2016年12月10日土曜日

 「♪もしもー古文書がー読めーたならー」って「ゑびす講」の巻を読み終えて痛切に感じた。
 古註の有効性を再認識させられたし、特に参考になった『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)はネットで検索すると、ちゃんと読める状態で公開されている。残念なのはそれが昔の本で、草書で書かれているため読めないということだ。
 日本人なのに日本語でかかれた日本の古典が読めないというのは恥ずかしい限りだ。それも古文だからという以前に文字が読めないというのは最悪だ。
 浮世絵などにも字が書かれてあるし、ひらがな(時々変体仮名)だから、昔は庶民の多くがこれを読めて、無筆なんてそんなにはいなかったのではないかと思う。それが今読める人が皆無というわけだから、少なくとも古典に関して文盲率9割以上ではないかと思う。これが文化国家化かという惨憺たる有様だ。
 まず学校教育では草書を教えない。英語の筆記体は教えるが、なぜか日本語の筆記体は教えない。行書も書道の時間にほんの少し触れる程度で、学校は基本的には「楷書で正しく書きなさい」という所だ。
 戦前はどうだったか知らないが、戦後は「戦争に負けたんだから」ということで、日本の伝統文化に興味を持つこと自体が、日本を再び悲惨な戦争に導き何百万人もの人間を死に至らしめる危険思想とみなされるようになってしまった。
 古典は偉い左翼学者さんが安全だと認め、あるいは西洋風の解釈を施し、活字に起したものだけをきちんと指示に従いながら読め、というのが戦後日本の教育だった。
 大学では一応古文書学の授業があった。主に日本史や国文学専攻の学生を対象としたもので、哲学専攻だった私はフランス語とドイツ語は学んだが、遂に古文書を学ぶ機会は失われた。
 これから55の手習いで古文書を学ぶにせよ、もう一度大学にいくとなればお金もかかるし、仕事もやめなくてはならない。
 民進党が大学の無償化とか言っているけど、本当に誰でも無償になったらニートがみんな大学に籍を置きたがって殺到しそうだから、予算の方が大変だろうな。多分無理だろう。
 俳諧の研究者はおそらく日本には数えるほどしかいないだろうし、それもみんな西洋文学の観点から評価するというものばかりだから、私のやろうとしていることとはかなり隔たりがある。
 何でこんな国に生まれてしまったのか、日本死ね‥‥ではなかった、日本を殺そうとする奴ら死ね!って勿論これは比喩だよーん。
 まあ、何とか今からでも遅くないという所で、独学で古文書の勉強でもしようかと思い立った次第でした。
 待ってろよ、『俳諧古集之弁』。必ず読んでやるからな。そして目指すは文化勲章だwww。

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