく、これまでにない発想が求められる。ロシアの脅威は迫っている。繰り返すが南泉斬猫のような一匹の猫の命がかかっているのではない。地球上の七十億人の命がかかっている。

 宗祇・宗長の『宗祇終焉記』の旅では直江津から草津に行くのに「信濃路にかかり、千曲川の石踏みわたり」とあるところから、長野を経由し、碓氷峠を越えて草津に入ったと思われる。
 これに対し々『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(一九九〇、岩波書店)に収録されている『北国紀行』の尭恵は直江津から柏崎へ行き、三国峠を越えて草津に入るルートを辿っている。
 時は文明十八年(一四八六年)の八月の末で、

 「明れば越後の府中に赴きて旅情を慰むる事数日になりぬ。八月の末には又旅立、柏崎といへる所まで夕越え侍るに、村雨打そそきぬ。

 梢もる露は聞けども柏崎
     下葉に遠き秋のむら雨

 かくて重れる山、連なれる道を過ぎ行程、曠絶無人ともいふべし。越後・信濃・上野の境、三国の峠といへるを越けるに、諏訪の伏拝みあり。

 諏訪の海に幣を散らさば三国山
     よその紅葉も神や惜まむ」(北国紀行)

 三国峠は今は国道17号線が通っている。十七号線は柏崎の方へは行かないが、小千谷でこの道筋に合流し、魚沼、湯沢を経て三国峠に出たのだろう。
 「曠絶無人」は『妙法蓮華経』に「譬如五百由旬、険難悪道、曠絶無人、怖畏之處。(譬えば五百由旬の険難悪道の曠かに絶えて人なき怖畏の處あらん。)とある。(ネット上の椿正美さんの「『妙法蓮華経』の譬喩表現に関する一考察」より)
 整備された街道ではなく、人通りも少ない険しい山道だった。
 今日の旧三国峠には御阪三社神社がある。上州の赤城神社、越後の弥彦神社、信州の諏訪神社の三社を祀っているというが、かつっては諏訪神社のみだったか。

 「重陽の日、上州白井といふ所に移りぬ。則藤戸部定昌、旅思の哀憐を施さる。十三夜に一続侍しに、寄月神祇、

 越ぬべき千年の坂の東なる
     道守る神月やめづらん」(北国紀行)

 上州白井は今の渋川氏白井で、享徳の乱の時に白井城が築城されたと推定されている。利根川と吾妻川の合流する辺りで、三国峠からだと沼田へ出て、そこから南へというルートであろう。重陽は九月九日。

 「これより桟路を伝ひて草津の温泉に二七日侍て、詞も続かぬ愚作などし、鎮守明神に奉納し、又山中を経て伊香保の出湯に移りぬ。雲を踏むかと覚ゆる所より、浅間の嶽の雪いただき、白く積り初て、それより下は霞の薄く匂へるごとし。

 なかばより匂へる上の初雪を
     浅間の嶽の麓にて見る」(北国紀行)

 渋川の白井城から草津というと、中之条、長野原経由か。鎮守明神は今の白根明神であろう。
 伊香保は渋川の近くだから、ここからそのまま戻っても行けるが、あえて山中を通っている。「雲を踏むかと覚ゆる所」だから、高山の稜線をたどる道であろう。
 白根明神に詣でたなら、草津白根山から今の白根硫黄鉱山跡に降りるルートか。そこから長野原に戻り、渋川の方から伊香保温泉へ行く。

 「一七日伊香保に侍りしに、出湯の上なる千嶽の道をはるばるとよぢ登りて、大なる原あり。其一方に聳たる高峰あり。ぬの嶽といふ。麓に流水あり。是を伊香保の沼といへり。いかにしてと侍る往躅を尋ねて分登るに、「から衣かくる伊香保の沼水を今日は玉ぬくあやめをぞ引く」と侍し京極黄門の風姿まことに妙なり。枯たるあやめの根、霜を帯たるに、まじれる杜若の茎などまで、昔むつましく覚えて、

 種しあらば伊香保の沼の杜若
     かけし衣のゆかりともなれ」(北国紀行)

 伊香保温泉から今度は榛名山に登る。「ぬの嶽」は今の榛名富士のことと思われるが、こういう古い呼び方があったのかどうかはよくわからない。榛名山にはいくつものピークがある。外輪山の掃部(かもん)ヶ岳が最高峰になる。
 ウィキペディアには、

 「山頂にはカルデラ湖である榛名湖と中央火口丘の榛名富士溶岩ドーム(標高1,390.3 m)がある。495年頃(早川2009)と約30年後に大きな噴火をしたと見られている。中央のカルデラと榛名富士を最高峰の掃部ヶ岳(かもんがたけ 標高1,449 m)、天目山(1,303 m)、尖った峰の相馬山(1,411 m)、二ッ岳(1,344 m)、典型的な溶岩円頂丘の烏帽子岳(1,363 m)、鬢櫛山(1,350 m)などが囲み、更に外側にも水沢山(浅間山 1,194 m)、鷹ノ巣山(956 m)、三ッ峰山(1,315 m)、杏が岳(1,292 m)、古賀良山(982 m)、五万石(1,060 m)など数多くの側火山があり、非常に多くの峰をもつ複雑な山容を見せている。」

とある。
 「麓に流水あり」は沼尾川のことであろう。榛名湖から流れていて、「伊香保の沼」はその榛名湖のこととされている。
 尭恵のこの辺りの旅は、むしろ登山を楽しんでいるといった風がある。当時の旅としてはやや例外的なものだったのではないかと思う。
 このあと尭恵は上野国府の長野の陣所に行く。上野国府は今の前橋というよりは新前橋に近い。利根川の西岸になる。
 その後は、佐野の舟橋へ行く。渡ったのではなく西岸を通り過ぎたのであろう。妙義山や荒船山が見えたことを記している辺りも、山好きだったことが窺われる。
 その次は深谷の庁鼻和城跡へ行く。この辺りは後の中山道、今の国道十七号線に近い道筋といっていいだろう。
 「其夜は弥陀と云所に明して」の弥陀は鴻巣市蓑田だという。次の「鳩が井の里」が鳩ケ谷だとすれば、後の中山道よりはやや東へ寄っている。おそらく千住の方を通って、今の鳥越神社のある台東区の鳥越に辿り着いたのだろう。鳥越は古代東海道の通り道で、武蔵国府(府中市)へ行く道と延喜式東海道の分岐点だったと思われる。
 鳥越にしばらく滞在している間には、湯島天神にも参拝している。
 この後、急に鎌倉山へと飛ぶので、その間のルートはわからない。尭恵の興味はもっぱら山だったようだ。

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