2016年12月7日水曜日

 さて、「ゑびす講」の巻も残す所あと二句。まず三十五句目、行ってみよう。

   目黒まいりのつれのねちミやく
 どこもかも花の三月中時分  孤屋

 二裏の花の定座なので、目黒参りに花の季節を付けたと言えばそれまでだ。ただ、「どこもかも」の一言が、「つれのねちミやく」の原因となっているあたりはうまく付いている。そこらじゅうは桜が綺麗だから、目黒参りに行くにもあれこれ目移りがしてしまい、つい道を外れてふらふらと花の方へ誘われる。
 『俳諧古集之弁』系に「花の一字なかりせバ前句の噂とならん。」とある。単に「どこもかも三月中時分、目黒まいりのつれのねちミやく」たっだら、前句の時期を特定しただけの内容になる。それを「前句の噂」と言うのか。「どこもかも」が「花」だから「ねちミやく」につながるのは確かだ。
 ただこれも、目黒参りの途中のことなのか、目黒参りに行こうと誘ったら他にも花の名所があるからぐずっている、という解釈も成り立つ。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「どこもかも花の三月中時分トハ、此頃ハどこの参所も花盛で面白いのにどうだ付合ぬか、おてかの顔ハ晩にも眺めらるる、思切て参らぬかと、種々説法しても、出嫌隠居の尻重き様也。」とある。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも、「目黒参りを誘ふに、いづれもぐずぐずして定らぬは、飛鳥山も上野も花のさかりなれバ」とあるが、飛鳥山は吉宗の時代なので残念。上野寛永寺や浅草浅草寺には桜も植えられていて、

 花の雲鐘は上野か浅草か   芭蕉

だった。この頃は寺社の花見が普通で、邸宅に住む身分の人は庭でも花見をしたのだろう。公園が整備されるのは享保の頃の飛鳥山が最初で、他は明治に入ってからだ。
 たくさんの桜がまとまってある所で花見をしたわけではなかったので、「どこもかも花の」というのはそこかしこにある寺社の境内や屋敷の庭の桜に目移りするという意味ではなかったかと思う。そんなのに気を取られていたのでは、いつまでたっても目黒不動に辿り着かない。
 季題は「花の三月」。「花」は植物で木類。

 さて、ラスト、挙句。

   どこもかも花の三月中時分
 輪炭(わずみ)のちりをはらふ春風   利牛

 「輪炭(わずみ)」は茶事に用いる輪切りにした墨のこと、とネットの辞書を引けば出てくる。
 『俳諧古集之弁』系には「野風呂堤たばこ盆などの趣向にあるや。」とあるが、「野風呂」は露天風呂ではなく、お茶の野点のことだろう。茶の湯を沸かす風炉から来たと思われる。「たばこ盆」は火入れ、煙草入れ、灰落とし、キセルをセットにした手で下げて持ち運べるお盆のこと。ただ、煙草盆が茶席などで一般的に用いられるようになったのは江戸後期なので、ここでは単に野点の風炉と考えて方が良いだろう。
 花の下での野点は風流なもので、そこかしこで行われていたのだろう。その灰が春風に巻き上げられていくさまに目を留めるのは、まさに俳諧だ。野点あるあるとでも言うべきか。
 季題は「春風」で春。

 こうして目出度く春の野点のいかにも江戸時代のリア充な風景で歌仙一巻は終了する。花の定座が習慣化して以来、連歌も俳諧もこうして予定調和的に終わる。湯山三吟のような秋の挙句のような、挙句の多様なパターンが試せなくなったのは残念なことではある。
 花の句や恋の句を遠慮し合い、花呼び出しや恋呼び出しが行われて意外性がなくなり、何もかもお膳立てされた形式ばった方向は、芭蕉といえども逆らいようがなかったのだろう。
 芭蕉の軽みの俳諧は、そんな中世に花咲いた連歌の最後の輝きだったのかもしれない。連歌俳諧はそういう意味では、正岡子規が登場しなくても既に衰退の一途をたどっていたし、近代文学の観点から「愚なるもの」として一蹴されなくても、既に十分愚だったかもしれない。
 それでも昔の華やかなりし時代の連歌俳諧を蘇らせてみたい。今は衰退していても、未来には世界のどこかで息を吹き返し、新たな文学の可能性を開くかもしれないからだ。
 連歌俳諧の文化は副産物として、大喜利やネタものや今日の日本のお笑い芸の隆盛を生み出した。今や日本の芸人がyoutubeを通じで世界を制する時代にすらなった。あるいは世界に広まった日本の漫画アニメもまた、俳画の系譜を引いているともいえる。俳諧の精神はそこかしこ日本人の遺伝子(文化的遺伝子:ミーム)となって今の日本の平和な文化を支えている。それは誇りにしてゆきたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿