二十九句目。
無筆のこのむ状の跡さき
中よくて傍輩合の借いらゐ 野坡
さて、あるあるネタの連続で月の定座ことが忘れられてないかなという感じだが、ここは次の芭蕉さんに譲るということか。といっても、これは月呼び出しとは言えない。
傍輩は同僚というような意味。「合」がつくと同僚同士ということか。
『俳諧古集之弁』系では「女の風あり」と、女同士の仲良しグループのようなものを想像している。手紙を代筆させても、ついついガールズトークに花が咲いてしまい、なかなか進まないというのはありそうなことだ。そんな仲だから気軽にものの貸し借りもするのだろう。
幕末・近代系の註釈は「いらゐ」という言葉についていろいろ論じてる。「借いらゐ」という言葉は、幕末あたりを境に日常的に用いられなくなり、死語となっていたか。「いらゐ」は「いらひ」の間違いというところはほぼ共通して指摘されている。ただ、それが答えるという意味の「いらへ」なのか、借りるという意味の「いらへ」なのか、議論が分かれている。てっきり「借り依頼」かと思ったが、この言葉が幕末にあったなら議論にはならなかっただろう。一応保留にしておく。
無季。「傍輩」は人倫。
三十句目。
中よくて傍輩合の借いらゐ
壁をたたきて寝せぬ夕月 芭蕉
誰も月を出さないもんで、結局ニ表の月の定座は芭蕉さんに丸投げとなった。初表の月花もそうだったが、俳諧の衰退もこうした過度な気配りや空気読みが原因の一つだったと思う。芭蕉さんも内心苦々しく思ってたのかもしれない。
「夕月」は夕方に出る月で、満月よりも早く、三日月や半月のことを言う。七月七日の七夕の月の連想も働く。「星祭」とも呼ばれていた。
町は七夕祭りで賑わい、寝ようにも傍輩がやってきては服を貸してくれだとか、なかなか寝させてくれないのも、江戸時代のあるあるだったのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「帯も頭巾も人の物にて、夜祭などへ出かけるやつともミゆ。ひとへにこの附の姿なることを感ず。前句を実となせバ越の論なし。」これに論なし。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)が「夕月の一語に夜々の踊りに労れしものと為せるは、余りに思ひ過ぎたる解にて、窮屈なり。」と言うのは、明治になって旧暦の行事が禁止され、江戸時代の七夕の賑わいも見る影も無く、家庭での子供の行事と化した時代だったから、その意味では納得がいく。
当鈴呂屋俳話は近代的に(あるいは西洋文学的に)「改釈」することを目的とはしていない。あくまで作られた当時の本来の意味を探求することを旨とする。幸田露伴の注釈は、近代的解釈としては敬意を表するが、ここではそれが目的ではない。
古註を読むことで、われわれの知らない世界が見えてくる。面白いと思わないか?
季題は「夕月」で秋。天象。
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