「安々と」の巻も終わったので、ふたたび「舞都遲登理」に戻る。前回は金華山だったのでその続きで平泉へ。
「是より右の道筋へ出、石の巻へ戻り、和沼・新田へかかり、清水を離て、高館の大門アリ。平泉ヨリ五里手前、城郭惣構なり。少行テ一ノ關、是ヨリ高館・平泉。義經像・堂一宇。辨慶櫻、中尊寺入口ニ有。龜井が松、田の中に有。北上川・衣川・衣の關・關山・金雞山。和泉城、衣ノ關ヨリハ五丁西南ニアタリ、一方は陸三方は衣川也。弘臺壽院中尊寺は東叡山末寺、當住浄心院。當寺は慈覚大師開基、貞觀四年、元禄九マデ八百八十五年ニ成。金堂・光堂是也。三間四面、七寶莊嚴ノ巻柱、合天井、黄金ヲ彩、獸鳥十色ヲ競、其結構言語ニ絶タリ。唯扉ヲ開ケバ、日月ノ光明タル計也、本尊釋迦。秀衡三代ノ廟、堂ノ下に體を納ム。經堂、本尊文殊。一切經二通紺帋金泥。寶物、水晶ノ生玉・龍ノ牙齒・秀衡太刀・義經切腹九寸五分。
白山權現・藥師堂・八幡宮・姥杉十五抱 此外古跡多シ。中尊寺ヨリ案内なくては不叶。
〇金堂や泥にも朽ず蓮の花
〇田植等がむかし語や衣川
〇軍せん力も見えず飛ほたる
〇虹咲てぬけたか凉し龍の牙」(舞都遲登理)
金華山から来た道を通り石巻へ戻り、北にある平泉へと向かう。
「和沼・新田」はこれだけだとよくわからないが、芭蕉と曾良も同じ道を通ったと思われるので、曾良の『旅日記』を見てみよう。
「一 十一日 天気能。石ノ巻ヲ立。宿四兵へ、今一人、気仙へ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻、二リ鹿ノ股(一リ余渡有)、飯野川(三リニ遠し。此間、山ノアイ、長キ沼有)。曇。矢内津(一リ半、此間ニ渡し二ツ有)。戸いま(伊達大蔵)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス。検断庄左衛門。
一 十二日 曇。戸今を立。三リ、雨降出ル。上沼新田町(長根町トモ)三リ、 安久津(松嶋ヨリ此迄両人共ニ歩行。雨強降ル。馬ニ乗)一リ、加沢。三リ、皆山坂也。一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。」
この行程は『奥の細道』には「心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどとおぼゆ。」とある。
北上川に沿って北上したなら、長沼は今の東北本線新田駅にの方にある長沼ではない。鹿ノ股(今の鹿又)で旧北上川を渡り、かつて存在していた陸前豊里のあたりから現北上川が大きく東に曲がる飯野に通じていた飯野川を渡った時、おそらく今の北上川の流れている柳津から飯野までの部分が長い沼になっていたのだろう。これが和沼だったか。
矢内津がおそらく今の柳津で、ここで再び旧北上川を渡る。そして北上川に沿って北上し登米市登米(とよま)町に出るが、ここが戸伊摩(といま)だったと思われる。芭蕉と曾良はここで一泊した。
その三里先にある「上沼新田町(長根町トモ)」が桃隣の言う「新田」であろう。今の中田町上沼の上沼古館跡のあたりに長根という地名が残っている。
曾良の『旅日記』にある「安久津」は涌津(わくつ)のことと思われる。加沢はそのさきにある金沢(かざわ)であろう。その先に東北本線の清水原という駅があり、近くに清水公園があるが、桃隣のいう清水はこのあたりか。今の地名は花泉町になる。
「清水を離て、高館の大門アリ。平泉ヨリ五里手前、城郭惣構なり。少行テ一ノ關」とあるこの大門は、曾良の『旅日記』に記述がない。清水と一関の間にある城郭惣構というと有壁館跡のことか。有壁氏が天正十八年(一五九〇年)まで居城としていたところで、桃隣の時代から百年前のものだからまだかなりその姿を残していて、高館の大門と勘違いしたのかもしれない。あるいは当時は高館の大門に見立てられていたが、曾良は偽物だと見破って書き留めなかったのかもしれない。
曾良は平泉を一巡りした日の日記をこう書いている。
「一 十三日 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉へ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見へズ。タツコクガ岩ヤへ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金雞山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。」
高館は出てくるが大門についての記述はなく、『奥の細道』には「大門の跡は一里こなたに有」とある。途中の山ノ目から一里半だから、大門の跡は山ノ目の半里先ということになる。この場合の山ノ目は今の東北本線山ノ目駅の方ではなく今の国道四号線に近いルートだったとするなら、今の国立岩手病院の辺りの山目の先の峠のことを言っていたのかもしれない。伊達の大木戸と同じで、大門といっても峠のことというのはありそうなことだ。
「少行テ一ノ關、是ヨリ高館・平泉。義經像・堂一宇。辨慶櫻、中尊寺入口ニ有。」と、桃隣の文章の方にはここに高館の大門はない。
高館は中尊寺の手前の北上川の近くのある。今は高館義経堂が立っている。天和三年の建立だが、現在ここにある義経像は宝暦年間の作で、芭蕉や桃隣の頃にはまだなかった。「堂一宇」はあったがここでいう「義経像」は別もので、初代の義経像があったのかもしれない。
高館は小高い丘で、以前2018年6月27日の俳話で『嵯峨日記』を読んだ時に、『本朝一人一首』という林鵞峰の編纂で寛文五年(一六六五)に出版された漢詩集に収録された、
賦高館戦場 無名氏
高館聳天星似冑 衣川通海月如弓
義経運命紅塵外 辨慶揮威白波中
林子曰此詩世俗口誦流傳未知誰人所作
高館は天に聳え星は兜ににて
衣川は海に通じ月は弓のごとし
義経の運命は血塗られた戦場の外にあり
弁慶は武威を揮い白波の中
林鵞峰が言うにはこの詩は世俗で口承され伝わってきたもので、作者が誰だかは未だわからない。
という詩について触れた。小高い岡の上にあった高館はいつの間にか天に聳えるまでになり、北上川にそそぐ衣川はいつの間にか海にそそぐまでになって、かなり盛られている。
芭蕉は本物の高館を見ているから、「其地風景聊以不叶。古人と イへ共、不至其地時は、不叶其景。」と言っている。
「弁慶桜」も、さすがに当時の物は残ってないだろう。伝弁慶墓なら参道の入り口付近にある。中尊寺の入り口付近にあったのだろう。
「龜井が松、田の中に有」は今の伝亀井六郎重清松跡のことであろう。参道入り口・平泉文化史館傍にあるという。平泉文化史館が建つまでは、この辺りは田んぼだったのだろう。
「北上川・衣川・衣の關・關山・金雞山。」はこのあたりの名所で、北上川は中尊寺の東に、衣川は北にある。衣の關は衣が関とも衣川関とも呼ばれるもので、正確な位置はわかっていないが中尊寺の西の衣川区川端に衣河関跡擬定地がある。関山は中尊寺の山号でもあり、中尊寺のある辺りの山が関山なのだろう。金雞山は中尊寺の南西にある。中尊寺に続く道は右に高館、左に金雞山が門のように並んでいる。
「和泉城、衣ノ關ヨリハ五丁西南ニアタリ」とある和泉城跡は中尊寺の北西の衣川を渡った所にある。「一方は陸三方は衣川也」とあるように、衣川はここで蛇行していて、北は陸だが東南西は川になっている。
衣河関跡擬定地の東三百メートルくらいの位置なので、桃隣のいう衣の關はここではなかったのか。和泉城跡から五百メートル北東というと、長者ケ原廃寺跡の方になる。かつては金売吉次の屋敷跡とされていた。
さていよいよ中尊寺の境内に入る。
「弘臺壽院中尊寺は東叡山末寺、當住浄心院。當寺は慈覚大師開基、貞觀四年、元禄九マデ八百八十五年ニ成。金堂・光堂是也。三間四面、七寶莊嚴ノ巻柱、合天井、黄金ヲ彩、獸鳥十色ヲ競、其結構言語ニ絶タリ。唯扉ヲ開ケバ、日月ノ光明タル計也、本尊釋迦。秀衡三代ノ廟、堂ノ下に體を納ム。經堂、本尊文殊。一切經二通紺帋金泥。寶物、水晶ノ生玉・龍ノ牙齒・秀衡太刀・義經切腹九寸五分。」
東叡山末寺とあるのは、ウィキペディアに「寛文5年(1665年)には江戸・寛永寺の末寺となった。」とあるように、当時は東叡山寛永寺の末寺だった。今日では慈覚大師による嘉祥三年(八五〇年)に開基と伝えられている、という扱いになっている。桃隣の言う貞観四年だと八六三年になる。いずれにせよはっきりとはしない。
「金堂・光堂」は二つの呼び方がある同じもので、今日では金色堂と呼ばれている。そのきらびやかさには桃隣も圧倒されたようだ。本尊は正確には阿弥陀如来だがまあその辺の細かい区別は一般人にはわかりにくいところだ。『奥の細道』の方も「三尊の仏を安置す」と大雑把だ。
金堂・光堂は今の旧覆堂の位置にあったが、一九六三年(昭和三十八年)に金色堂は解体修理され、今の場所に移され、新たな鉄筋コンクリートの鞘堂で覆われることになった。
金色堂とともに経蔵も古くからの中尊寺の名残をとどめるもので、本尊の文殊五尊像(木造騎獅文殊菩薩及脇侍像)は今は讃衡蔵に展示されている。曾良の『旅日記』には「経堂ハ別当留守ニテ不開」とあり、残念ながら芭蕉と曾良は見ることができなかったようだ。
一切經二通紺帋金泥は紺の紙に金泥で文字や絵の描かれた一切経で、中尊寺経とも呼ばれている。何千とあったものの近世初頭にその大部分が流出して、今日残っているのは十五巻だという。桃隣が見たのはそのうちの二通だったか。
水晶ノ生玉は棺の中に収められていた水晶の念珠のことか。秀衡太刀も棺にあったものであろう。
龍ノ牙齒は不明。
義經切腹九寸五分も不明だが、元文三年(一七三八年)にここを訪れた田中千梅も『松島紀行』に記しているから、そのような宝物が存在していたのだろう。
「白山權現・藥師堂・八幡宮・姥杉十五抱 此外古跡多シ。」の白山神社は中尊寺の奥にある。昔は白山権現だったのだろう。姥杉もここにある。峯薬師堂は境内にある。八幡堂も月見坂の入り口付近にある。
さて、発句だが、
金堂や泥にも朽ず蓮の花 桃隣
これは芭蕉の『奥の細道』自筆本にある五月雨の句の初案、
五月雨や年々降りて五百たび 芭蕉
の影響があっただろう。光堂は鞘堂に守られ、長年の五月雨のもたらす泥にも朽ちることなく、今も蓮の花のような輝きを保っている。
田植等がむかし語や衣川 桃隣
衣川のあたりは遅い田植が行われていたが、衣川の戦いのことは彼らにあっては遠い昔の物語にすぎない。
軍せん力も見えず飛ほたる 桃隣
これも『奥の細道』自筆本の、
蛍火の昼は消えつゝ柱かな 芭蕉
の影響であろう。蛍火はさながらここで戦死した兵(つわもの)どもの魂のようだが、今となってはもう軍する力もない。恨みは残るものの、その一方で平和な時代を喜ぶものでもある。
虹咲てぬけたか凉し龍の牙 桃隣
虹は古代中国では龍の姿とされていた。中尊寺の秘宝「龍の牙歯」は今はよくわからないが、虹をもたらす龍が落としていったものか、雨上がりの爽やかな涼しさが感じられる。
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