『奥の細道』の旅の最後がなぜ伊勢なのかについて、当時はお伊勢参りを名目にしないと旅ができなかったからだという説があったが、桃隣の「舞都遲登理」の旅は象潟まで行ったが、そこで伊勢へ向かわず出羽三山の方へ戻り、そのまま江戸に帰ってきている。
つまりお伊勢参りは旅の名目にはなるものの、別に伊勢でなくても旅ができたというのは間違いない。芭蕉にも『鹿島詣』や『更科紀行』の旅があった。巡礼であれば別に鹿島神宮でも善光寺でも問題はなかった。江戸時代はお伊勢参りだけでなく、富士講や三峯講や大山詣も人気あったし、札所巡りも盛んだった。
尿前の関を越える時でも、まったく方向の違う伊勢を引き合いに出すよりは、出羽三山に詣でると言った方が通りは良かったのではないかと思う。
なら何で『奥の細道』は伊勢で終わるのか。まあ、どう考えても名所でも何でもない大垣で終わるよりは、伊勢で終わった方が見栄えがいいに決まっている。それだけのことではなかったかと思う。
それでは「はやう咲」の巻の続き。
初裏。
七句目。
なをおかしくも文をくるはす
足のうらなでて眠をすすめけり 荊口
足の裏には「失眠」というツボがあり、ここを刺激すると不眠症に効果があるという。ただ素人がやってもくすぐったいだけで文をくるわす。
八句目。
足のうらなでて眠をすすめけり
年をわすれて衾かぶりぬ 此筋
此筋は荊口の長男。
「衾(ふすま)」は「安々と」の巻の十句目でも登場したが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 布などでこしらえ、寝るときに体をおおう夜具。ふすま。よぎ。
※参天台五台山記(1072‐73)三「寝所置衾。或二領三領八十余所」 〔詩経‐召南・小星〕」
とある。
今でも忘年会というのがあるが、昔の数え年では正月に一つ年を取った。年を取るのを忘れていつまでも若くいようというのが忘年会の趣旨で、今年あったことを忘れるという意味ではない。「望年会」などと言っているのは日本語を知らない連中だ。
足裏のマッサージで不眠を治し、大晦日は早いとこ衾をかぶって寝て、年を取るのを忘れよう。昔は初詣なんてものはなかったし、大晦日に夜遅くまで起きているのは借金に追われているか取り立てている人だけだ。
九句目。
年をわすれて衾かぶりぬ
二人目の妻にこころや解ぬらん 木因
江戸時代前期は離婚率も高く、二人目の妻も珍しくはなかった。
息子が後妻を迎えたはいいが、若い妻にどう接していいかわからず、年甲斐もなく衾を被って引きこもる。
十句目。
二人目の妻にこころや解ぬらん
けづり鰹に精進落たり 残香
鰹節は関西では普及していたが、関東に普及するのはまさにこれからという時期だった。
前妻の法要のために肉や魚を断っていたのだろう。だがしかし、二人目の妻と削り節の誘惑に負けて、ついつい精進をやめてしまう。
十一句目。
けづり鰹に精進落たり
とかくして灸する座をのがれ出 曾良
ここでようやく曾良の登場。
病気の療養で肉や魚を断ったり灸(やいと)をしていたりしたのだろう。ただ、どうしてもお灸が苦手で、逃げ出したついでに鰹節の利いたものを食べる。
十二句目。
とかくして灸する座をのがれ出
書物のうちの虫はらひ捨 斜嶺
「虫払い」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「夏の土用のころに衣類や調度,書籍などを取りだして日に干し風にあてて,カビや虫害から防ぐこと。〈虫振い〉〈虫干し〉〈風入れ〉〈土用干し〉などともいう。古くは〈曝涼(ばくりよう)〉といい,正倉院の平安初期の曝涼帳の記載が伝えられている。《日次紀事》には〈此月(6月)土用中,諸神社諸仏寺,霊宝虫払〉とある。 なお沖縄では虫送りをムシバレー(虫払)といい,2月から6月にかけて行っている。これは害虫をバショウの葉などに包んで海に流し,作物を病虫害から守って豊作を祈願するもので,虫が戻らぬように干潮に向かうときに行うのがよいとされ,この日は植付けや火の使用を禁ずる伝承もある。」
とある。この最後の「この日は植付けや火の使用を禁ずる」がヒントだろう。火を使っちゃいけないのだからお灸からも逃れられる。
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