2022年2月23日水曜日

 そういえば一頃よくウクライナのフォークメタルとか聞いてたな。ウクライナだけでなく、ロシヤもベラルーシも。音楽には国境なんてなかったし、多分ミュージシャン同士は今でもそうなんだろうな。Тінь Сонця、ЧУР、Haspyd。パントゥーラの音とか入ってるものあったな。
 パンドゥーラといえば香月美夜さんの『本好きの下剋上』のアニメでは、フェシュピールの名前で異世界の楽器として登場してたな。
 ロシアのウクライナ侵略はコロナの混乱の一つの帰結だし、その意味ではコロナ以上に世界を変える可能性がある。ただ、コロナの時はまだ良い方に変わる可能性があったが、今回は悪い方にしか変わらない。
 アメリカの無力さが暴露されれば、中国や北朝鮮やイスラム圏の反米国家も動き出す。これはアメリカが世界の警察をやめるのとはまったく意味が違う。
 トランプ時代にアメリカが世界の警察をやめるというのは、アメリカが主に中東などの軍を撤収するもので、自由主義諸国の利益を守ることは当然ながらアメリカの国益につながるものだから、アメリカの同盟国である限りは問題なかった。
 ただここでロシアに破れれば、アメリカは自由主義諸国の利益を守れないばかりか、自分の国の利益も守れないということを暴露してしまうことになる。これは多くのフロンティア諸国に与える影響が大きい。
 ある程度の経済発展は、これまでも開発独裁による成功例があり、独裁体制でもそこそこの経済成長は可能だから、フロンティア諸国のアメリカ離れが起こるのは避けられない。既にかなり中国に侵食されている。
 そうなると、国連での勢力バランスが今以上に大きく中露に偏り、事実上中露に制圧される形になる。常任理事国ではフランスが寝返らなければ優位を保てるが、そこが一番危ない。
 グローバル市場が衰退しブロック経済に陥れば、経済圏の拡大を狙って絶えず侵略戦争が起こる状態になる。
 そうなると自由主義諸国でも軍事に多額の予算を割かなくてはならず、財政は悪化する。独裁体制に移行する国も出て来るだろう。
 世界経済は全体に停滞し、AIとロボットが働いてベーシックインカムで暮らすなんてことも、夢の彼方に遠のく。
 経済が停滞しても少産少死社会である限り、極度な貧困や飢餓は回避される。だが、それだけに命がけの暴力闘争を起こすにはリスクが大きく、民主化が困難になる。中国やロシアを見ればわかる。血と引き換えに自由を勝ち取る時代は終わっている。
 こうした中で、日本はピンチであると同時にチャンスでもある。日本はコロナでの混乱も少なく、社会主義者が勢力を伸ばすこともなかった。衰退する欧米文化と心中するつもりはない。
 日本が独自の文化を忘れないなら、たとえ中国に併合されたとしても、いずれは内側から中国を乗っ取ることになる。その時には日本の時代が来る。
 まあ、その前に米軍とNATOが速やかにウクライナ奪還作戦を行い、成功させるなら何の心配はないけどね。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。

 「足柄山はさらでだに越え憂き山なり。輿にかき入て、ただある人のやうにこしらへ、跡先につきて、駿河の境、桃園といふ所の山林に会下(ゑげ)あり。定輪寺といふ。この寺の入相のほどに落着きぬ。」(宗祇終焉記)

 足柄山は足柄峠の周辺だけでなく、箱根はもとより十国峠までの広い地域を指していた。
 国府津から宗祇を乗せてきた輿は、そのまま遺体を運ぶものとなり、急峻な箱根の山を越えていった。箱根越えのルートはよくわからない。鎌倉時代には湯坂を通る尾根道の鎌倉古道が用いられていたというが、この時代は既に畑宿を通る近世のルートがあったともいう。
 箱根峠から先も、かつては江戸時代のルートよりも北寄りの鎌倉古道を通っていたが、この時代はよくわからない。この頃はまだ山中城はなかったが、山中城が箱根越えのルートを監視するように立てられたとするなら、既に近世東海道と同じルートが主流だったのかもしれない。
 箱根峠を越えると、その反対側は伊豆国になり、国府のある三島に出る。それより先の黄瀬川が伊豆国と駿河国の境になる。
 桃園はその黄瀬川を北へ上って行った所にある。今のJR裾野駅のある辺りの黄瀬川の対岸が桃園で、そこには今でも定輪寺があり、宗祇の墓がある。
 湯本から一日がかりで箱根を越えて、日の沈む頃にこの寺までたどり着く。八月一日のことになる。

 「ここにて一日ばかりは何かと調えへて、八月三日のまだ曙に、門前の少し引き入りたる所、水流れて清し、杉あり、梅桜あり、ここにとり納めて、松を印になど、常にありしを思出て、一本を植へ、卵塔を立、荒垣をして、七日がほど籠居て、同じ国の国府(こう)に出侍し。」(宗祇終焉記)

 八月二日はいろいろ準備するものもあり、翌八月三日に埋葬し、初七日をここに籠って過ごす。そのあと駿河の国府(こう)、江戸時代は府中宿があった今の静岡駅の方へと向かう。
 宗祇の埋葬は定輪寺の裏の山林で行われた。「水流れて清し、杉あり、梅桜あり」という清浄の地で、、ここに松の木を一本植えて、卵塔を建て、荒垣で囲った。
 卵塔は無縫塔とも呼ばれ、ウィキペディアには、

 「無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。」

とある。
 残念ながら、宗祇の埋葬地は東名高速道路の建設によって失われ、宗祇の墓は境内に移動させられたという。

 「道の程、誰も彼も物悲しく、ありし山路の憂かりしも、泣きみ笑ひみ語らひて、清見が関に十一日に着きぬ。夜もすがら礒の月を見て、

 もろともに今夜清見が礒ならば
     と思ふに月も袖濡らすらん」(宗祇終焉記)

 この頃はまだ薩埵峠がなく、富士川を渡って由比から興津へ抜けるルートは海岸沿いで、高波が来ると通行できなくなることから、清見が関には「波の関守」がいると言われていた。
 その清見が関で十一日の月を見ての宗長の一首になる。一緒に越えるはずだった清見が関も、今はいない。この磯から見える奇麗な月も、悲しくて涙が出て来る。

 「かくて国府に至りぬ。我草庵にして、宗碩・水本「あはれ、これまでせめて」などうち嘆くほかの事なし。十五夜には当国の守護にして一座あり。」

 国府(こう)は今の静岡。後に徳川家康が駿府城を建てるが、それ以前はここに今川館があった。宗長もかつては今川義忠に仕えていたが、この時は息子の今川氏親の時代だった。東胤氏を迎えに出したのも、この氏親だったのだろう。
 前にも述べたが、宗長が丸子(まりこ)に柴屋軒を構えるのは永正元年(一五〇四年)で、これより二年後のことになる。この時の「我草庵」は今川館からそう遠くない所にあったのだろう。
 伊香保で宗祇・宗碩・宗坡の三吟があったので、宗碩もこの旅にずっと同行してたようだ。
 水本は『旅の詩人 宗祇と箱根』の金子注に、

 「水本与五郎は、宗祇の従者で、この後、「終焉記」を携えて上洛し、諸方の連絡にあたっている。」

とある。
 十五夜の名月には守護の今川氏親の主宰する連歌会が行われた。

 「かねて宗祇あらましごとの次に、「名月の比、駿河の国にや至り侍らん。発句などあらばいかにつかうまつらん」と苦しがられしかば、去年の秋の今夜(こよひ)、越後にしてありし会に発句二あり。一残(ひとつのこ)り侍る由、あひ伴ふ人言へば、「さらばこれをしもこそつかうまつらめ」など侍りけるを、語り出づれば、それを発句にて、

 曇るなよ誰が名は立たじ秋の月 宗祇
   空飛ぶ雁の数しるき声   氏親
 小萩原朝露寒み風過て     宗長」(宗祇終焉記)

 宗祇が越後で、これから駿河の方に向かうということで、氏親との間に連歌会の約束があったのだろう。旅の途中で、駿河の国に着くのが名月の頃なら、その時の発句はどうしようかと心配していた。
 その時従者の一人が、去年の越後の連歌会で発句を二つ作っておいたその一つが残っていると進言していたので、それを採用する。
 発句を事前に作っておいて、それを連歌会の前に当座の亭主に伝え、脇をあらかじめ用意させるというのは、連歌会では一般に行われていた。当日の天候の変化などを踏まえて、予備の句を用意しておくこともあった。これはおそらく当日曇った時に備えて作った句だろう。

 曇るなよ誰が名は立たじ秋の月 宗祇

 曇らないでくれ、秋の月だからといってもバレて困るような恋なんて、この年では無理なんだから、といったところか。
 折からの追悼の連歌会になってしまい、この句は、悲しみの涙で曇らないでくれ、という意味に変わり、「誰が名は立たじ」も恋の情から死者の名を立ててくれという意味に取り成される。
 氏親の脇は、

   曇るなよ誰が名は立たじ秋の月
 空飛ぶ雁の数しるき声     氏親

で、空を沢山の雁が悲しい声を上げて飛んでいます、と付ける。月夜に雁は付け合いで、空飛ぶ沢山の雁を残された自分たちに見立てて、みんな悲しんで泣いています、と弔意で応じる。
 第三。

   空飛ぶ雁の数しるき声
 小萩原朝露寒み風過て     宗長

 ここは弔意を離れて、前句の雁に小萩原の朝露を添えて、夜明けの景色へと展開する。

 「同じ夜侍し一続の中に、寄月恋旧人を云題にて、

 ともに見ん月の今夜を残しおきて
     故(ふる)人となる秋をしぞ思ふ
             氏親

 宗祇を心待ち給しも、その甲斐なきといふ心にや。」(宗祇終焉記)

 連歌会の前に和歌をみんなで詠んだのであろう。
 一続は『旅の詩人 宗祇と箱根』の金子注によれば続歌(つぎうた)のことだという。ジャパンナレッジの「日本国語大辞典」には、

 「(1)短冊を三つ折りにして、題を隠したまま各自短冊を分け取って、その場で歌を詠むこと。中世以降に流行し、三十首、五十首、百首から千首に及ぶことがある。また、それを披講する歌会をもいう。多く探題(さぐりだい)形式で詠まれた。
  *右記〔1192〕「次当座続歌探題等哥。数多不〓可〓詠〓之」
  *吾妻鏡‐建長三年〔1251〕二月二四日「於〓前右馬権頭第〓、当座三百六十首有〓継歌〓」
  *尺素往来〔1439〜64〕「天神講七座并詩歌続(ツキ)歌一千首。和漢連句十百韵」
  *御湯殿上日記‐文明九年〔1477〕一一月二二日「みなせの御ゑいへ、みやうかうの御つきうた五十しゆ」

とある。その続歌の題の一つに「寄月恋旧人」という題で、恋の情を添えて故人を偲ぶというのがあった。その時の今川氏親の詠んだ和歌は、

 ともに見ん月の今夜を残しおきて
     故人となる秋をしぞ思ふ
             氏親

で、宗祇とともに見るはずだった月を、今一人で見る。そのままの心だ。

 「又、ありし山路の朝露を思ひ出でて、

 消えし夜の朝露分くる山路哉  宗長

と云上句をつかうまつりしに、下句、

 名残過ぎ憂き宿の秋風     宗碩

 これを宵居のたびたびに百句につかねて、せめて慰む灯火のもとにて、かれこれ去年今年の物語し侍るを、記し付侍るものならし。」(宗祇終焉記)

 この時の興行とは別に、宗祇の棺とともに箱根湯本を発った時のことを思い起こして、

 消えし夜の朝露分くる山路哉  宗長

という発句を何となく詠んでみたのだろう。これに宗碩が脇を付ける。

   消えし夜の朝露分くる山路哉
 名残過ぎ憂き宿の秋風     宗碩

 これを毎晩少しずつ句を付けて行って、最終的に百韻にする。亡き宗祇を偲んでのことだった。

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