2020年10月16日金曜日

  今日は旧暦八月の晦日。午後は久しぶりに晴れた。
 それでは「舞都遲登理」の続き。尿前の関へ。

 「是ヨリ達谷が窟、岩洞ノ深サ十間余アリ。此洞に二階堂、八間ニ五間と見えたり。多門天安置ス。不斷鎻テ人不入。大同二年田村丸建立と緣起に有。所は高山幽谷にして、人倫絕たる邊土、いが成鬼が住捨て、旅人尋入て道に迷ふ。此所より山の目と云へ出、又一ノ關通金成村へ出る。此村一里脇に、つくも橋あり。
             梶原平次景高
    陸奥の勢は味方につくも橋
        わたしてかけんやすひらが首」(舞都遲登理)

 中尊寺の南西の山の中に達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂がある。ウィキペディアには、

 「延暦20年(801年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた悪路王を討伐した記念として建てた。」
 「東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の窟毘沙門堂がある。さらにその西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている。」

とある。
 当初の毘沙門堂は延徳二年(一四九〇年)に焼失し、すぐに再建されたものの天正年間の兵火で再び焼失し、桃隣が見たのは慶長二十年(一六一五年)伊達政宗により再建された建物であろう。残念ながらこの建物も昭和二十一年に焼失し、今あるのは昭和三十六年に再建されたものだという。岩の下に赤い柱の高床の大きな堂が建っている。階段の下に古そうな狛犬があるが、さすがに桃隣の時代にはまだなかっただろう。
 山の目は一関市の山目で国道四号線が通っていて、国立岩手病院がある。
 この後一関から南へ向かい、有壁よりさらに南へ下ると金成に出る。ここから西へ行くと津久毛橋城跡がある。この城は南北朝の頃の城で、奥州合戦の頃はこの辺りは湿地で江浦藻(つくも)が一面に茂ってたという。頼朝の二十万の軍を渡すために梶原平次景高がそれを刈り取り、敷き詰めて橋にしたというが、どういう橋なのか想像がつかない。
 古代の駅路である東山道は多賀城の辺りに分岐点があって、そこから塩釜の方へ行くのがいわゆる「奥の細道」で、七北田川渡ったところから高森山の麓の利府の菅笠へ行く道がその跡だったのかもしれない。真北よりもやや西よりに直線を引けば、黒川、色麻といった地名のある所を通る。高森山の稜線ルートは木下良氏がすでに指摘している。
 鳴瀬川のところで北東に進路を変えれば低地を避けて栗原に至る。このとき伊治城址の方へではなく、やや西寄りの直線ルートを引けば、山王囲遺跡のあたりから津久毛橋城跡のやや西を経て、厳美渓から達谷窟に至るルートができる。ここからやや東寄りにルートを変えれば衣川関跡に着く。
 頼朝の軍勢も、おそらくこうした古代道路に近い道を通ったのだろう。昔の道は水害や崖崩れなどで多少左右に曲がりくねった道になったとしても、おおむねこのルートなら津久毛橋城跡の近くを通る。
 昔は河川が流れを変えることが多く、津久毛橋近辺も従来の道が通行できなくなっていた可能性がある。そのために新たに橋を架ける必要があったのだろう。
 曾良は『旅日記』に、「タツコクガ岩ヤへ不行。三十町有由。」と記しているように、達谷窟には行かなかった。翌日、

 「岩崎ヨリ金成(此間ニ二ノハザマ有)へ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩崎ヨリ行ば道ヨリ右ノ方也。」

と記している。岩崎はつくも橋より西の栗駒岩ケ崎だから、芭蕉と曾良は一関から南西へ向かい、古代の道に近い別のルートを通っていたようだ。

 「行ケば澤邊村十五丁南、川向にあねはの松アリ。則此邊栗原と云。宮野・筑舘・高清水、段々宿を來て、荒野と云宿西北ニアタリ朽木橋アリ。栗駒山則伊澤郡ノ内也。此邊よりは見ゆる也。峯高、水無月の雪猶白し。
    〇朴木の葉や幸のした凉
 古川と云宿に來て、秋山壽庵に所緣アリ。尋入て一宿。
    〇暑き日や神農慕ふ道の艸」(舞都遲登理)

 つくも橋から金成に戻って少し行くと迫川があり、その辺りが沢辺になる。川の向こうに『伊勢物語』第十四段に登場する栗原のあねはの松があるという。あの「くたかけ」の歌を詠んだ田舎娘がいたところだ。
 「梅若菜」の巻の二十三句目に、

   わかれせはしき鶏の下
 大胆におもひくづれぬ恋をして  半残

の句があったが、陸奥の国をさまよい歩く都から来た男に恋心を持つ女がいて、最初は恋に死ぬくらいなら蚕になるという歌を送る。それを哀れに思って男はそこに「いきて寝にけり」となるのだが、夜更けに帰ろうとするとその女は、

 夜も明けばきつにはめなでくたかけの
    まだきに鳴きてせなをやりつる

と詠む。
 「きつにはめなで」は古い時代には「狐に食めなで」つまり「狐に食はさずに」というふうに解釈されていた。今で言う「恨みはらさでおくべきか」のような言い回しで、「夜が明けたなら狐に食わさでおくべきか」といったところか。
 「くだかけ」は「朽た家鶏」。「この糞ニワトリめ」といったところで、現代語訳すれば、

 夜があけたら狐に食わすぞ糞ニワトリ
     まだなのに鳴いて彼氏帰らせ

といったところか。
 それに対し男は、

 栗原のあねはの松の人ならば
     都のつとにいざといはましを
 
と返す。栗原のあねはの松のように待っていてくれる人ならば、都の土産に連れて行こうと思ったのに、さすがに糞ニワトリは引くわ、といったところか。
 今の四号線に沿って進むとやがて栗原市の市街地になり、築館宮野中央という地名がある。その先で再び迫川を渡るが、手前が宮野、向こう側が筑舘だったのだろう。今ではくっついてしまっている。高清水はそれよりまた南になる。
 栗駒山は北西にあり、標高1,627メートルで、江戸時代の寒冷期には夏でも雪をかぶっていたのだろう。
 荒野、朽木橋はよくわからない。荒川という川があるが、そのあたりか。
 芭蕉と曾良は真坂を通っているが、こちらの方は古代の道に近いのだろう。

 朴木の葉や幸のした凉      桃隣

 朴木(ほうのき)の葉は朴葉味噌を乗せるあれで大きく、涼むにはちょうど良い。
 江合川を越えると古川になる。ここで桃隣は一泊する。秋山壽庵がどういう人なのかはよくわからない。

 暑き日や神農慕ふ道の艸     桃隣

 神農が出てくるところをみると多分医者なのだろう。

 「緒絶橋、此古川の町中ニアリ。此橋の名爰かしこにありて、以上四ツは覺えたり。何も故有事にや。此所を出て夜烏と云村へかゝる。小野塚アリ。仙臺名寄を見れば、中納言廷房卿・西行法師、兩説には、當國此所と有。髑髏の説は當國八十嶋と有。此嶋有所不知。
    〇晝顔の夢や夕日を塚の上」
 是より岩手へかゝる。磐提山、則城下の名也。いはでの關此所なり。
    〇爲家の山梔白し磐提山」(舞都遲登理)

 古川の市街地の古川佐沼線が小さな川を渡る所に緒絶橋がある。これで四回目だ。いわき小名浜に、多賀城に、塩釜に、そして古川に、いったいどれが本物なのか。今では一応この古川の緒絶橋が有力というか有名になっているようだが。古代道路が通っているところという意味では多賀城が最有力だが。
 古川からは北西へと向かう。そこには今も大崎市古川新田夜烏という地名がある。今でも小野小町の墓と言われているものがある。ただ、小野小町の墓と呼ばれているものは日本全国に十六か所はあるらしい。どれが本物なのか。もちろん全部偽物かもしれない。緒絶橋と言い、まあ要するにわからないということだ。
 『奥の細道』では松島から石巻へ行く途中で、

 「あねはの松・緒だえの橋など聞伝きて、人跡稀に、雉兎蒭蕘の往かふ道、そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻という湊に出。」

とあるが、確かに芭蕉と曾良は一関を出た後、古代道路の道筋に近い岩出山へ直線的に進むコースを取ってしまった。そのせいであねはの松と緒絶橋は通らなかった。でも、そこにないということは、両方とも本物かどうかは怪しい。
 ひょっとしたら曾良は古代の文献から古代東山道の道筋に大体の見当をつけていたのかもしれない。『旅日記』には、岩手山の「東ノ方、大川也。玉造川ト云。」と記しているが、文献から古代東山道が黒川、色麻の次に玉造駅があることを知っていたのではないかと思う。白河の関の場所も突き止めているし、かなり古代の地理を研究していたのではないかと思う。玉造川は今の江合川になり、岩出山の辺りは古代の玉造郡になる。

 晝顔の夢や夕日を塚の上     桃隣

 小野小町と昼顔との縁はよくわからない。ただ塚に昼顔が咲いていたことから、昼顔の夢の夕べに萎れるはかなさを追悼の言葉としただけかもしれない。
 江合川に沿って遡ってゆくと、陸羽東線の岩出山駅がある。このあたりの丘陵地帯が磐提山で、磐提山という峯があるわけではないようだ。

 爲家の山梔白し磐提山      桃隣

 藤原為家の詠んだ歌、

   洞院摂政家百首歌に、紅葉
 くちなしのひとしほ染のうす紅葉
     いはでの山はさぞしぐるらむ
                藤原為家(続古今集)

を思い起こしての句だろう。季節はまだ夏なので、クチナシはまだ白い花を付けているが、やがて山を黄色く染めることだろう。

 「此所より下宮と云村へ出る。さきは鍛冶屋澤、此間ニ小黒崎・水のをしまアリ。是ヨリ鳴子の温泉、前ニ大川綱渡し、彼十つなの渡し是成やと、農夫にとへどもしらず。川向ニ尿前と云村アリ。則しとまへの關とて、きびしく守ル。越へ行ば、笹森・うすき、此間ニ、かめわり坂有。小くにより新庄への脇道也。尿前より關屋迄十二里、山谷嶮難の徑にて、馬足不立、人家纔にアリ。米穀常に不自由。別而飢渇の折節宿不借、可食物なし。二度可通所ニあらず。漸及暮關屋ニ着て、檢斷を尋、歎きよりて一宿明ス。
       山路唫
    〇おそろしき谷を㥯すか葛の花
    〇燒飯に青山椒を力かな」(舞都遲登理)

 下宮は陸羽東線の池月のあたりで、鍛冶屋澤は川渡温泉駅の少し先の小さな川を渡る所に鍛冶谷沢のバス停がある。池月と川渡温泉の間に小黒ヶ崎があり、

 おぐろ崎みつの小島の人ならば
     宮このつとにいざと言はましを
             よみ人知らず(古今集)

の歌がある。「みつの小島(水のをしま)」もこの近くの江合川にある。
 川渡温泉の先に鳴子温泉がある。鳴子のこけしで有名なところだ。とはいえ鳴子のこけしは文化・文政の頃からというから、この時代にはまだなかった。「舞都遲登理」には「ナキ」とルビがふってあって、当時は「なきこ」だったか。
 川に綱を渡して渡れるようにしてあったので、歌枕の「十つなの渡し」かと地元の人に聞いたが知らなかったという。今では十綱の渡しは飯坂温泉ということになっている。芭蕉と曾良は宿泊したが桃隣は素通りしたところだ。ただ、芭蕉も曾良も桃隣も十綱の渡しについて何も記してないところからすると、特に変わったものはなく、普通に川を渡っただけでななかったかと思う。『奥の細道』にも記されているように、当時の飯坂温泉は寂れていて、名前まで飯塚にされてしまっていたくらいだった。
 おそらく『奥の細道』が多くの人に読まれるようになってから、この温泉街を変えようという機運が生まれ、対岸に綱を張った渡し船を作って、ここが十綱の渡しだというキャンペーンをやったのではないか。
 鳴子の先で江合川に大谷川が合流する。この辺りに尿前(しとまえ)の関があったようだ。今では史跡として整備され、建物はないが新たに門が作られ、芭蕉の銅像も立っている。近くに日本こけし館もある。
 尿前の関は大崎市のホームページに、

 「戦国時代には出羽の最上と境を接する 尿前しとまえの岩手の森に、岩手の関がありました。これが 尿前の関の前身です。
 出羽の国飽海郡の遊佐勘解由宣春(鳴子、遊佐氏の先祖)が大永年間(1521年から27年)に栗原郡三迫から、名生定の湯山氏の加勢としてここに小屋館を構え、後関守となりました。
 伊達藩になってから 尿前境目と呼ばれ、寛文10年(1670年)尿前番所を設置、岩出山伊達家から横目役人が派遣され、厳重な取り締まりが行なわれました。」

とある。
 曾良の『旅日記』には「関所有。断六ケ敷也。出手形ノ用意可有之也。」とあるだけが、『奥の細道』には「此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。」とある。「断六ケ敷也」は「ことわりむずかしきなり」と読む。厳しい取り調べがあったかどうかは知らないが、結構長い時間足止めされたのか、岩出山に宿泊して大した距離も進めぬまま、やむをえず堺田で宿を取り、次の日は大雨で足止めされた。そこからあの、

 蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと  芭蕉

の句が生まれた。
 桃隣も「則しとまへの關とて、きびしく守ル。」とは書いている。一応はあらかじめ出手形を用意するように曾良からアドバイスを受けていたのだろう。ただ、古川から歩いてきて既に日も傾いている。
 「越へ行ば、笹森・うすき、此間ニ、かめわり坂有。小くにより新庄への脇道也。」の笹森は山を越え山形県最上町の側に入り、堺田と赤倉温泉の間にある。ここを抜けると最上盆地になり、そこを横切った所に陸羽東線の鵜杉駅があるが、ここが桃隣の言う「うすき」だろう。鵜杉の先に瀬見温泉があり、その辺りに亀割山があるから、「かめわり坂」のその辺りだろう。そこを過ぎれば新庄だが、尿前から十二里、馬もなく途中に宿も飯屋もないため、関所の人に頼み込んで泊めてもらったようだ。
 芭蕉と曾良は新庄ではなく、堺田を出た後赤倉温泉の辺りから分岐する山刀伐峠を越える道を行き、尾花沢に抜けている。結局桃隣も尾花沢の大石田に向かうことになるのだが、ルートは不明。山刀伐峠のことに触れてないところをみると、笹森・鵜杉から舟形経由で北の新庄に行かずに南の大石田に出たか。

   山路唫
 おそろしき谷を㥯すか葛の花   桃隣

 この句は2016年9月29日の俳話でも取り上げている。尿前の関を過ぎると鳴子峡で急に深い谷あいの道になる。さっきまで葛の咲いている原っぱだと思っていたら、こんな恐ろしい谷を隠していたか、となる。葛花は万葉集では秋の七草だが、俳諧では葛は秋でも葛の花は夏の季語になっている。

 燒飯に青山椒を力かな      桃隣

 焼き飯は今日のようなチャーハンのことではなく焼きおにぎりかきりたんぽのような携帯食で、おそらく具も何もなく青山椒を利かせることで食べやすくしていたのだろう。

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