2022年2月26日土曜日

 山内図書館の前の河津桜はまだ二分咲き。
 途中に野菜を売りに来ている人がいて、ビーツが百円なので即買い。ボルシチはウクライナ料理だということで、ボルシチを食べてウクライナを応援しよう。
 グローバルな時代というのは、第一次大戦後に一度あったという。そして二度目が冷戦崩壊後、中国やロシアで開放政策が続いた時代。どちらの時代も独裁者によって終結し、大戦へと導かれて行った。それでも三度目はいつか必ず来るし、来させなくてはいけない。
 この二回の失敗は、いずれも独裁者の暴力に無力だったということだ。その失敗を踏まえて三度目の正直を勝ち取るためには、何らかの形で市場が独裁者を無力化できる手段を考えなくてはならない。
 さすがにグローバル市場が独自に軍隊を持つというのは無理だろう。その軍隊も独裁国家に勝てるほど強くなくては意味がない。どこの国の軍隊も市場に従わざるを得ないような状況を作り出す、という方向で考えた方がいいのか。
 戦争には金がかかる。その資金調達、武器の開発や購入、その辺りで市場が介入できるようなシステムを作れば良いのか。
 今のグーグルアースの技術なら、民間で世界中の軍隊の動きを捉えて、その情報を投資家に提供するサービスなんてのもできるかもしれない。戦争のリスクの高まった国から、すぐに資本を引き揚げることができる。
 とにかく、祈るだけでは戦争はなくならない。憲法や国際条約も破る奴がいたらそれで終わりだ。武器を持たない民衆の力なんてのも脆いものだ。もっと具体的に、戦争ができなくなるシステムを作り上げなくてはならない。鈴呂屋は平和に賛成します。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。最終回。

 『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』のテキストは、このあと、三条西実隆からの返信を掲載している。

 「三条西殿于時大納言、宗祇老人、古今・伊勢物語御伝授ありしかば、異他(ことのほか)思し召す上、いづれも残所侍らざりけるなるべし。都への望も今一度、彼御床敷のみなりしかば、沈入られし箱など遺物として上せまいらせ侍し。其御返事、臘月末に下着す。仍此奥に写とどむる者也。」(宗祇終焉記)

 ここまでは三条西実隆から返信があったことの前置きになる。
 三条西実隆は宗祇から古今集伝授と伊勢物語伝授を受けている。大納言の地位にある公家だが、地下の宗祇には少なからず恩を受けていた人だった。
 宗祇がいつかはまた京へという望みを持っていたことで、沈香の入った箱などの宗祇の異物を三条西実隆に送ったことで、そのお礼も兼ねた返事が十二月末に駿河の僧形の所に届いた。
 以下はその時の書簡になる。

 「去月五日、与五郎来候。大底物語候共候、殊更委細芳札、且散朦々畢。当年は必彼上洛被入候処、如此帰泉之条、老体雖存内事候、さり共今一度向顔も候べきやうに月日の過行候をも上の空にのみ数へ来候つるに、粗風聞候しかども、隔境之事候間、虚説にても候へかしなど念願候つるに、巨細(こさい)の芳書共に弥(いよいよ)催愁涙候。近日、宗碩上洛。其きはの事共演説候にも寂滅已楽の理、心易候。只数年隋逐折節の高恩共、就内外難忘候て、時々刻々砕丹心計候。併任賢察候。先々手箱送給候。封を開候にも、昔にかはらぬ判形など、くさぐさの名香共候。誠永き世の形見と覚え候ながら、

 玉しゐを返す道なき箱根山
     残る形見の煙だに憂し

と、覚候ままにて候。又金三両送給候。是又過分至極に候。

 我身こそ千々の金を報ひても
     思ふに余る人の恵みを

 ありがたく候。自他於今者在世の名残にも相構而無等閑弥可申通心中候。
 久病気散々式候。仍凍筆殊無正体不及巨細候。万端期後伝也。
           恐々敬白
   十二月七日         聴雪
     柴屋参る」(宗祇終焉記)

 水本与五郎から大体の話は聞いた。「巨細(こさい)の芳書」は『宗祇終焉記』を指し、涙ながらに読みました(催愁涙候)と感想を述べる。
 水本与五郎に続いて、最近宗碩も京に登って来て、臨終の時の様子を更に詳しく聞いた。
 宗祇にはいろいろ恩を受けていて、その上遺品の沈香も頂いて、これを「永き世の形見」としたいということで和歌を詠む。

  玉しゐを返す道なき箱根山
     残る形見の煙だに憂し
              三条西実隆

 箱根山から旅立った魂をもう戻すことはできない。この形見の香が煙になってしまうのは悲しいことだ。

 また香典として金三両を送る。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「両」の解説」には、

 「1) 量目の単位。令の規定では,1両を 16分の1斤=24銖 (約 16g) としている。 (2) 薬種の量目の単位。1両は4匁。 (3) 室町時代の金銀の量目の単位。金1両=4匁5分,銀1両=4匁3分。 (4) 江戸時代の金貨の単位。1両=4分=16朱。 (5) 中国の旧式銀貨の単位。」

とある。この(3)によると一両は四匁三分で、ウィキペディアには、

 「中国と韓国での単位名は「銭」であり、日本でも近代以前は銭と呼んでいたが、古くからの用例もあり大内家壁書の文明16年(1484年)の条項に「匁」の名が現れた。大内家壁書には、「金銀両目御定法之事」の項目に「こがねしろがねの両目の事は、京都の大法として、いづれも、一両四文半銭にて、弐両九文目たる処に、こがねをば、一両五匁にうりかう事、そのいはれなし。」と記されている。五匁銀。文字銀と同品位で量目は5匁(約18.7 g)あった。
 上記は文明16年(1484年)に室町幕府により金一両が公定された当時の文書であり、この金一両4.5匁は京目と称した。鎌倉時代後期頃より金一両は4.5匁、銀一両は4.3匁とする慣行が生まれ、銀1両=4.3匁とする秤量銀貨の単位が用いられるようになったが、江戸時代まで分銅の表記は「戔」であった。」

とある。
 江戸時代の貨幣価値についてはネット上でもいろいろ詳しいことが書かれていて、戦国末期も大体同じだっただろうという推定はなされているが、この時代のことはよくわからない。御教授願いたい。

 我身こそ千々の金を報ひても
     思ふに余る人の恵みを
              三条西実隆

 こんな三両ばかりの金(こがね)では足りないくらい故人からは恩を受けています。
 十二月七日付の書簡で、聴雪は三条西実隆の法名だという。
 これで『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』のテキストも終わる。
 最後に、筆者がまだ連歌のこともよくわからない頃、この『宗祇終焉記』を読んだ時に付けた愚句で、シリアス破壊ということにしておきたい。

   ながむる月にたちぞうかるる
 言の葉に結べる露のはてもなく  こやん

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