2022年2月19日土曜日

 去年の二月二十日の写真に、山内図書館前の満開の河津桜の写真があった。梅の花も遅いし、今年は花が咲くのが遅い。日差しは暖かくて体感温度は高くても、実際は気温の上がらない寒い日が続いている。
 ドネツクで既に戦闘が始まっているのか、それとも単なる偽装なのか。日本では情報が少ないし、ロシア側に偏っている。政治家もこういう報道を真に受けるから、外交判断を鈍らすもとになる。
 まあ、どのみち第三次世界大戦になっても、憲法で守られた日本の自衛隊に人権(参戦する資格)はないけどね。
 「戦争反対」というスローガンは自分の国には作用するが相手国には作用しない。それゆえ平和をもたらさないばかりか、かえって戦争を招くことになる。「核廃絶」も同じだ。相手国の核を増強させるだけだ。それゆえ鈴呂屋は言い続けます。「平和に賛成します」と。
 第二次大戦後の哲学者たちが必死になって哲学を終わらせようとしたのに、哲学の亡霊は今も世界を彷徨っている。亡霊は戦うべき相手ではない。供養して成仏させよう。「鬼神を敬して之を遠ざく(敬鬼神而遠之)」と昔の人も言っていた。
 あと鈴呂屋書庫に「生船や」の巻「酒の衛士」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。

 「宗祇見参に入て、年月隔たりぬる事などうち語らひ、都へのあらましし侍る折しも、鄙の長路の積りにや、身に患ふ事ありて、日数になりぬ。やうやう神無月廿日あまりにをこたりて、さらばなど思ひ立ちぬるほどに、雪風烈しくなれば、長浜の浪もおぼつかなく、「有乳(あらち)の山もいとどしからん」と言ふ人ありて、かたのやまの旅宿を定め、春をのみ待事にして明かし暮らすに、大雪降りて、日ごろ積りぬ。」(宗祇終焉記)

 直江津で宗祇と会うことができて、明応八年の春以来、お互いにいろいろあったことを話したのだろう。宗長は都へ帰る予定などを立てようとしたが、長旅の疲れで体調を崩していて、無駄に何日も過ぎて行った。
 宗長の病気の方は十月二十日過ぎた頃に良くなり、それでは都へと思い立った頃には、雪が激しく吹雪く状態だった。
 長浜は今の谷浜海岸だという。直江津の西にあり、長浜という地名が残っている。
 有乳(あらち)山は福井県敦賀市の南部の山で、

 有乳山雪ふりつもる高嶺より
     さえてもいづる夜半の月かげ
             源雅光(金葉集)
 有乳山裾野の浅茅枯れしより
     嶺には雪のふらぬ日もなし
             宗尊親王(新後撰集)

など、歌にも詠まれている。
 直江津でこの雪だと、有乳山はとても越えられないと言う人がいたので、春になるのを待つことになる。
 古代の駅路は敦賀市粟野から高島氏マキノの方へ抜けていたので、その間の黒河峠(くろことうげ)の辺りだと思う。
 文亀元年の十月二十日は新暦一五〇一年の十二月十日になる。この年は雪の降り始めるのが早かったのだろう。そのまま直江津は雪に埋もれて行くことになる。

 「此国の人だに、「かかる雪には会はず」と侘びあへるに、まして耐へがたくて、ある人のもとに、

 思ひやれ年月馴るる人もまだ
     会はずと憂ふ雪の宿りを」(宗祇終焉記)

 地元の人もこんな雪は見たこともないというくらい、記録的な大雪の年だったようだ。そこで宗長が歌を詠んで「ある人」に送る。
 「思ひやれ」は「想像してごらん」というような意味か。当事者ではなく、都にいる人か、あるいは読者全般に呼び掛けた感じがする。

 「かくて、師走の十日、巳刻ばかりに、地震(なゐ)大(おほき)にして、まことに地にふり返すにやと覚ゆる事、日に幾度といふ数を知らず。五日六日うち続きぬ。人民多く失せ、家々転び倒れにしかば、旅宿だにさだかならぬに、又思はぬ宿りを求めて、年も暮れぬ。」(宗祇終焉記)

 文亀元年十二月十日、新暦の一五〇二年一月二十八日、文亀越後地震が起き。ただ、当時の記録はほとんどなく、この『宗祇終焉記』が貴重な資料となっている。
 ネット上の「防災情報新聞」の記述も、

 「巳の刻(午前10時頃)、越後国(新潟県)南西部にマグニチュード6.5~7の強い揺れが襲った。
 当時、連歌の第一人者とうたわれた宗祇は、越後守護・上杉房能を訪ね国府(現・上越市)に滞在していたがこの地震に遭い「地震おほき(多き)にして、まことに地をふりかへす(ひっくり返す)にやとおぼゆる(覚ゆる)事、日にいくたび(幾たび)といふ(いう)かず(数)をしらず、五日六日うちつゞきぬ。人民おほくうせ(多く失せ)、家家ころびたふれ(倒れ)にしかば、旅宿だにさだか(定か)ならぬに、またおもはぬ(思わぬ)宿りをもとめ(求め)つゝ年も暮れぬ。」であったという。(出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧」、池田正一郎著「日本災変通志」、金子金治郎著「宗祇旅の記私注・宗祇終焉記・一 越後に宗祗を問ふ」)」

とあるのみで、これ以上の情報はない。
 この他にはネット上に石橋克彦さんの「文亀元年十二月十日(1502.1.18)の越後南西地震で姫川流域・真那板山の大崩壊が起きたか?」というPDFファイルがある。
 ここには、

 「標記の地震に関して信頼できる同時代史料は『宗祇終焉記(そうぎしゅうえんき)』と『塔寺八幡宮長帳(とうでらはちまんぐうながちょう)』だけである。
 それ以外に『会津旧事座雑考』、『新宮雑葉記(しんぐうぞうようき)』、『続本朝通鑑(ぞくほんちょうつうがん)』、『異本塔寺長帳』が掲げられているが、江戸時代の編纂史料であるし、有意な地震記事を含んでいない。」

とある。
 この論文によると、京都でこの地震が記録されてないことから、マグネチュード七近い地殻内地震ではなく、直江津周辺の直下型地震ではないかと推定している。それゆえ姫川流域・真那板山の大崩壊はこの地震によるものではない、としている。
 折からの大雪と重なったので、地震だけでなく、雪の重みも合わさって多くの家屋が倒壊したと考えられる。

 「元日には宗祇、夢想の発句にて連歌あり。

 年や今朝あけの忌垣(いがき)の一夜松

 この一座の次(ついで)に、

 この春を八十(やそぢ)に添へて十とせてふ
     道のためしや又も始めん

と賀し侍し。返し、

 いにしへのためしに遠き八十だに
     過ぐるはつらき老のうらみを

 おなじき九日、旅宿にして、一折つかうまつりしに、発句、

 青柳も年にまさ木のかづら哉」(宗祇終焉記)

 年が明けて文亀二年の元日(一五〇二年二月十八日)、宗祇の歳旦の発句がある。

 年や今朝あけの忌垣の一夜松  宗祇

 忌垣(いがき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「斎垣・忌垣」の解説」に、

 「〘名〙 (「いかき」とも。「い」は「斎み清めた神聖な」の意の接頭語) 神社など、神聖な場所の周囲にめぐらした垣。みだりに越えてならないとされた。みずがき。
  ※万葉(8C後)一一・二六六三「ちはやぶる神の伊垣(イかき)も越えぬべし今はわが名の惜しけくもなし」
  ※古今(905‐914)秋下・二六二「ちはやぶる神のいがきにはふ葛も秋にはあへずうつろひにけり〈紀貫之〉」

 この言葉は越えてはいけないという所で恋の比喩にも用いられる。『伊勢物語』第七十一段に、

 「むかし男伊勢の斎宮に、内の御使にてまゐりければ、かの宮にすきごといひける女、私事にて、

 ちはやぶる神のいがきも越えぬべし
     大宮人の見まくほしさに

 男、

 恋しくは来ても見よかしちはやぶる
     神のいさなむ道ならなくに」

とある。
 宗祇の発句は恋の俤はないが、初詣の習慣のない時代の忌垣は、越えてはいけない正月が来た、という意味合いが込められていたのではないかと思う。
 それは表向きには直江津に足止めされている自分が忌垣の中にいるみたいだという意味だが、前年の暮に震災があって、それに大雪も未だ終わらず、まだ正月を祝える状態でないのに正月が来てしまった、という思いがあったのであろう。
 一夜松はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一夜松」の解説」に、

 「① 伝説上の松。また、その伝承。菅原道真の没後、京都の北野神社に一夜で数千本の松が生えたとか、高僧の手植えの松が一夜で古木になったとかいうさまざまの伝承がある。
  ※俳諧・毛吹草(1638)五「洛中の門や北野の一夜松〈重頼〉」
  ② おおみそかに門松を立てること。これを忌む俗信が広く分布している。
  ※風俗画報‐一二号(1890)人事門「一夜松(ヤマツ)といふは縁喜あししとて大晦日には立てず」

とある。貞享五年(一六八八年)刊の貝原好古の『日本歳時記』では、晦日の所に「門松をたて」とあるから、一夜飾りを嫌うのは近代のことであろう。ここでは一夜にして北野天満宮に千本の松が生えた伝承を思い起こし、例文の重頼の句と同様の趣向で、こんな辛い中でもみんな松飾りをして、さながら千本松のようだ、という意味ではないかと思う。
 忌むべき出来事の後に新しい年が来て、さながら千本松のような奇跡を見る思いだったのだろう。東日本大震災の奇跡の一本松を思わせる。
 この発句で興行をしたついでに宗長が和歌を詠む。

 この春を八十に添へて十とせてふ
     道のためしや又も始めん
             宗長法師

 この正月をもって宗祇が数え八十二になったということで、この調子で九十まで生きる旅路の始まりになる、とその長寿を祝う。
 これに対し宗祇は、

 いにしへのためしに遠き八十だに
     過ぐるはつらき老のうらみを
             宗祇法師

 「いにしへのためし」は『旅の詩人 宗祇と箱根』(金子金治郎著)によれば、藤原俊成が九十の長寿を迎えた先例だという。永久二年(一一一四年)に生まれ、 元久元年(一二〇四年)に没した。
 八十まで生きてきたけど年を取るのは辛いことなので、そんな長くは生きたくない、というような返事だった。
 九日に一折(二十二句)の興行があり、その時の発句、

 青柳も年にまさ木のかづら哉  宗祇

の句があった。「まさ木のかづら」は、

 み山には霰降るらし外山なる
     まさきの葛色づきにけり
             よみ人しらず(古今集)

の歌がある。
 「まさ木」を「年にまさる」と掛けて、青柳も新しい年を迎えれば、去年の真拆(まさき)の葛(かづら)の色にも勝る、と新年を喜ぶ句とする。
 裏には、青柳とは言っても老木の我身は真拆の葛のようなものだという、含みがあったのかもしれない。真拆の葛は定家葛(テイカカズラ)のことだという。どちらも枝垂れる。

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