今日は節分。豆まきは昔からあったけど、節分って旧暦だと正月の前後だから、そんな特別な料理ってなかったんじゃないかと思う。
オリンピックも一部の競技は始まっていて、ネットでカーリングをほんの少し覗く程度に見て、午後のアイスホッケーのカナダ・スイス戦を見た。今の中国のやっていることはとんでもないことだが、アスリートに罪はない。
ワクチンの三回目接種が一日564,852回で、本格的な接種が始まっている。頼もしいことだ。
石原慎太郎と言うと、小生みたいな年寄りは、あの障子をペニスで破るというのが浮かんできてしまう。昔深夜放送でそれを真似させるのがあったな。あと、悪筆のことを筒井康隆がネタにしてたっけ。
あれが都知事になったらディーゼル車の排ガス規制でマフラーを交換しなくてはいけなくなって、その価格が半端なかったようだ。会社側の負担だから詳しいことは知らないが。
そのあとだったかな。新しい車にDPDが付いたのは。警告ランプが点灯したら、停車してニ十分から三十分のアイドリングをしなくてはいけないが、仕事中にどこで警告ランプが点灯するかはわからない。下手な所で停車すると通報されかねないし、駐車場も基本アイドリング禁止だし、あれは困った。
乗ってて何年かするとそのDPDが毎日のように頻繁に点灯するようになって、ディーラーの修理工場に行っても、なかなかあれやこれや理屈をつけて直そうとしない。何としてでもユーザーの責任にしようとしているみたいだった。
そのうち自動燃焼装置が付いた車が出たが、仕事をやめる少し前だが、その自動燃焼が利かなくなって、やはり毎日手動燃焼しなくてはいけなくなった。まあ、排ガス規制には良い思い出がない。
あと、橋下さんが石原慎太郎と手を組んだのは、維新の会ににとってやはり致命傷だったと思う。改憲と自主憲法制定はまったく違うものだし、脱原発を取り下げたのも失敗だった。
維新の会がその頃台頭してきたネトウヨの少人数によるネット工作に惑わされて、それに乗っかるならまだしも、旧来の右翼の方に引きずられてしまったため、ぐだぐだになってしまった。おかげで新自由主義の手柄を安倍に取られてしまった。
あれは今回の立憲が左翼のツイッターデモに騙されて、共産と組んでしまったのと同じパターンだった。
同じ右翼でも似て非なるものがあるし、同じ左翼でも似て非なるものがある。新しい政治を目指すなら、古い勢力と手を組んではいけない。
まあ維新の会もせっかく去年の選挙で躍進したのだから、石原の亡霊をちゃんと成仏させてほしい。間違っても再び憑りつかれるようなことはないように。
それでは「松の花」の巻の続き、挙句まで。
二十五句目。
泣々山を追下ロす兒
寝覚やら何やら淋し窓の月
稚児を追い出すと朝が淋しい。
「し」という切れ字を使っているが切れてない句の例と言えよう。寝覚めの淋しさがの原因が前句によって補われることで意味を持つ句だからだ。
何となく何やらゆかし菫草 芭蕉
の句の場合は、たまたま見つけた菫草の珍しさが一句の趣向となるが、寝覚めの窓の月の淋しさはどういう状況でその月が淋しく見えるのか、状況に依存した趣向になる。だから読者は「何で?」と余計なことを考えてしまう。これでは一句として完結しない。
稚児出でて何やら淋し窓の月
なら発句になる。
二十六句目。
寝覚やら何やら淋し窓の月
記念の袖につつむ稲虫
稲虫はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「稲虫」の解説」に、
「① 稲の害虫の総称。チョウ、ガ類の幼虫、ウンカ、ヨコバイ類、バッタ類など種類が多い。《季・秋》〔易林本節用集(1597)〕
② 昆虫「しょうりょうばった(精霊飛蝗)」の異名。」
とある。
去っていった男の形見の袖に、この場合は精霊バッタであろう。このバッタもあの人の形見だと思い、そっと包んで別れの淋しさを紛らわす。
二十七句目。
記念の袖につつむ稲虫
馬場殿の木槿あはれに咲つづき
馬場殿は「ばばどの」で「うまばどの」に同じ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「馬場殿」の解説」に、
「〘名〙 馬場の埒(らち)の中央に設け、騎射(うまゆみ)を見分する殿舎。特に宮中では武徳殿をいい、五月端午の節会(せちえ)の騎射の見分の座となった。うまばのとの。うまばのおとど。ばばどの。
※宇津保(970‐999頃)吹上上「むまば殿〈略〉かたはらに、西、東の御厩、別当、預かりことことしう、御馬十つつ」
とある。
何か出典があるのか、よくわからない。特に出典がないなら、五月に賑わった馬場殿も今は秋になって、木槿が咲いている、となる。
あるいは馬場殿は長篠の合戦で討ち死にした甲斐の武将、馬場信春のことで、その形見の袖に長篠の草にいたバッタが包まれていたということか。だとすると、
むざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉
の趣向になる。
ただ、長篠の合戦は五月二十一日、新暦換算では六月二十九日で夏になる。
二十八句目。
馬場殿の木槿あはれに咲つづき
檜皮を積に通ふ船頭
馬場殿から王朝時代の宮中儀式ということで檜皮葺の屋根に用いる檜皮を運ぶ船を登場させる。
二十九句目。
檜皮を積に通ふ船頭
朝もよひ紀の貫之に三寸もりて
「朝もよひ」は朝の様子ということ。「三寸」は「みき」とルビがあり、御神酒のこと。
紀貫之が登場することで、前句の船は『土佐日記』の旅立ちの船になる。
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
廿二日、和泉の國までとたひらかにねがひたつ。藤原の言實船路なれど馬の餞す。上中下ながら醉ひ過ぎていと怪しくしほ海のほとりにてあざれあへり。」
という書き出しは受験勉強の時に誰もが読んだことがあるだろう。
出発は夜だったが、別れを惜しんでいるうちに夜も更けてゆき、実際の出発は翌朝になった。夜通し相当の酒を飲んでいたようだ。
三十句目。
朝もよひ紀の貫之に三寸もりて
額一行リ朽残るなり
御神酒から神社の落成式か何かとして、紀貫之が筆を振るい、額に一行の文字を残す。
これは紀貫之のような有名人は筆も立つから、こういう揮毫とかもしていたのではないか、というネタになる。
二裏、三十一句目。
額一行リ朽残るなり
歩行ずに此侭見ばや峯の花
「あるかずにこのまま」と読む。
荒れ果てたお寺の山額に昔を偲び、中に入ってもしょうがないとばかりに駕籠の中から昔ながらの山桜を見て帰る。
花の定座を大きく引き上げているところから、この花の句がそれだけの価値があると見たのだろう。
何となく薄情な感じのする句で、情があるなら駆け寄ってでも荒れ果てたその様に泪するのが普通ではないか。
三十二句目。
歩行ずに此侭見ばや峯の花
昼の前後はねぶきかほ鳥
かほ鳥は呼子鳥の別名とも言われているが、土芳『三冊子』「くろさうし」には、
「貌よ鳥、春されば野べに先なく貌よ鳥聲に見へツゝ忘られなくに、といふは雉子をよめり。又鶯をもよめり。霜氷る岩根につるゝ貌よ鳥浪の枕やわびてぬるらん、是鶯也。定家卿の云、貌よ鳥、春の鳥也となり。師の曰く、説々あれども、たゞ春の小鳥のいつくしきをいふと知るべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)
とある。芭蕉はかほ鳥を特に特定の鳥ではなく、「たゞ春の小鳥のいつくしき」と認識していたようだ。
宿から見える峯の花を、今日は部屋に籠ってみようと思うと、昼頃には小鳥の声も聞き飽きて眠くなってくる。
三十三句目。
昼の前後はねぶきかほ鳥
春の駒をのれが影に振かへり
旅体にして、馬の上で眠くなり、自分の影を見てはっと目覚めて振り返る。
馬上の居眠りは『野ざらし紀行』の、
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり 芭蕉
の句がある。
己の影は『笈の小文』に、
冬の日や馬上に凍る影法師 芭蕉
の句がある。
三十四句目。
春の駒をのれが影に振かへり
吹雪の袖をふるふ兄弟
常盤御前であろう。平治の乱で源義朝が破れ、今若、乙若、牛若の三兄弟を引き連れて、吹雪の大和路に遁れる。
平治の乱は旧暦一月十九日なので春になる。
三十五句目。
吹雪の袖をふるふ兄弟
松竹の冥加を買んけふの市
吹雪の中市場へ正月の松竹の御加護を買いに行く。
冥加はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「冥加」の解説」に、
「① 冥々(めいめい)のうちに受ける神仏の加護。知らないうちに受ける神仏の恵み。また、偶然の幸いや利益を神仏の賜うものとしてもいう。
※今昔(1120頃か)一七「冥賀人に勝れて、道俗・男女・宗と敬て、肩を並ぶる輩无し」
※浄瑠璃・菅原伝授手習鑑(1746)一「身の恥顕はす錆刀、今日迄人手に渡さぬ武士の冥加(メウガ)」
② (形動) ありがたくもったいないさま。冥加に余るさま。
※読本・昔話稲妻表紙(1806)四「こは冥加(ミャウガ)なるおん詞、ありがたきまでにおぼへはんべり」
③ 神仏などの加護・恩恵に対してするお礼。報恩。
※実悟記(1580)「代物をつつませられ被下候間、各為冥加候間、代を被下候を斟酌申候へば」
④ 「みょうがきん(冥加金)①」の略。
※浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)野崎村「ヤアさっきに渡した此銀を、ヲヲ表向で請取たりゃ事は済む。改めて尼御へ布施せめて娘が冥加(メウガ)じゃはいのふ」
⑤ 「みょうがきん(冥加金)②」の略。
※地方凡例録(1794)五「運上と云も冥加と云も同様といへども、急度定りたる物を運上と云」
⑥ 身分、また職業を表わす語の下に付けて自誓のことばとして用いる。その者として違約や悪事をしたら神仏の加護が尽きることがあっても仕方ないの意。
※浮世草子・好色一代男(1682)七「あの君七代まで太夫冥加(メウガ)あれ」
とあり、本来は神仏から思いがけなく賜るもので、金で買うようなものではない。
挙句。
松竹の冥加を買んけふの市
暦まきたる暁の霜
買ったのは暦だったようだ。
さて、この巻を読み終えて、三十句目まではそれなりに手慣れた作者によるもので、芭蕉の『奥の細道』旅立ち直前の独吟という設定で作った物だろう。芭蕉の死後にオマージュとして誰かが試みたのかもしれない。
ただ、蕉門らしいリアルな日常を描いたものがほとんどなく、古典ネタに終始している。これは偽物にありがちなものだ。芭蕉が生きている時代ならではの流行の笑いは、後の人に真似できるものではない。自ずと時代を越えて通用する古典ネタが多くなる。
二裏に至っては本意を踏み外した句が多く、作者が別なのではないかと思う。。
『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、
「この一巻は大石田の住何某から等躬へ贈られ、等躬死後、その子息乍跡の文庫の底に秘められていたものを笶月洞晋流が与えられて、東武浅草在中寓居において安永二年板行したものという。草稿は曾良の筆跡であったというが、『蕉翁独吟五歌仙考』(幽嘯編・文化八年版)によれば晋流の独吟であって芭蕉の作ではないといっており、『金蘭集』も「松島独吟は心得がたき風調に侍る」とこれを疑い、『一葉集』は採録していない。‥‥略‥‥因に底本とした『芭蕉翁松島独唫』は晋堂雲南編『松島独吟行』(安永二年刊)を安永五年夏、鶴叟玉芝が自ら写したものである。」
とある。
この来歴からすると確かに其角は疑わしい。其角であれば、蕉門確立期までの芭蕉の作風に愛着があるが、それ以降の芭蕉の変化について行けなくなっている。晩年には、あの頃の芭蕉の風を懐かしむ気持ちが強かったと思う。
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