2020年10月17日土曜日

  旧暦九月一日の今日は一日雨。
 今日も「舞都遲登理」の続きで象潟へ。

 「是より尾花澤にかゝり、息を繼んとするに、心當たる方留守也。一のしに大石田へ出て、加賀屋が亭に休足。爰より坂田への乘合を求下ル。爰より彼最上川、間及たるよりも、川幅廣く水早し。左右の山續に瀧數多アリ。中にも白糸の瀧けしきすぐれたり。此川筋坂田迄二十一里、川の中、船關四ケ所アリ。尤大石田宿よりの手形、右の所々にて入ル。此聞繕乘べし。なぎ澤・清水・古口・清川、此四所なり。
    〇短夜を二十里寐たり最上川
    〇しら糸の瀧やこゝろにところてん
 坂田への入口、袖の浦・素我河原。
    〇薫るとは爰等の風か袖の浦
    〇うかれ出る色や坂田の紅衫花」(舞都遲登理)

 山刀伐峠の記述がないので、「笹森・うすき、此間ニ、かめわり坂有」という新庄への脇道を途中まで行って、舟形あたりから南へ行き、尾花沢に行ったと思われる。『奥の細道』のような「究竟の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携え」ということにはならなかったと思われる。
 遠回りだが一気に大石田まで行き、加賀屋で休息する。加賀屋についてはよくわからない。宿泊するでもなく、軽く仮眠をとるだけで船に乗り込み酒田に向かった。
 最上川は川幅が広くて流れが速く、左右にたくさんの滝があったという。
 一方芭蕉と曾良は尾花沢清風宅に滞在し、そこから立石寺へ行ってから大石田で、

 さみだれをあつめてすずしもがみ川 芭蕉

を発句とする興行を行う。それから最上川を下る船に乗ったから、この時は大石田の河岸から最上川を眺めただけだったのだろう。船に乗ってその流れの速さを実感し、後に、

 五月雨をあつめて早し最上川   芭蕉

に改作したと思われる。
 白糸の瀧は陸羽西線の高屋と清川の間を下ってゆくと右岸にある。何段にもなって落ち、高さは一二四メートルになる。他にも大滝、轡滝などがあり、周辺の渓谷も併せて最上四十八滝と言われている。
 船関がなぎ澤・清水・古口・清川と四ケ所あり、大石田で手形を準備するように注意している。名木沢は芦沢のあたりにあり、清水は最上郡大蔵村にあり、古口は最上峡の入口で奥羽西線に駅があり、清川は出口で同様に駅がある。

 短夜を二十里寐たり最上川    桃隣

 尿前からずっと歩き続けたから、大石田のからの船でもうとうとしてたのだろう。急流で熟睡とまでは行かなかったと思う。白糸の瀧は一応見ているし。

 しら糸の瀧やこゝろにところてん 桃隣

 ところてんは「心太」と書く。心に心太。
 船で出羽三山とかは吹っ飛ばして一気に酒田に行き、象潟を目指す。
 袖の浦は最上川河口の左岸(南側)になる。素我河原は不明だが、河口左岸の河原のことか。

 薫るとは爰等の風か袖の浦    桃隣

 袖の香に掛けた句で、「薫るとは爰等の風か」と問いかけて、「袖」の浦だからと落ちにする。

 うかれ出る色や坂田の紅衫花   桃隣

 「紅衫花」には「ツシカはな」とルビがふってある。「辻が花」のことか。ウィキペディアには、

 「辻が花は、縫い締め防染による染めを中心にしたもので、室町時代末期から江戸時代初期に至る短期間に隆盛して姿を消した。現存遺品数が300点足らずにとどまることもあって「幻の染物」と称されることがある。この染物は、縫い締め絞りを主体として、これに描絵、刺繍、摺箔などの加飾をほどこしたものであり、地はこの時代に特有な練貫地(生糸を経糸、練糸(精錬した絹糸)を緯糸に用いて織った地)が多く、製品の種別としては小袖および胴服が大部分を占めている。
 しかし、江戸時代中期に糊で防染する友禅の技法が確立、普及していくと、図柄の自由度や手間数の多寡という両面で劣る辻ヶ花は、急速に廃れ消滅した。その技法が急速に失われてしまったこと、また、その名の由来に定説がないこと(詳細後述)なども辻ヶ花が「幻の染物」と称される所以である。」

とある。
 ベニバナは芭蕉も尾花沢で「まゆはきを」の句を詠んでいるように、主に内陸部で栽培されていたが、最上川を使って酒田に運び、酒田から廻船で出荷されていた。その紅花を利用した辻が花がかつて酒田の名産だったのかもしれないが、これはあくまで推測。

 「さかたより象泻は行道、かたのごとく難所、半分は山路、岩角を踏、牛馬不通、半分は磯傳ひ、荒砂のこぶり道、行々て鹽越則きさかたなり。」(舞都遲登理)

 「かたのごとく」は「形の如く」で「形式どおりに。慣例に従って。」という意味だが、ここでは「例によって」「大方の予想通り」って感じか。
 吹浦から先の海岸線は山が迫っていて、山を越える時は岩場で牛や馬は通れず、海に出れば荒砂が風に舞い、吹きつけてきたのだろう。
 曾良の『旅日記』にはもう少し詳しく記されている。

 「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是 より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。」

 吹浦の先に羽越本線の女鹿駅があるから、その辺りから難所だったのだろう。大師崎、三崎は今は三崎公園になっている。羽後三崎灯台もある。その先に小砂川の集落があり開けた土地があり、羽越本線の小砂川駅もある。
 奈曽川の手前に今でも象潟町関という地名がある。有耶無耶(うやむや)の関は「むやむやの関」とも言う。「うやむや」だと有るか無いかという意味で、有るとも無いとも言えるとなるとうやむやになる。
 ただ有耶無耶の関は山形・宮城両県境の笹谷峠にあったという説もあり、結局よくわからない。
 塩越(鹽越)は今の羽越本線の象潟駅がある辺りで象潟の中心部になる。皇后山干満珠寺(蚶満寺)もここにある。

 「蚶泻眺望 小島の數七十八。東鳥海山。西荒海。町の末板橋の下、晝夜潮の指引有て、滿干毎に泻の姿異也。皇宮山干滿珠寺、額月舟筆、鐘樓山・西行櫻・閻魔堂・骨堂 袖掛堂是也・阿彌陀堂・觀音堂・藥師堂・赤坂普賢堂・十玉堂・冠石・神明腰掛石・兩玉山光岩寺・山光山淨専寺・青塚・若宮・塔ヶ崎・物見山・船着八幡・熊野堂・二堂・三石・堤留・鯨濱・稻賀崎・鼾崎・大石・伊佐野神山・火打山・烏石・上日山・森問・高嶋ノ辨才天・下白山・海人森・大鹿渡・唐渡山・十二森・漕當・男泻・女泻・腰長・合歡木・大師崎・八騎濱・女鹿渡・雎鳩巌・八ツ嶋・能因島。
 松嶋・象泻兩所ともに感情深、其俤彷彿タリ。倭國十二景の第一第二、此二景に限るべし。
    〇きさかたや唐をうしろに夏構
    〇能因に踏れし石か莓の花
      芭蕉に供せられ曾良も、此地に
      至りて
    〇波こさぬ契りやかけしみさごの巢」(舞都遲登理)

 「蚶泻」も「きさかた」と読む。「舞都遲登理」の序文にもこの文字で書かれていた。かつては入り江の中にたくさんの小島があったが、文化元年(一八〇四年)の象潟地震で隆起して今は田んぼになっている。松島が当時は「五十七嶋」だったが、象潟はそれより多い七十八島と言われていた。東に鳥海山を望み、西には日本海の荒海がある。
 象潟の当時の町と蚶満寺との間で象潟は日本海とつながっていて、そこに板橋が架けられていた。そこから海水が流れ込むことで象潟は干潮時と満潮時で姿を変えていた。今は象潟川になっている。
 曾良の『旅日記』に「象潟橋迄行而、雨暮気色ヲミル。」とあるのも同じ橋であろう。
 「皇宮山干滿珠寺」は曾良の『旅日記』には「皇宮山蚶弥寺」になっているが、これは曾良の書き間違いだろう。今は皇宮山蚶満寺(かんまんじ)だが、ウィキペディアによると、創建時には「皇后山干満珠寺」と号したという。月舟筆の額があったようだが、曹洞宗の僧で金沢大乗寺にいた月舟宗胡の方か。
 蚶満寺は室町時代に連歌師の梵灯が訪れたときは、

 「海に望て仏閣あり、又社壇あり。この所をばなにといふぞと問侍に、きさがたとなん申侍と答。さて其霊場に詣てみるに、僧坊など甍をならべたるが、築地もくづれ門も傾などして、星霜いくひさしかとおぼゆ。白洲に鳥居あり。」(「梵灯庵道の記」)

と荒れ果ててはいても、大きな寺で、垂迹の神社もあった。
 鐘樓山は蚶満寺の鐘楼堂のことか。
 西行桜は『奥の細道』に、

 「先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、『花の上こぐ』とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。」

とある。能因島は今も地名が残っていて蚶満寺の南側にある。西行桜は蚶満寺にあったと言われている。
 骨堂は蚶満寺の納骨堂か。
 袖掛堂は袖掛地蔵堂のことであろう。
 阿彌陀堂・觀音堂・藥師堂・赤坂普賢堂・十玉堂なども蚶満寺にあったのだろう。
 冠石は象潟海水浴場の方に地名が残っている。
 神明腰掛石は親鸞腰掛石のことか。
 兩玉山光岩寺は塩越の南の方にある。
 山光山淨専寺は塩越の北の方にある。
 青塚は日本海側で、青塚山砲台場がある。
 若宮は淨専寺の隣にある若宮八幡宮のことであろう。
 塔ヶ崎は不明。唐ヶ崎ならある。
 物見山は象潟川の河口南側にある。
 船着八幡は象潟川の北側にある。対岸にある熊野神社が熊野堂であろう。
 烏石は高泉寺の近くにある烏島のことか。
 土地が隆起してすっかり地形が変わってしまったため、かつての名所が今のどこなのかわかりにくく、とりあえず分かったものを列挙したが、また判明したものがあったら付け加えていくことにしよう。
 桃隣が「松嶋・象泻兩所ともに感情深、其俤彷彿タリ。倭國十二景の第一第二、此二景に限るべし。」というときの倭国十二景はおそらく大淀三千風の本町十二景のことではないかと思う。三千風の主張する十二景は次の通りで、世に知られた地であった。
 田子の浦、松島、箱崎、橋立、若浦、鳰海、厳島、蚶潟、朝熊、松江、明石、金沢の十二で、コトバンクの「事典・日本の観光資源の解説」も、

 「[観光資源] 明石 | 朝熊 | 天橋立 | 厳島 | 金沢 | 蚶(象)潟 | 田子浦 | 筥崎 | 琵琶湖 | 松江 | 松島 | 和歌の浦」

と一致するので、元ネタは三千風の「本朝十二景」であろう。三千風は談林時代、西鶴の大矢数と張り合って、三千句興行をやった所からこの名前がある。伊勢の生まれだが寛文九年(一六六九年)に松島に行き、そのまま仙台に住み着いた。天和三年(一六八三年)から七年かけて日本全国を行脚し、「本朝十二景」もそこから生まれたものであろう。朝熊は伊勢の朝熊、金沢は金沢八景、鳰海は琵琶湖のこと。

 きさかたや唐をうしろに夏構   桃隣

 夏構は「なつがまえ」で夏姿というような意味か。「唐をうしろに」は中国のどの絶景も及ぶまいということだろう。

 能因に踏れし石か莓の花     桃隣

 象潟には能因島があるように、能因法師が滞在したところで、

 世の中はかくても経けり象潟の
     海士の苫屋をわが宿にして
              能因法師(後拾遺集)

の歌を残している。象潟に来るとその辺の石も昔能因が踏んだ石ではないかと思えてくる。石には苔が生えていて、苔の花が夏の季語になる。

   芭蕉に供せられ曾良も、此地に
   至りて
 波こさぬ契りやかけしみさごの巢 曾良

 この句は『奥の細道』には、

   岩上に雎鳩の巣をみる
 波こえぬ契ありてやみさごの巣  曾良

の形で載っている。
 自筆本『奥の細道』でも既にこの形になっている。曾良の『俳諧書留』には見られない句なので、帰ってきてから作った句の初案だったのだろう。
 ミサゴを表す「雎鳩」の文字は『詩経』の「關雎」から来たもので、

 關關雎鳩 在河之州
 窈窕淑女 君子好逑
 仲睦まじく鳴き交わすみさごが河の中州にいるように、
 奥ゆかしく清らかな女性を君子は好んで伴侶とする。

に始まる。仲睦まじいミサゴの巣を見て、

 君をおきてあだし心をわが持たば
     末の松山浪も越えなむ
            よみ人知らず(古今集)

のような契りがあったのだろう、という句だ。ミサゴは英語でオスプレイといい、ホバリングの状態から急降下して獲物を取る。

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