今日も月が出ていたので、冬の月でもう一句。
影法師の踏つふまれつ冬の月 池天
露川・燕説編の『北國曲(ほっこくぶり)』の句で、作者がどういう人なのかはよくわからない。影法師というと、
冬の日や馬上に凍る影法師 芭蕉
の句があるが、池天の句は夜の月の光の淡い影法師で、夜道を歩いている時の情景か。何となく幻想的で近代的な感じがする。露川と燕説も何となく捨て難い気がしてこの句を載せたのだろう。
「むめがかにの巻」の続き。
十句目
奈良がよひおなじつらなる細基手
ことしは雨のふらぬ六月 芭蕉
(奈良がよひおなじつらなる細基手ことしは雨のふらぬ六月)
これは「恋離れ」の一句で、天候などの話題に逃げるのは常套手段といえば常套手段だ。前句の「通ひ」という恋の言葉をあえて殺して、じ奈良へ行き来する馴染の零細商人同士が天気の噂をする情景とする。
『俳諧古集之弁』系の註釈は「さらし買出しの商人」としている。晒し布は奈良の名産品で、商人たちが買出しに集まってきていたようだ。
逃げ句とか遣り句とかは、一巻のメリハリの中では必要なもので、連句も初心の者はいかに良い句を作るかに腐心し、ついつい句が重くなりがちだが、上級者になると、逃げ句を楽しむ余裕も出てくる。適切な場所でうまい逃げ句が詠めるというのは、むしろ技術のいることであり、一巻全体の流れを支配することでもある。
季題は「六月」で夏。「雨」は降物。
十一句目
ことしは雨のふらぬ六月
預けたるみそとりにやる向河岸(むかうがし) 野坡
(預けたるみそとりにやる向河岸ことしは雨のふらぬ六月)
旧暦六月は今のほぼ七月に相当し、前半はまだ梅雨が続くが、後半には梅雨が明け、かんかん照りの日が続く。あまり早く梅雨が明けると、日照りによる旱魃の恐れが生じるため、水無月には雨乞を行う。
そんな農家の心配を他所に、商人にとっては川の増水の心配もなく船を走らせて、商売にいそしむ。味噌がよく売れれば、奉公人が川の反対にある河岸(かし、市場)に預けた味噌を取りに行ったりもする。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「水涸(みづがれ)の自由をいへり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「水涸になりたるゆへ、運ぶ自在をいへり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「水涸ニナリタル故ニ、自在ナル体ヲ言リ。」とある。
無季。「河岸」は水辺。
十二句目
預けたるみそとりにやる向河岸
ひたといひ出すお袋の事 芭蕉
(預けたるみそとりにやる向河岸ひたといひ出すお袋の事)
「ひた」は「ひとつ」から来た言葉で「ひとすじ」ということ。今でも「ひたすら」という言葉に名残をとどめている。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「ひたといひ出す ヒタハ一向也。一筋ニ也。孝心ノスガタ也。」とある。
お袋のことを一途に思って味噌を取りにいくところを、昔の人は既に亡きお袋の法事のために味噌が必要だと解した。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「ミその用あるを年回と見て、いひ出すとハ作り給ひけん。」とある。「年回」は年回忌のこと。
『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には、「此句につけて人にききける事あり。此前に御頭へといふ事ありて、又御袋といふ事いかがならむと翁にたづねけるに、翁のいハく、御袋より猶よき事あらバかへよ、もしかへがたくバ此巻の見落しにしておけ、といハれしよし。尊むべし、あふぐべし。翁の俳諧をさバける河海の細流を択(えら)バずといハむか、さし合(あひ)くりといハれむより上手といハれよといふも、俳諧の金言也。此事をしらざるものハ、たださし合のミにかかりて、俳諧の去嫌(さりきらひ)にあらざる事をしらず。翁のこのことバを紳(しむ)に記すべし。」とある。
連歌の式目には、同字五句去という規則があり、これは同じ字でも読み方が違えば問題はないのだが、「御頭(おかしら)」と「御袋(おふくろ)」の「御」の字は読み方も用法も同じで、しかも七句目の、
御頭へ菊もらはるるめいわくさ 野坡
の句から四句しか隔てていない。これは違反になる。
ただ、連句の去り嫌いの規則というのは、基本的には景物の多用を戒ましめるもので、ただ花やら鳥やら不必要に句をきれいな景色で飾ることを嫌うものにすぎない。意味もなく「御袋」を出したのではないのなら、それほど厳密に咎める必要はない。
「さし合のミにかかりて、俳諧の去嫌にあらざる事をしらず。」というのは、規則の判定ばかりに目を奪われ、去り嫌らいの本質を知らないという意味。
これはサッカーの判定のようなものかもしれない。ただ規則に厳密に笛を吹いていれば良いというのではなく、試合の流れをスムーズにするためには小さな違反は笛を吹かずに流すことも必要になる。
なお、江戸後期の俳諧師夏目成美(せいび)の『七部集纂考』(年次不詳)、『標註七部集稿本』(文化十三年以前成立)に、室町時代十五世紀前半の外記局官人を務めた中原康富の日記『康冨記(やすとみき)』の「亨禄四年正月九日今暁、室町殿姫君誕生也。御袋大館兵庫頭妹也云々。」を引用していることから、いくつかの注釈書もこれに習っている。「お袋」という言葉は室町時代からあった古い由緒のある言葉だということか。
『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年十二月刊)もこれを引用して、「愚考、後宮名目云、母を袋になぞらへる事ハ、腹中にその子籠れる時、袋の中にものの在如くに侍れバ、めでたき事にことぶきて申侍る也。山崎闇斎云、俗称人はハ袋と云、蓋胞胎之義を取矣。」と、お袋の語源についての薀蓄を披露している。
最近は関東でも「おかん」という人が増えて、「お袋」という言葉があまり聞かれなくなってきている。
無季。「お袋」は人倫。九句目の「娘」から二句隔てている。
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