2016年12月3日土曜日

 三十二句目。

   風やミて秋の鷗の尻さがり
 鯉の鳴子の網をひかゆる   孤屋

 江戸時代は鯉などの魚の養殖が盛んで、芭蕉の弟子に鯉屋杉風という人がいたが、魚問屋で深川に生け簀を所有していて、芭蕉はその近くの家を譲り受けて、そこに芭蕉を植えて芭蕉庵とした。使われなくなった生け簀は古池になり、あの名句を生んだ。
 深川あたりには養殖用の生け簀がたくさんあったのであろう。魚をユリカモメなどの鳥に食われないようにこうした生け簀の上には鳥除けの鳴子が取り付けられていたのであろう。「鳴子の網」というのは生け簀の上を覆うように、鳴子のたくさん取り付けられた網を張っていたのではないかと思う。
 こうした風景も幕末には既に失われていたのではないかと思われる。江戸の人口の増加によって隅田川の東岸の宅地化が急速に進み、今でいう下町が形成され、それと同時に輸送手段の発達で海で取れた魚が新鮮なうちに江戸に届くようになり、鯉の養殖は次第に廃れていったのであろう。いわゆる江戸前寿司が隆盛を極める傍らで、鯉料理は隅に追いやられていったのではないかと思われる。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「鷗ト言ヨリ、隅田ノ州崎村ノ生州ニ為タリ。」とある。天保の頃にはまだ州崎(今の東陽町)にこうした生け簀が残っていたのだろう。おそらくかつては深川あたりにもたくさんあったのではないかと思われる。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「これは旧解の、鯉の生州の上にしつらひたる鳴子にて、風止み日和らぎたれば鯉の小さきは長閑に浮み出でて禽獣などに捕らるるあるを防ぐなり、と云へるが却って宜し。」とある。
 風が止んで鷗が空を舞っては鳴き交わす情景に、鯉の生け簀を付ける。それが日常の風景だった時代の人には、悩むような句ではなかったであろう。
 季題は「鳴子」で秋。しし威しと同様本来は秋の稲穂を守るための鳥獣除けで秋の季題となっている。「鯉」は水辺。前句の「鷗」も水辺で、水辺が二句続く。

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