2022年2月4日金曜日

 昨日はあのあとネットでアイスホッケー女子の日本・スウェーデン戦と、モーグルの予選を見た。初戦勝利は幸先が良い。モーグルは雪質が良すぎるのか、滑り過ぎて二回目のエアに苦しんでいたみたいだ。
 西洋の人権思想やマルクス主義の根本的な弱点は、結局「生存競争」の一語に尽きるのかもしれない。マルクス主義者はしばしば生存競争は資本主義が生み出した概念だという。
 生存競争はあまりにあたりまえなことなので、どこの民族でも明確な概念化がされてなかったから、その意味では間違いではないが、言葉がなかったから生存競争そのものがなかったとするのは間違い。当たり前すぎて言葉にしなかっただけで、そこにどういう秩序を与えるべきかだけにどの民族も知恵を絞って来ただけだ。
 星空があまりにあたりまえなので月にしか関心がなかったのと一緒だ。人生は巨大な虚無の海の中の小さな小島、無限宇宙の中のたった一つの星、自分たちを取り囲む広大な闇の世界は、陰陽不測で言葉を失うものだった。生存競争もこうした「闇」として語られなかったのだろう。
 キリスト教の創造説も、そうした闇を退け、幽かな光を求める中から生まれたもので、自分たちの世界が生存競争の闇から切り離されているとすることで、平穏を得るためのものだったのだろう。
 産業革命によって人間は自然を圧倒する巨大な力を手に入れた。だが闇のない世界は作れなかった。そして、その近代の英知も結局最初から二つの顔を持っていた。
 表向き人類みな平等とほほ笑んで、裏では植民地を奪い合い、これまでになかった悲惨な戦争や虐殺を繰り返した。
 マルクス主義者もキリスト教的な人権論者も、あたかも本来人類には生存競争などなくて、生存競争は資本主義の産物だと考えようとしてきた。だから、革命で解決できると考えた。
 明治の日本人も、その脅威の中で「獣」になることを選択した。巨大な西洋の獣の力に対抗するには、自らも獣の力を得なければならないと信じた。
 中国やロシアの今の問題も、日本人だからわかるが、「後発の不条理」によるものだと思う。
 「後発の不条理」というのは簡単に言えば、悪いことなんだけど法律に反しないということで、先にそれを思いついた人がそれをやってぼろ儲けした。それを見て我も我もとそれを真似する人が現れた。ちょうどそのころ、最初に利益を得た人たちが、これは悪いことなんだからと禁止する法律を作り、厳しく罰しようとする。後追いしようとしてた人達は「お前らばかり甘い汁を吸って」となる。
 日本人が東京裁判で、それまで存在しなかった「平和に対する罪」で裁かれたことに、不条理を感じる人も多かった。その罪は日本とドイツだけが背負い、それ以外の西洋列強が負うことはなかった。
 ただ、日本人は、そこは日本人だから、そんなことなど速やかに忘れた。中国やロシアやイスラム圏では今でも納得していない人が多いのではないかと思う。
 西洋人はアメリカ大陸を席巻し、アジア・アフリカにたくさんの植民地を作って支配した。日本も後発として北海道を日本人のものとし、その後一九四五年の敗戦まで侵略戦争を繰り返した。今の中国人にしても、ウイグルを自分たちのものにして何が悪いんだという気持ちがあるのも確かだろう。
 ウイグル問題はナチスのユダヤ人虐殺とはまた別の、もっと深い「闇」を抱えていることは認識しておいた方が良いだろう。もう大体みんな気付いている。人権はこれまでの西洋の二面性の前では単なる生存競争の道具にすぎないってことを。

 それでは引き続き春の俳諧ということで、『阿羅野』の「遠浅や」の巻を見て行こうと思う。
 発句は、

 遠浅や浪にしめさす蜊とり    亀洞

で、「蜊」は「あさり」と読む。「しめさす」は標を付けるという意味で、遠浅の浜だと沖の方まで人がアサリを取っていて、そこまでが浅瀬だという標識みたいだという意味。
 脇。

   遠浅や浪にしめさす蜊とり
 はるの舟間に酒のなき里     荷兮

 舟間はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「船間」の解説」に、

 「① 船の入港のとだえている間。
  ※俳諧・難波草(1671)秋「秋風のなぐは一葉の舟間哉〈忠利〉」
  ② 船の入港がなくて荷がとぎれること。転じて、物が不足・欠乏すること。
  ※俳諧・西鶴大矢数(1681)第一一「算用詰十露盤枕ねる計 雨にあらしに舟間也けり」
  ③ (船澗) 船を碇泊または繋留するのに適した場所。船掛りする所。北海道、東北、北陸地方でいう。船掛り澗。」

とある。
 発句の「しめ」に舟を付ける。一般的に標識は船の出入りのためのものだからだ。
 発句がアサリを取る人を眺める視点なので、船を待つ人足の人達が、アサリはあるのにに酒がないとぼやく様を付ける。
 第三。

   はるの舟間に酒のなき里
 のどけしや早き泊に荷を解て   昌碧

 泊(とまり)は港のことだとすると、水辺が三句続く。「泊」を単に宿泊することだとして、非水辺扱いとしたか。
 舟着場のある宿場に早く着きすぎてしまい、手持無沙汰だが酒がない。
 七里の渡しのある宮宿や桑名宿は大きな宿場なので「酒のなき里」ということはなかっただろう。よほど田舎の方の渡し場か。
 四句目。

   のどけしや早き泊に荷を解て
 百足の懼る薬たきけり      野水

 屋外での休息で、百足などの虫除けの薬を焚く。百足は当時は無季。
 五句目。

   百足の懼る薬たきけり
 夕月の雲の白さをうち詠     舟泉

 夕月が出るもまだ明るい空に白い雲が残っていて、そこに薬焚く煙が立ち昇る。一日の終わりのほっとするひと時だ。
 六句目。

   夕月の雲の白さをうち詠
 夜寒の蓑を裾に引きせ      釣雪

 寒いので蓑を引き寄せて足もとを覆う。
 初裏、七句目。

   夜寒の蓑を裾に引きせ
 荻の声どこともしらぬ所ぞや   筆

 荻の上風萩の下露というように、荻は風の音を詠むのが普通だ。夜寒に荻吹く風の音がどこからともなく聞こえてくる。
 執筆の句で、無難に付けている。
 八句目。

   荻の露どこともしらぬ所ぞや
 一駄過して是も古綿       亀洞

 一駄はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一駄」の解説」に、

 「〘名〙 馬一頭に背負わせた荷の分量。また、荷を背負った馬一頭。→一駄荷(いちだに)。
  ※今昔(1120頃か)五「大王用し給はば此の菓子(くだもの)を一駄奉らむ」
  ※俳諧・曠野(1689)員外「荻の声どこともしらぬ所ぞや〈筆〉 一駄過して是も古綿〈亀洞〉」 〔宋史‐食貨志七・礬〕」

とある。駄賃というのもそこから来ている。
 秋は綿の季節で新綿の出回る頃だが、綿替えした古綿が貧しい所には回ってくる。打ち直して再利用する。
 馬を使いたいのだけど、綿の季節で空いている馬がなかなか捕まらない。
 九句目。

   一駄過して是も古綿
 道の辺に立暮したる宜禰が麻   荷兮

 宜禰は祢宜(ねぎ)で神主の下で働く神職。綿が主流になる時代に未だに麻衣を着ている。
 十句目。

   道の辺に立暮したる宜禰が麻
 楽する比とおもふ年栄      昌碧

 年栄(としばへ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「年延」の解説」に、

 「① 年のほど。としごろ。としかっこう。としばい。
  ※咄本・鹿の巻筆(1686)五「としばへは四十にあまれども」
  ※付焼刃(1905)〈幸田露伴〉四「婆やと云はれさうな年齢(トシバヘ)の婢が」
  ② (形動) 年をとっていること。年をかさねて思慮分別のあること。また、そのさま。年輩。としばい。
  ※俳諧・へらず口(不角撰)(1694)「年ばへの女糸屋の重手代」

とある。
 初老の祢宜で、そろそろ隠居を考える頃か。
 十一句目。

   楽する比とおもふ年栄
 いくつともなくてめつたに蔵造  釣雪

 若い頃から商売にいそしみ、蔵が建ったのでそろそろ楽をしようか。
 十二句目。

   いくつともなくてめつたに蔵造
 湯殿まいりのもめむたつ也    舟泉

 「もめむたつ」は『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の中村注に、「行者の着る木綿の浄衣をつくることか」とある。八句目の「古綿」から三句去りになる。
 湯殿参りといえば温泉旅行。参拝にかこつけた贅沢だったのだろう。

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