「分断」という言葉は基本的に左翼系の人たちの使う言葉で、多分この言葉は「労働者階級を分断する」という意味だったのだろう。労働者と資本家は最初から階級闘争で敵対関係だから、元々ここに分断はない。
冷戦終結で社会主義への関心が薄れ、労働者と資本家を敵対的に捉える人も少なくなり、また起業や投資による資本への参加が容易になったことで、労働者と資本家との境界もあいまいになった。こうした風潮に対し、あくまで昔ながらのプロレタリアを貫く人との間に、いわゆる「分断」が生じたのではないかと思う。
マルクスの時代の労働者階級は『資本論』の分析のように、資本の利潤を受けられず、仲間外れ(疎外)にされて、絶対的貧困を強いられていたが、戦後の高度成長を経て労働者の貧困が「相対的貧困」にすぎなくなったあたりで、労働者の間に中流意識が生じ、労働者と資本家との境界意識が薄れた層と、相対的貧困でもあくまで資本主義の矛盾として革命による解決を求める層とに分裂していった。
今となってはあまり階級を意識せずに国民としての一般的な意識で生活する人の多い中では、あくまで階級闘争に固執する人たちの方が「分断」を煽っているように見える。ただ、左翼の側からすると、資本家が労働者の一部を取り込んで労働者を分断しようとしているというふうに映るのだろう。
それでは「はやう咲」の巻の続き。挙句まで。
二裏。
三十一句目。
萩とぞ思ふ一株の萩
何事も盆を仕舞て隙に成 此筋
お盆が終わって精霊棚やなにかを片付けてしまうとすることもなく、それまで目に留まらなかった萩が咲いているのが目に入る。
三十二句目。
何事も盆を仕舞て隙に成
追手も連に誘う参宮 曾良
お盆の前は大晦日同様つけや借金を取り立てる。済んでしまえば取り立てに来た人も誘ってお伊勢参りに行く。
三十三句目。
追手も連に誘う参宮
丸腰に捨て中々暮しよき 残香
宮本注には「武士の身を捨てて、かえって気楽なさま」とある。
お伊勢参りも格式ばらずに気ままに物見遊山を兼ねた旅ができるのは庶民の特権だった。
ただ、武士の身分を捨てて困るのは仕事だろう。絵だとか俳諧だとか医者だとか、何か芸がなければ「暮しよき」とはいかなかっただろう。
三十四句目。
丸腰に捨て中々暮しよき
もののわけ知る母の尊さ 木因
武家身分を捨てても母の援助を受ければ「暮しよき」にはなるか。
三十五句目。
もののわけ知る母の尊さ
花の蔭鎌倉どのの草まくら 如行
鎌倉殿は鎌倉の将軍のことだが、この場合源実朝のことで、母は北条政子か。政治は母や北条義時に任せ、和歌を好み旅をした。ただその末路は…。
挙句。
花の蔭鎌倉どのの草まくら
梅山吹にのこるつぎ歌 斜嶺
「つぎ歌」は上句に下句を付けるだけの鎖連歌以前の短連歌のことであろう。
山吹といえば、
山吹の花の盛りになりぬれば
井手のわたりにゆかぬ日ぞなき
源実朝(金塊集)
の歌がある。
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