2022年2月6日日曜日

 今日からまたオリンピックモードで、朝の更新にします。
 昨日はあれからアイスホッケー女子を見た。なかなか圧倒的な攻撃で二連勝。
 次はフリースタイル男子モーグル。堀島、予選十五位からよくやった。大逆転だ。
 思うに、今回は滑り過ぎる雪に臆せず突っ込んで行った所に勝機があったんだと思う。堀島さんは最初の失敗で慎重にならずに、滑り過ぎる雪をいかに克服するかに試行錯誤をした結果ではないかと思う。
 スポーツはやっぱ攻めなきゃだめだなと思った。スポーツとは同じルールに於いて勝利のために全力を尽くすこと。金メダルを狙ってこそ銅も取れる。銅でもいいと思ったら入賞も難しい、そういう世界なんだと思う。東京オリンピックの岡本さんも、そういう気持ちで難易度の高い技に挑戦し続けたのだと思う。惜しくも四位だったけど。
 まあ、今回の大会は平和だの人権だの大義名分のまったく不毛な大会だから、みんな強欲に勝利のことだけを考えてほしい。

 それでは「遠浅や」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   歌うたふたる声のほそぼそ
 むく起に物いひつけて亦睡り   野水

 歌を歌っていたら眠ってた奴が急にむくっと起きて「うるさい」と言うとまた眠る。しょうがないから小声でまた歌う。
 二十六句目。

   むく起に物いひつけて亦睡り
 門を過行茄子よびこむ      荷兮

 門の前を茄子売りが通ったので飛び起きて、呼び止めて、茄子を買ってからまた眠る。
 二十七句目。

   門を過行茄子よびこむ
 いりこみて足軽町の薮深し    亀洞

 足軽はウィキペディアに、

 「戦乱の収束により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった。
 江戸幕府は、直属の足軽を幕府の末端行政・警備警察要員等として「徒士(かち)」や「同心」に採用した。諸藩においては、大名家直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用それに「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた。足軽は士分と厳しく峻別され、袴や足袋を穿けないなど服装で分かるように義務付けられた。
 一代限りの身分ではあるが、実際には引退に際し子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であり、また薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。加えて、有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等の、ステップとしての一面もあり、中世の無頼の輩は、近世では下級公務員的性格へと変化していった。」

とある。
 足軽町は大体城下の辺縁にあり、貧しくて庭の手入れなども行き届かず、薮になっていることが多かったのだろう。茄子は安くて人気の食材だったか。
 二十八句目。

   いりこみて足軽町の薮深し
 おもひ逢たりどれも高田派    釣雪

 真宗高田派はウィキペディアに、

 「真宗高田派(しんしゅうたかだは)は、三重県津市の専修寺を本山とする浄土真宗の一派。親鸞の門弟真仏、顕智が率いる下野国高田(現在の栃木県真岡市高田)の専修寺を中心とする高田門徒の流れを汲む。末寺数、約640寺。」

とある。また、江戸時代には、

 「高田派は江戸時代に入ると西の本願寺派と東の大谷派に分裂した本願寺に次いで、浄土真宗内で末寺数・門徒数が多い宗派としてその法燈を守った。親鸞の高弟である真仏以来の高田派であるため、「真宗の法灯集団」、「法脈の教団」ともいわれている。」

とあるように、別に少数派というのではなく、ありがちなことだったのだろう。
 信者の結束が強かったのか、足軽町はみんなそろって高田派。
 二十九句目。

   おもひ逢たりどれも高田派
 盃もわするばかりの下戸の月   昌碧

 高田派の人達はみんな戒律を守って酒を飲まないから、月見でも盃を忘れる。
 三十句目。

   盃もわするばかりの下戸の月
 ややはつ秋のやみあがりなる   野水

 病気で酒を断っていたとする。すっかり酒のことを忘れて下戸になっている。
 二裏、三十一句目。

   ややはつ秋のやみあがりなる
 つばくらもおほかた帰る寮の窓  舟泉

 寮は古代だと役所だが、江戸時代は僧の住む所。秋になって燕も帰って行く。
 三十二句目。

   つばくらもおほかた帰る寮の窓
 水しほはゆき安房の小湊     亀洞

 「しほはゆき」はしょっぱいということ。安房小湊は外房で勝浦と鴨川の間にある。今は鴨川ホテル三日月がある。
 日蓮の生誕地で誕生寺がある。ウィキペディアに、

 「江戸時代の不受不施派(悲田宗)禁政のため幕命により天台宗に改宗するところだったが身延山が日蓮誕生地の由緒で貰いうけ一本山に格下げ(悲田宗張本寺の谷中感応寺、碑文谷法華寺は天台宗に改宗された。現谷中天王寺、碑文谷円融寺)。昭和21年大本山に復帰。」

とある。塩対応を受けていたようだ。
 不受不施派に関しては、延宝六年冬の「青葉より」の巻九句目に、

   やよ時鳥天帝のさた
 鶯の不受不施だにも置ぬ世に   桃青

の句がある。ウィキペディアの「不受不施」のところには、

 「寛文9年(1669年)、幕府は不受不施派に対しては寺請を禁じ、完全に禁制宗派とした。なお、一部のグループは、幕府が寺領を宗教的布施である「敬田」と言っても、実際は道徳的布施である「悲田」に過ぎず、これを受けても問題ない、と解釈して幕府と妥協した。これが「悲田派」や「恩田派」と呼ばれる「軟派」である。この「軟派」の立場に立ったのが、小湊の誕生寺などであった。」

とある。
 三十三句目。

   水しほはゆき安房の小湊
 夏の日や見る間に泥の照付て   荷兮

 海の塩辛い水も夏の日の照り付けに乾くと、塩が採れる。
 三十四句目。

   夏の日や見る間に泥の照付て
 桶のかつらを入しまひけり    昌碧

 「桶のかつら」はかつら桶のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鬘桶」の解説」に、

 「〘名〙 (「かづらおけ」とも) 能楽、狂言、歌舞伎などの舞台で用いる腰掛け。高さ一尺五寸(約四五センチメートル)、直径一尺(約三〇センチメートル)の黒塗り蒔絵の丸桶で、ふたは酒杯として代用されることもある。もとは鬘を入れたものといわれる。つづみおけ。
  ※わらんべ草(1660)一「つづみおけの中に、つづみを入、則おけにこしかけし、今のかつらおけの事なり」

とある。
 暑さで芝居も中止ということか。
 三十五句目。

   桶のかつらを入しまひけり
 人なみに脇差さして花に行    釣雪

 脇差は町人でも許されていた。長刀だと、

 何事ぞ花みる人の長刀      去来

になってしまうが、花見に行くのに脇差は普通だったのだろう。
 役者も興行が終われば、普通に脇差を差して花見をする。
 挙句。

   人なみに脇差さして花に行
 ついたつくりに落る精進     野水

 「つい、田作り」で、今まで精進していて肉や魚を口にしなかったのに、花見でついつい田作りを食って精進落ちになる。
 「鰯で精進落ち」という諺があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鰯で精進落ち」の解説」に、

 「(鰯のような下等な魚で、せっかくの精進明けを祝うのは残念であるというところから) 耐えてきた気持の報いられないことのたとえ。また、鰯のような魚で、精進を破る意から、つまらないことで努力がむだになることのたとえ。」

とある。

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