2018年2月23日金曜日

 昨日は一日雨が降り、今日も午前中は雨だった。とはいえ、おそらく一時間一ミリに満たない雨なら、昨日も今日も記録の上では雨は降らなかったことになる。気象庁の雨雲レーダーを見ていても、雨が降っていることにはなってなかった。だがしかし、記録に残らなくても雨は降っていた。
 ただ、気温も低く、時折霙や雪が混じる状態なので春雨とは言えないだろう。
 この前、女性の俳諧師の中で田氏捨女だけ苗字があるということにふれたが、「丹波資料室」というサイトにこういう記述があった。

 「ステ女が生まれた 丹波柏原の田家は織田家に仕えた名家でした そんな田家に 寛永10年 父 季繁、母 妙善の長女として生まれました  しかし ステ女が3歳の時に 母 妙善が38歳の若さで亡くなり 母親の亡き後 母親役となっていた祖母もステ女が 12歳の時に亡くなりました」
 「父 季繁は映智と言う女性を後妻に迎えます この映智には連れ子が一人いて それが後に ステ女の夫となる又左衛門季成です」

 父の季繁が田氏であるのは間違いない。季繁の最初の妻の妙善がどこの家の者かはわからない。ただ、姓が血統を示すもので終身変わらないのに対し、苗字は家をあらわすものだから苗字は夫婦同苗字になる。もっとも、今日のように苗字+名前という形で呼ばれることはまずない。妙善はあくまで田氏に嫁いだ妙善で、田妙善といった西洋式の呼び方がなされることはなかった。
 その後妙善が亡くなり、季繁は後妻に映智を迎える。これも元の姓は別でも田氏に嫁ぐことで、田家の妻映智になる。その連れ子も同様田家に入るから、捨女の夫は田氏の季成ということになる。苗字は同じだが家系は異り(姓は別になる)血は繋がってないため、結婚は可能だったのだろう。
 『俳家奇人談』の「宗族へ嫁して」というのは、やはり同じ田の苗字の季成のもとに嫁いだという、やや異例な状況の表現として用いられたのだろう。
 その後季成に先立たれ、出戻りとなったが、婚前も結婚中もその後も終生田氏であったから、捨女だけは例外的に田氏捨女と呼ばれていたのだろう。
 他の女性俳諧師はたとえばおとめさん、俳号羽紅は、今日では夫の野沢凡兆の俗姓を借りて野沢羽紅と呼ばれることはあるが、当時の女性は一般的に名前だけで呼ばれていた。芭蕉の『嵯峨日記』にも、「羽紅夫婦」という文字はあるが野沢夫婦とは書かれていない。
 夫婦同姓は明治に入ってから西洋に習って導入されたもので、江戸時代の苗字が血統ではなく家をあらわしていたからといって、今日のような意味での同姓ではなかった。ただ出自の苗字と現在所属している家の苗字があるだけで、出自ではない後から所属することとなった家の苗字は、果してその人の苗字と言えたのかどうかすら定かではない。出自の苗字が変わってなければ、田氏捨女のように苗字をつけて呼ばれることもあったが、他家に嫁いだ場合は苗字を失ったと考えた方がいいのかもしれない。
 近代の夫婦別姓論議は、男女平等の立場からなされているが、江戸時代の姓や苗字にそのような考え方はなかったし、韓国や中国の夫婦別姓も男女が平等だったからではない。近代の夫婦別姓論議は、いわゆる「家」や血統というものが解体され、個々の男と女に立ち返るところに発生したもので、同列に議論することはできない。
 今日の日本の夫婦同姓は明治に始まるもので日本の長い伝統ではないというのは、似て非なる見かけの上での夫婦同苗字に惑わされてはいけないという意味でもある。
 元来日本の夫婦同姓は日本の昔からの「家」の概念によるものではないし、明治に導入された西洋的な家概念すら今の時代にはそぐわないのであれば、筆者は夫婦別姓もありだと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿