2016年12月19日月曜日

 『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)をめくっていたら、「無名宛(元禄七年春筆か)」に「木兔(みみづく)の角あるけしき先(まづ)感心仕候」というのがあった。芭蕉が褒めた句だからどんな句だったのか興味あるが、句は残ってないようだ。
 「むめがかに」の巻の続き。

十六句目

   はつ雁に乗懸下地敷て見る
 露を相手に居合ひとぬき    芭蕉
 (はつ雁に乗懸下地敷て見る露を相手に居合ひとぬき)

 ここでは、前句の「見る」は試みるの意味になり、居合い抜きを試みるとつながる。山賊に備えてのことか。『奥の細道』の山刀伐(なたぎり)峠の所には「道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ふて人を頼み待れば、究竟(くっきゃう)の若者反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携たづさへて、我々が先に立ちて行く。」とあるが、そのときのイメージかもしれない。「はつ雁に乗懸下地敷て露を相手に居合ひとぬきを見る」の倒置。
 「露払い」という言葉もあるが、むやみに草や竹などの生き物を切るのではなく、そこに結ぶ露だけを切るというところに、命の尊とさを知る風流の心がある。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)にも「心がけのある武士と見て附たり。」とある。
 『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年四月跋)には「風雅弁に、玉散るの詞を俗語の姿に強て仕立たる句也といふ。」とある。「抜けば玉散る氷の刃」は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の村雨という刀を形容した言葉で、これに類する言葉が芭蕉の時代にあったかどうかはよくわからない。
 なお、『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)には「此句此集出板の頃、翁旅立事序に見ゆ。其時島田の駅より杉風方への書簡に、予が居合い一抜の句、露を相手にと御直し可給候。くれぐれ野坡へ御伝頼入候とあり。」とある。一応『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)を調べてみたが、それらしきものはなく、「杉風宛(元禄七年閏五月二十一日─推定─付)の中に、「嶋田より一通、書状頼置候。相届候哉。」とあるから、それのことか。「曾良宛(元禄七年五月十六日付)」には「十五日嶋田へ雨に降られながら着申候。」とあり、この書簡については「曾良宛(元禄七年閏五月二十一日付)」に「嶋田より一通頼遣し候。相届申候哉。」とある。このことからすると、五月十六日頃に曾良宛と同様、杉風宛の手紙を書いていたと思われる。ただ、引用された文があったかどうかは今のところ定かではない。

季題は「露」で秋。降物。次は花の定座で、露のような、秋の季題でありながら春にもあるものを出すことで、季移りを容易にしている。

十七句目

   露を相手に居合ひとぬき
 町衆のつらりと酔て花の陰      野坡
 (町衆のつらりと酔て花の陰露を相手に居合ひとぬき)

 花見はもっぱら町人のものだったが、お忍びでやってくる武士も多く、中には刀を持ったまま堂々と来る者もいたようで、

 何事ぞ花みる人の長刀     去来

の句もある。
 大勢の酔っ払った町人の前で、これも酔った勢いで居合い抜きなど披露して、決まれば拍手喝采だが刀は無残にも空を切ってという落ちではないかと思う。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「歯ミがき売りの芸と転じて、見る方のさまをいへり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)なども大体同じことが書いてある。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも「花の頃賑合場所へ出て、居合を抜き人よせをして歯磨楊枝等を売ニ」とある。江戸後期や幕末の人には居合い抜きを見せながら歯磨きを売る姿はお馴染みのものだったかもしれない。ただ、芭蕉の時代にあったかどうかは不明。
 「つらり」は今の「ずらり」で、あちこちに人ひとが分散している状態ではなく、ひとところに勢ぞろいして、というニュアンスで、見物人の人垣を連想させる。

季題は「花」で春。植物。「町衆」は人倫。

十八句目

   町衆のつらりと酔て花の陰
 門で押るる壬生の念仏     芭蕉
 (町衆のつらりと酔て花の陰門で押るる壬生の念仏)

 「壬生(みぶ)念仏」は壬生大念仏狂言のことで、壬生狂言とも呼ばれる。円覚上人が正安二(一三○○)年に壬生寺で大念佛会を行ったとき、集まった群衆にわかりやすく、無言劇を行なったのが起こりとされている。専門の役者ではなく地元の百姓が演じるもので、江戸時代にはその名が広く知れ渡り、境内の桟敷は京都・大阪から繰り出してきた金持ちに占領され、地元の町衆は門のところで押しあいへしあいしながら見物してたという。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「在所のものゝ桟敷をうらやむ以為を含め給へれど、人倫の異乱なき句作のちらしを見るべし。但、此会式を猿の狂言ともいふ。里人の鉦うちて、おかしき物真似をするなり。」とある。押し合いへし合いしながらも、さしたる混乱もなく行儀良く芝居をみている様子は、まさに「人倫の異乱なき」でこの国の誇りであろう。
 「酔て」もここでは酒ではなく芝居に酔いしれていると見た方がいいだろう。

季題は「壬生の念仏」は春。釈教。「門」はこの場合、お寺の門なので、居所にはならない。

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