旅の目的というのは、旅先で不審者にならないために必要なことだ。
家の周りで見知らぬ人がうろうろしていれば、誰だって気になるし不安になる。どこを旅するにしても、そこに住んでいる人からすれば見知らぬ余所者だし、その姿は不審者に映っても不思議はない。
だから、旅をするときは目的をはっきりさせ、不審尋問されたときにもきちんと何をしにここに来ているのか説明できなくてはならない。
巡礼というのは昔からそのわかりやすい目的だった。別に伊勢でなくても、多くの人が納得できる巡礼場所ならだれも不審には思わない。それは幕府の移動制限だとかいう以前の問題だったのではないかと思う。
街道に立派な並木道を整備したのも、旅人は迷わずにここを通れということだったのだと思う。コースアウトして、見知らぬ民家の前をうろうろするとなると、誰が見ても怪しい人だ。怪しい人になりたくなかったら、きちんと街道を行けということになる。
今では「観光」というのが巡礼に準じた大義名分になっている。そのためには観光はある程度有名な名所を廻らなくてはならない。誰も行かないようなところに行くと、それは穴場かもしれないが、住民からしたら何しに来たんだとなる。
次に「趣味」というのが一応の大義名分になる。登山だったり、バードウォッチングだったり、鉄だったり、そういう趣味のために来ているというのも、一応わかりやすい説明にはなる。大事なのはそれっぽい恰好をしていることだ。街道ウォーキングというのも一応名目になる。
自治体がハイキングコースだとか散策コースを整備するのも、旅人にあまり変なところにコースアウトしてほしくないということなのではないかと思う。
芭蕉の旅が多くの神社仏閣を廻るのも、旅のために僧形になるのも、不審者に間違えられることなく安全に旅するには不可欠なことだったのだと思う。
コロナ時代でも地元の人に不安を与えないためには、できるだけ有名な観光地を巡り、下手に穴場探しをしないということも必要なのかもしれない。
それでは「はやう咲」の巻の続き。
十三句目。
書物のうちの虫はらひ捨
飽果し旅も此頃恋しくて 左柳
部屋に籠り、書物の虫干しをして、静かに隠棲していても、旅をしていた頃を思い出して旅に出たくなる。
一度脳内快楽物質の回路ができてしまうと、旅をしていた頃のあの快感が忘れられずに、また繰り返してしまうものだ。元禄七年の芭蕉もそうだったのか。
十四句目。
飽果し旅も此頃恋しくて
歯ぬけとなれば貝も吹れず 芭蕉
長いこと旅から遠ざかった前句の人物を修験者とする。修験者は巡礼もすれば登山もする。ただ、年老いて歯も抜けて法螺貝を吹くこともできなくなると、さすがに昔を恋しがるだけになる。
十五句目。
歯ぬけとなれば貝も吹れず
月寒く頭巾あぶりてかぶる也 文鳥
年寄りは頭巾のひんやりするのを嫌い、火にかざして温めてから被る。
十六句目。
月寒く頭巾あぶりてかぶる也
あかつき替る宵の分別 荊口
「分別」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①心の働きによって対象を理解判断すること。▽誤った理解・判断にもいう。◇仏教語。
②(一般に)物事の道理・善悪・得失などを考えること。またその思案。思慮分別。
出典徒然草 七五
「ふんべつみだりに起こりて、得失止(や)む時なし」
[訳] 思慮分別がやたらに起こって、利害を思う心がやむ時がない。」
とある。今は道徳的な判断以外にはあまり使わないが、昔はそんな特別なことではなく、この句でも夕方と明け方で考えが変わる程度の意味で用いてたようだ。
寝る時はまだそんな寒くないと思っていても、明け方になって冷えてきて、あわてて頭巾を取り出し、火で温めて被る。
十七句目。
あかつき替る宵の分別
一棒にあづかる山の花咲て 路通
「一棒(いちぼう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 仏語。禅宗で師家、禅僧が修行中の弟子を導くために棒で警醒すること。また、それに用いる棒。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※談義本・世間万病回春(1771)二「その躰相(ていさう)さも一棒(ボウ)の下に打殺すべきいきほひ」
とある。弟子を導くと言っても夕べと朝とで言うことが違う困った師匠もいるもんだ。
ただ、昨日は厳しく修行すると言っていて、今朝花が咲いてるのを見たら一転して今日は遊ぼうと、こういう朝令暮改なら歓迎だ。
十八句目。
一棒にあづかる山の花咲て
塩すくひ込春の糠味噌 越人
お坊さんだと花見といっても肉や魚はなしで、糠味噌に塩を足して糠漬けを作る。
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