2022年2月21日月曜日

 今日もまだ寒いけど良い天気で、有馬梅林公園から大棚中川杉山神社の方へ行き、中川八幡山公園を通って帰った。いつもよりは少し距離のある散歩となった。
 梅はあちこちで咲いていたが、有馬梅林公園の梅が咲きそろうのはもう少し先かな。中川八幡山公園には河津桜があったが、やはりまだぽつりぽつりと咲き初めている状態だった。
 バイデンさんとプーチンさんの会談、何か落としどころがあるのかな。こういうときトランプさんだったら、何か面白い取引でも思いつきそうだけど、CIAも失敗したと思ってるかな。ただでさえ民主党は思想で突っ走りそうだし。
 今の人権はマイノリティーのためのもので、マジョリティーに人権はないという考え方が支配的だが、人権の原点は違っていたと思う。
 本来はスポーツと同様、同じルールの下で公正な競争を行う権利だったんではなかったかと思う。
 生存競争というものが、たとえ少産少死でかなり緩くなってイージーモード社会になったとはいえ、完全になくすことができないのであれば、「同じルールの下で公正な競争を行う権利」は基本的人権の定義といっていいのではないかと思う。
 ただ、世界中にはその民族伝統宗教の違いから、様々なルールがある。国際ルールはそれらの個別文化のルールで決めることはできない。基本的には科学と経済に基づくもののみが可能になる。
 また、ハンディというのはスポーツにおいても認められているもので、それも身体的生物学的特性に於いて定められなくてはならない。ただ、ハンディは競争を公正にするための手段であり、優先権ではない。それを間違えないことだ。
 今の人権思想は富の再配分と同じ発想で、巨大な権力がマジョリティーの権利を剥奪してマイノリティーに分配するというモデルを作り上げている。基本的に社会主義独裁国家の発想で、その根はプラトンの哲人政治にある。
 そういえばプラトンは、哲学者にオリンピックの優勝者と同様の歓待を要求してたっけ。プラトンもレスリングの選手だったというが、実力はどの程度だったか。競争で勝てない奴が独裁者になりたがる。競争のない社会は完全な独裁体制だ。
 なお、プロレスで言うツープラトンはレスリング選手時代のプラトンが二人がかりで攻撃したところから来ている、という説もあるが、知らんけど。

 それでは「宗祇終焉記」の続き。

 「文月の初めには武蔵国入間川のわたり、上戸と云処は今山の内の陣所なり。ここに廿日余りがほど休らふ事ありて、数寄の人多く、千句の連歌なども侍し。」(宗祇終焉記)

 「文月」は他本に「六月」とあり、その後の日程をみると「六月」が正しいと思われる。
 上戸は今の東武東上線霞ケ関駅の北側で、今の常楽寺の辺りには、かつて山内上杉家の上杉顕定の上戸陣があった。ウィキペディアに、

 「戦国時代初頭の長享の乱の際に関東管領上杉顕定が河越城を攻撃するために7年にわたってこの地に陣を構えた(上戸陣)。」

とある。時はまさに、「ここに八九年のこのかた、山の内、扇の谷(やつ)、牟楯のこと出で来て、凡そ八ヶ国、二方に別れて」と冒頭にあったように、長享の乱のさなかだった。
 鎌倉街道上道からは多少それることになるので、宗祇宗長ら一行はこの上杉顕定に招待されたのであろう。連歌千句興行が行われている。

 「三芳野の里、川越に移りて十日余りありて、同じき国江戸といふ館にして、すでに今はのやうにありしも、又とり延べて、連歌にもあひ、気力も出でくるやうにて、鎌倉近き所にして、廿四日より千句の連歌あり。廿六日に果てぬ。」(宗祇終焉記)

 三芳野(みよしの)は武蔵の国の地名で、川越と所沢の間に三芳町があるくらいだから、かなり広い地域を表していたのだろう。古代東山道武蔵路の東側に当るが、鎌倉街道上道のルートはそれより西で、かなり外れることになる。
 『伊勢物語』第十段にも、

 みよし野のたのむの雁もひたぶるに
     君が方にぞ寄ると鳴くなる

 わが方に寄ると鳴くなるみよし野の
     たのむの雁をいつか忘れむ

という歌を交わす場面がある。
 川越には三芳野神社があり、ウィキペディアには、

 「三芳野神社(みよしのじんじゃ)は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。」

とある。川越城に関してはウィキペディアに、

 「鎌倉公方であった足利成氏は、自身が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢によって制圧されてしまう。足利成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総国古河に拠点を構えた事から以後古河公方と呼ばれ、室町幕府の支持を得た上杉氏と関東を二分する争いになった。
 武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。」

とある。
 先の上戸陣はこれに対抗して作られたものだった。宗祇宗長ら一行は川向こうの敵陣に向かったことになる。こういうあたりから、連歌師が敵対する大名の間を取り持つ外交的な役割も果たしていたのではないか、とも言われている。
 ただ、それは睨み合っている間だけで、本当に軍が始まると、ほうほうのていで逃げ出すことになる。宗長の『東路の津登』にはそのことが書かれている。
 まあ、武将は両方とも良いお得意さんだというだけで、軍を止める力など求める由もなかったのだろう。
 宗祇宗長ら一行はここで十日滞在した後、同じ太田道灌築城の江戸城に行くことになる。おそらくこの二つの城を繋いだのが川越街道の始まりだったのだろう。川越が小江戸と言われるのも、この時代にまで遡れるのかもしれない。
 この道中で宗祇の病状はかなり悪化し、「今(いま)はのやうに」というくらいだから命も危ない状態になったのだろう。「いまは」は本来別れの挨拶で、「今はしばし別れむ」という意味で、今の言葉だと「じゃあ」と言って別れるような感覚だったのだろう。「さよなら」も「左様なら」から来た言葉だから似ている。
 ただ、別れの言葉は永遠の別れを表すのにも転用されるため、最初は軽い意味で用いられていた言葉も、使われているうちに重い意味になってきてしまい、別の軽い言葉に取って代われるようになる。英語もFarewellからgood byになりsee youへと変わってきている。
 江戸城に着いてから、病状も持ち直し、連歌興行も行われる。大阪に着いた時の芭蕉を思わせる。病気を押して、かなり無理をしていたのだろう。
 この後鎌倉近き所へと向かう。
 「鎌倉近き所」は金子金治郎著『旅の詩人 宗祇と箱根』によると、横浜市神奈川区の権現山城だという。京浜急行神奈川駅の近くにある。江戸と鎌倉の中間付近で、あまり鎌倉に近いという感じはしない。
 権現山城は鎌倉街道下道からは外れた所にある。下道を通って、途中から分岐したか。ひょっとしたらこの権現山城への道として、近世の東海道の道筋が付けられたのかもしれない。近世東海道の神奈川宿もこの辺りになる。
 同書によると、三条西実隆の歌日記『再昌草』の文亀二年九月十六日条に、「此国の守護代うへ田とかやが館にて、廿四日より千句の連歌ありて、廿六日にはて侍しかば、廿七日に彼所をたちて、湯もとの湯に入て」と記されているという。
 相模国守護代の上田正忠の後継者の上田政盛だという。ウィキペディアに、

 「上田政盛(うえだまさもり)は、戦国時代の武将。扇谷上杉家の家臣。相模国守護代・上田正忠(政忠)の後継者と推定されている。ただし、黒田基樹は、「政盛」の実名は軍記物に現れるのみでかつ近世初期までに成立したものに見られないことからこれを採用できないとしている。」

とある。確かに『再昌草』にも上田とあるだけで名前がない。となると、誰なんだということになる。
 そのウィキペディアには、

 「長享元年(1487年)からの長享の乱で活躍し、対立する山内上杉家領であった神奈川湊を支配下に置くが、永正2年(1505年)に主家が山内上杉家に降伏したためにこれを奪われる。これを恨んだ政盛は永正7年(1510年)6月、当時相模西部を制圧していた伊勢宗瑞の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城(現在の神奈川県横浜市神奈川区)で挙兵した。」

とある。扇谷上杉方に着いていたのなら、ここも川越、江戸と太田道灌の元で興行を行ったその延長になるのか。

 「一座に十句、十二句など句数も此ごろよりはあり。面白き句もあまたぞ侍し。此千句の中に、

 今日のみと住む世こそ遠けれ

と云句に、

 八十(やそぢ)までいつか頼みし暮ならん
   年の渡りは行く人もなし
 老の波幾返りせば果てならん

 思へば、今際(いまは)のとぢめの句にもやと、今ぞ思ひ合せ侍る。」(宗祇終焉記)

 千句興行は連衆の人数もそれなりのものだったのだろう。百韻一巻に十句、十二句はそんなに多い感じはしないが、体調を考えるとかなり頑張ったのだろう。
 その中の句に、

   今日のみと住む世こそ遠けれ
 八十までいつか頼みし暮ならん 宗祇

 述懐の句で、今日を限りに世を捨てて出家しようと思ったあの時から、もうかなり長いこと経ってしまったという前句に、いつかはと期待しながらついに八十二までなってしまった、と付ける。
 八十は宗祇の年齢の八十二なのもあるが、釈迦入滅の年齢という特別な年齢でもある。明応八年(一四九九年)三月の宗祇独吟何人百韻の四十三句目に、

   きけども法に遠き我が身よ
 齢のみ仏にちかくはや成りて  宗祇

の句がある。

   年の渡りは行く人もなし
 老の波幾返りせば果てならん  宗祇

 「年の渡り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「年の渡り」の解説」に、

 「① 一年が経過すること。一年の間。
  ※万葉(8C後)一〇・二〇七八「玉葛絶えぬものからさ寝らくは年之度(としのわたり)にただ一夜のみ」
  ② (牽牛・織女が)一年に一度、天の川を渡ること。《季・秋》
  ※源氏(1001‐14頃)松風「としのわたりにはたちまさりぬべかめるを」
[補注]①の「万葉」例は、②の意にも掛けて用いる。」

とある。前句は七夕の句だったか。それを①の意味に取り成して、今年もまた一年が経過して、自分一人の他に行く人も無い孤独な生活を送っているとし、よる年波をこれから何度繰り替えすれば終わるのだろうか、と付ける。
 年取るのは孤独なもので、いつまで生きなくてはいけないのか、という老いの嘆きの句になる。
 宗長が「思へば、今際(いまは)のとぢめの句にもや」と思う、この「とぢめ」は臨終の意味。
 この頃は辞世というと和歌を詠むもので、

 老の波幾返りせば果てならん
     年の渡りは行く人もなし

とすると、なるほど辞世の歌のようにも聞こえる。「行く人もなし」が自分ももう次の年へと渡ることはない、これまでだ、と言っているとも取れる。

0 件のコメント:

コメントを投稿