2022年2月28日月曜日

 どうやら想像以上にウクライナ軍の士気が高く、ロシア軍が難航している。これは大きな希望だ。プーちんがいくらイキってもウクライナ一つ落とせないというのなら、ロシアの威信は失墜し、国民の怒りは爆発するし、中国側も「使えねーな」ってなる。
 ロシアが弱体化したらシーもネルチンスク条約の領土を返せとか言いそうだな。その時は日本も北方領土奪還のチャンスだ。
 ただ、ロシアが崩壊して西側に落ちるとなるとシーとしては面白くない。パラリンピック終了まで時間を稼げれば、中国参戦も考えらる。
 あともう一つ考えたくない想定だが、ロシアの起死回生の一撃があるかもしれない。それは、いったんロシア軍を引き揚げ、ロシア系住民に退去を命令し、勝利に湧き立つキエフを核攻撃するというシナリオだ。NATO加盟国の主要都市を核攻撃したなら、バイデンもかなり躊躇しながらも、最終的にモスクワを火の海にするかもしれない。だが、今のアメリカだとキエフならスルーする可能性が高い。
 NATOや米軍が手を出さないのは、ロシアはせいぜいウクライナ止まりだという想定によるものではないかと思う。ウクライナの先を狙っているなら、手を出さなくても早かれ遅かれ第三次世界大戦になる。そこをどう判断するかだな。
 維新の会はせっかく乗ってたのに、親ロシア発言はまずかったな。橋下さんは時々付く所を間違える。俺もウクライナへ行って戦うぞーとかやってくれたら人気出たのに。
 まあ、今や世界の命運がウクライナ軍に掛かっているといってもいい。ウクライナに足を向けては寝れない。

 それでは俳諧の方に戻り、『阿羅野』の初春の発句の続きを見てみよう。旧暦の一月(初春)もあとわずか。

   当座題

   さし木
 つきたかと兒のぬき見るさし木哉 舟泉

 挿し木が根付いたかどうか、抜いて確かめたんじゃ、いつまでたっても根付かない。
 でも似たようなことって、ついついやってしまうものだ。稚児が勉強していると、何度も「勉強してるか?」といって顔出して、かえって勉強の邪魔になるし、それがうざくてやる気をなくす。教訓とすべし。

   接木
 つまの下かくしかねたる継穂かな 傘下

 継穂(つぎほ)は台になる木に継ぐ若芽の方を言う。
 「つま」があえて平仮名標記なのは、「妻(つま)」と「端(つま)」を掛けているからだろう。
 端(つま)は家屋の軒のことで、屋根の形状で切妻(きりつま)というのがある。その屋根の端の下に隠すことのできない接ぎ木がある、というのだが、何で隠しているのかよくわからない。妻が隠している、というと密かに育てているという意味になる。
 そうなると、この「継穂」は隠し子の連想をさそうことになる。

   椿
 暁の釣瓶にあがるつばきかな   荷兮

 椿は花びらが一つ一つ散らずに、花ごとぼとっと落ちる。朝一番に釣瓶に汲んだ井戸の水に、それが浮かんでいる。

   同
 薮深く蝶気のつかぬつばき哉   卜枝

 椿は厚葉樹(あつばき)とも呼ばれるように、分厚い葉っぱの茂る中に咲く。そのため、椿の木は薮に埋もれやすく、よく見ないと咲いている花を見落とす。
 それを蝶だって気付かないのではないか、と俳諧にする。

   春雨
 はる雨はいせの望一がこより哉  湍水

 望一(もいち)はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「望一」の解説」に、

 「1586‐1643(天正14‐寛永20)
  江戸前期の俳人で,伊勢俳壇の指導者。〈もういち〉ともいい,望都,茂都とも記す。姓は杉木。伊勢山田の人,また一志の人とも。伊勢神宮の師職家中でも文芸愛好者の多い杉木一族に生まれ,盲人で勾当(こうとう)の官位を得た。作風は平凡だが,その《伊勢俳諧大発句帳》が《犬子(えのこ)集》の基盤をなすなど俳諧史的意義は軽視できない。作品は《望一千句》(1649),《望一後千句》(1667)など。〈花に来ぬ人笑ふらし春の山〉(《毛吹草》)。」

とある。
 こよりは「こより文字」のことであろう。紙を細く撚った糸のようなものを紙の上に張り付けて、盲人でも読めるような立体文字にする。
 ただ、紙に紙を張ってあるだけなので、晴眼の人には何が書いてあるのかよくわからない。
 霧のように細かい春雨はこより文字のようなもの。

   同
 春の雨弟どもを呼でこよ     鼠弾

 これは「花の弟」であろう。梅を花の兄というが、春の雨はそれに次いで咲く様々な花を連れて来る。
 なお、「花の弟」と言った場合に、一年の終わりに咲く花という意味で菊を意味することもある。正確には花の末子というべきだろう。

   白尾鷹
 はやぶさの尻つまげたる白尾哉  野水

 白尾鷹は「精選版 日本国語大辞典「白尾の鷹」の解説」に、

 「鵠・鶴などの白い羽を用いて継尾(つぎお)をした鷹。《季・春》
  ※新撰菟玖波集(1495)雑「身をわするるや恋のことはり つみそともしらす白尾の鷹すへて〈西園寺実遠〉」

とある。
 鷹狩はイヌワシ、オオタカ、ハイタカなどともに、ハヤブサも用いる。他の鷹に比べて尾が短いために、白尾が裾をつまんで足がのぞいているみたいに見える。

 「当座題」はここまでで、ここから先は「初春」の続きになる。

 蛛の井に春雨かかる雫かな    奇生

 蛛(くも)の井(ゐ)は蜘蛛の囲で蜘蛛の巣のこと。
 春雨は目に見えなくくらい細い雨だが、蜘蛛の巣に掛ると雫になって、その姿が見える。

 立臼に若草見たる明屋哉     亀助

 作者の所に「十一歳」とある。『去来抄』「修行教」には「蕉門の発句は、一字不通の田夫、又は十歳以下の小児も、時によりては好句あり、却而他門の巧者といへる人は覚束なし。」とあるが、一応十歳は越えている。
 立臼は地上に設置した臼で、餅などを搗くのに使う。空家になって庭に放置されたままになっていて、それが若草に埋まっている。立臼は大きなもので、木製だとすぐに腐って使い物にならなくなるから、誰も持って行こうとしなかったのだろう。
 立臼は背の低い太った女の比喩としても用いられるから、本物の臼の方もそう背の高いものでなく、そのために草に埋もれて行く。
 荒れ果てた庭は『伊勢物語』の「月やあらぬ」の情を引き起こし、寂び色があるが、狙ってない所がいい。

 すごすごと親子摘けりつくつくし 舟泉

 「すごすご」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「すごすご」の解説」に、

 「① 気おちして元気のないさま、また、ひとりわびしく、しょんぼりとしているさまを表わす語。
  ※金刀比羅本保元(1220頃か)中「維行力及ばずして只一騎すごすごとぞひかへたる」
  ※仮名草子・可笑記(1642)二「其方はいつ来て見るにも、ただひとりすごすごとして、友なひあそぶ人もなし」
  ※苦の世界(1918‐21)〈宇野浩二〉五「両国からすごすごと乞食のやうに電車のすみに乗って」
  ② 特に、移動する状態で、元気なくその場を離れるさまを表わす語。
  ※車屋本謡曲・放下僧(1464頃)「放下の姿に身をやつして、さもすごすごと立ち出づる」
  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「追立てられ、すごすごと帰りけるが」

とある。
 今日の子どものレジャーのような土筆摘みではなく、貧しい親子の生活のための土筆摘みであろう。ミレーの「落穂ひろい」のような哀愁が漂っている。

 すごすごと摘やつまずや土筆   其角

 「土筆」だけで「つくつくし」と読む。土筆を摘みに行かされた子供だろうか。あまりやる気はなさそうだ。土筆をあまりたくさん摘んでしまっても、次は袴取りが待っている。

 すごすごと案山子のけけり土筆  蕉笠

 「すごすごと」は摘む姿ではなく、案山子をのける姿になる。収穫期が終わったのに残っている案山子は、確かに邪魔なだけだ。

 土橋やよこにはへたるつくつくし 塩車

 土橋は木橋の上に土を盛った物。土橋の横の方にも土筆が生えていて、こんな所にも、という生命の逞しさを感じさせる。

 川舟や手をのべてつむ土筆    冬文

 水辺の土手の土筆は、川を行く小舟から手を伸ばして摘む人がいる。

 つくつくし頭巾にたまるひとつより 青江

 たまたま土筆を見つけて一本摘んだものの、容れ物がなく、頭巾を脱いでそこに入れてゆくと、いつの間に頭巾がいっぱいになる。
 春で暖かくて頭巾も要らないくらいだ、という意味もある。
 土筆を生活の一部としない、ただ春の珍しさに摘んでいくだけの隠者であろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿