『天野桃隣と太白堂の系譜並びに南部畔李の俳諧』(松尾真知子著、二〇一五、和泉書院)では、談林のブームの去ったあたりから点者や前句付の方に転向していった調和や不角との関係が取りざたされている。あるいは『陸奥衛』全五巻の大作を出版する際のスポンサーで、陸奥の旅も調和の門人から金を集めるためだったのではないかと、勘繰る部分もある。
その辺の事情はまあとにかくとして、筆者鈴呂屋の印象からすると、この「舞都遲登理」の旅で桃隣は、とにかく芭蕉のように詠みたいというその意気込みがよく伝わってくる。ただ、いくら意気込んでも何か一つ足りないという気分にさせられる。
思うに、桃隣が芭蕉から受け継いだのは、とにかく何か気の利いたことを言って人を笑わせたい、人を楽しい気分にさせたいという部分ではなかったかと思う。だから桃隣にとって面白くて人を楽しませるものであれば、調和や不角の句を排除する理由はなかったのだと思う。
芭蕉さんと過ごした日々のように、俳諧を楽しみたい、談笑を楽しみたい、小難しいこと抜きに楽しみたい、それが桃隣だったのではなかったかと思う。
関西系の去来、支考、許六、越人といったところがそれぞれの理屈にこだわり、議論倒れになってゆく中で、江戸の蕉門は其角にしても嵐雪にしてもそうだが、基本的に理屈が嫌いだったのだと思う。理屈抜きに楽しもうというところで、芭蕉亡き後の全国とも言っていい俳諧師たちが桃隣を中心に一堂に集まった、その集大成が『陸奥衛』だったのではないか。そう思って読んだときに『陸奥衛』の良さがわかるのではないかと思う。
それでは「舞都遲登理」の続き。あとは伊勢へも行かず帰り道。
「山形より山路を經て、ゆの原へ出ル。わたる瀬村と關村の間に、飛不動、堂守は茶を煎て往來に施ス。いつの比か飛騨匠、一夜の内に堂建立せんと暫して、良材を集初けるに、半に鷄の聲聞ゆ。夜は明たりと大願むなしく成ぬ。角の柱は崖に連て岩と成ル。今見るに八寸の角を雙べて、幾重竪に立たるがごとし。彼岩の頂は幽に見えて、前は早川也。組立たる岩の高サ八十丈余、横二百丈余、往來の貴賤暫足を留、膽を動ス。是より段々出て桑折に着ク。田村何某の方に休足。」(舞都遲登理)
山寺を出ると羽州街道を通って桑折(こおり)へ出る帰り道になる。桑折というと飯坂温泉から伊達の大木戸へ行く間だった。
山寺を出ればまずは山形城下の山形宿、奥羽本線蔵王駅の辺りにあった松原宿、そのすぐ南の黒沢宿、そしてかみのやま温泉のある上山宿から南の山の中に向かい、楢下、そして金山峠を越えれば干蒲、白石川に沿って下れば七ヶ宿町湯原(ゆのはら)に出る。
関はそこからかなり先になる。渡瀬宿はその次の宿だが、残念ながら渡瀬宿は七ヶ宿ダムができたことによって七ヶ宿湖の底に沈んでしまった。ただ、材木岩はダムのすぐ下に残っている。幅は約100m、高さは約65mで、桃隣の見立てだと幅二百丈余は六百メートル、高さ八十丈余は二百四十メートルだから、かなり差がある。材木岩はダムの上の方まで続いていたのかもしれない。
材木のように見えるのは柱状節理と呼ばれる玄武岩や安山岩が柱状になったものだからだ。
飛不動は材木岩の対岸にあり、飛不動跡地の説明書きには、
「ご由来記によると天正十九年(一五九一年)仙台藩伊達政宗公が羽州置賜郡小松村より、この霊地に不動明王を創建され、武運長久、藩内安全、天下泰平を祈念する。野火の為お堂消失の際本尊不動明王は後方虎岩三十丈余りの高き岩窟に飛んで難を避け無事であることから御霊験を称え飛不動明王と尊崇され大勢の参詣者を得た。
現在飛不動尊堂は旧七宿街道江志峠(後方これより約一・五キロ)に鎮座し災難よけ、家内安全の祈願者が絶えず訪れている 別当 清光寺」
とある。
野火は文禄三年(一五九四年)の業火で、今は違う場所にあるのは享保十六年(一七三一年)の大地震により虎岩が崩落の崩落と享保十九年に新しい道ができたため、そこに新たに建立されたという。新しい飛不動の方は今もある。
「堂守は茶を煎て往來に施ス」というのは唐茶のことであろう。隠元禅師がもたらした明風淹茶法で、『日本茶の歴史』(橋本素子、ニ〇一六、淡交社)には、
「『唐茶』には、中国から伝えられた茶の意味があるものと見られ、元禄十年(一六九七)に刊行された宮崎安貞の『農業全書』に、その作り方が記されている。そこには、鍋で炒る作業と、茣蓙・筵などの上で揉む作業とを交互に行うとある。
このように、隠元の茶については一次史料が残されてはおらず、はっきりとはわからないが、後世の展開状況からさかのぼって考えると、『鍋で炒る』と『揉む』行程を交互に行い製茶した『釜炒り茶』と同様のものではないかと見られる。」(p.143)
とある。
さて、材木岩を後にすると、街道は白石川を離れ、今の県道46号白石国見線に近いコースで七ヶ宿峠を越えて桑折へ出る。田村何某氏の所に泊まり、この時『陸奥衛』二巻「むつちとり」にある、
誰植て桑と中能紅畠 桃隣
を発句とする歌仙興行が行われたのだろう。桑と仲良く紅畠というのは、羽州街道で桑折と紅花の産地である山形とが結ばれていることを言うのであろう。
脇がその田村何某氏であろう。
誰植て桑と中能紅畠
蓬菖蒲に葺隠す宿 不碩
この宿は桑でも紅花でもなく、屋根に生えた蓬と端午の節句で軒に差した菖蒲に隠れてしまっています、と答える。四月にここを通った時に立ち寄ってくれなかったことがちょっと不満だったのかな。
第三は桃隣とずっとともに旅をしてきたこの人。
蓬菖蒲に葺隠す宿
陰の膳旅の行衛をことぶきて 助叟
「陰の膳」は陰善(かげぜん)のことで、コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「旅などに出た家人の無事を祈って,留守のものが仮に供える食膳。長旅,出漁,出稼ぎ,出征などに行われ,椀(わん)のふたに露がつくと無事,つかねば凶としたりする。不在者も家族と同じものを分けて食べることにより一種の同席意識が生じるとみられる。」
とある。場面を転じて、旅に出た家族の帰りを待つ情景とする。
「仙臺領宮嶋の沖より黄金天神の尊像、漁父引上ゲ、不思儀の緣により、此所へ遷らせたまひ、則朝日山法圓寺に安置し奉ル。惣の御奇瑞諸人擧て詣ス。まことに所は邊土ながら、風雅に志ス輩過半あり。げに土地の清浄・人心柔和なるを神も感通ありて、鎭坐し給ふとは見えたり。農業はいふに及ず、文筆の嗜み、桑折にとゞめぬ
天神社造立半
〇石突に雨は止たり花柘榴」(舞都遲登理)
この黄金天神についてネット上では情報がほとんどないし、結局桃隣のこの文章が唯一の情報ソースとなっている。朝日山萬歳楽院法圓寺のホームページでも、
「天神様あるいは、天満天神、天満大自在天神は菅原道真公が神格化して、学問の神様として、広く信仰されております。近江の国の「北の天満宮」、九州「太宰府天満宮」は有名ですが、法圓寺にお祀りしてあります天神様は通称『黄金天神』あるいは『宮嶋天神』としたしまれ、不思議の縁により當法圓寺に祀られ、古くから人々の信仰を集めておりました。この天神様の縁起を紹介するものとして、元禄九年(一六九六)芭蕉の甥の天野桃隣が出しました俳諧集『むつちどり』にも次のように記載されております。」
とあり、「舞都遲登理」の文章が引用されている。引用のあと、
「とありますように、法圓寺の黄金天神は元禄時代にはすでにお祀りされており、文化の守護神として、あるいは、雷神として、人々の信仰帰依を得ていたようです。
享保四年(一七一九)に出されました俳諧集『田植塚』にもその当時の法圓寺の境内図が描かれてありますが、そこには梅の古木と蓮池と『宮嶋天神宮』が描かれております。
天神様の本地佛は『十一面観世音菩薩』であります。現在、法圓寺には黄金天神さまの御導きにより、この天神様の本地佛として、総本山長谷寺ゆかりの『十一面観世音菩薩』像一体が法圓寺の位牌堂に勧請しお祀りさせていただいております。」
と続いている。
まず仙臺領宮嶋がどこなのかもわからない。宮戸島なら松島の方にあるが。
天神社造立半
石突に雨は止たり花柘榴 桃隣
「石突(いしづき)はこの場合、建造物の土台とする石を突き固める作業のことだろう。塩釜神社の社殿造営の所でも「石搗の半也」とあったが、これと同じだろう。柘榴(ざくろ)は夏にオレンジ色の花が咲く。天神社はまだ土台を固める段階で、柘榴の花が咲いている。
「須ヶ川に二宿、等躬と兩吟一巻滿ぬ。所の氏神諏訪宮へ参詣、須田市正秀陳饗應。
〇文月に神慮諌ん硯ばこ」(舞都遲登理)
等躬は芭蕉の『奥の細道』の旅でも、
風流の初やおくの田植うた 芭蕉
隠家やめにたたぬ花を軒の栗 芭蕉
などを発句とする興行に参加している。行きに通った時にも一泊して、桃隣、等躬、助叟の三人で三つ物三つを詠む。
帰り道での桃隣との両吟一巻は等躬撰の『伊達衣』に収録されている。
奥刕の名所見廻り文月朔日須賀川
に出て、乍單齋に舍り、一夜は芭
蕉の昔を語りけるに、去秋深川の
舊庵を訪し予が句を吟じ返して、
燭下に一巻綴りぬ。
初秋や庵覗けば風の音 桃隣
句は去年の秋に作ったものだという。ちょうど等躬の家に着いたのも文月朔日で秋の最初の日だった。「庵」は芭蕉庵であるとともに等躬宅でもあり、重なり合う。
初秋や庵覗けば風の音
蚊遣仕舞し跡は露草 等躬
蚊遣火を仕舞った後は草に露が降りている。この場合の「露草」はツユクサではなく、単に露の降りた草ではないかと思う。
芭蕉がいなくなって火が消えたようなという含みもあるのだろう。
桃隣が参詣した諏訪宮は今の神炊館神社(おたきやじんじゃ)であろう。神炊館神社のホームページに、
「奥州須賀川の総鎮守である神炊館神社(おたきやじんじゃ)は奥の細道の途次、芭蕉が参詣した神社です。
全国でも唯一の社名は御祭神である建美依米命(初代石背国造)が新米を炊いて神に感謝したと言う事蹟に因ります。
室町時代に、須賀川城主であった二階堂為氏が信州諏訪神を合祀したことから、現在に至るまで『お諏訪さま』としても親しまれています。」
とある。曾良の旅日記にも、
「一 廿八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行テ及暮。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。」
とあり、この諏訪明神も神炊館神社と思われる。
文月に神慮諌ん硯ばこ 桃隣
文月の最初の日で、その「文」の縁で神慮を諫める「硯ばこ」と結ぶ。
「又こゆべきと、白河にさしかゝり、
〇しら露の命ぞ關を戻り足」(舞都遲登理)
しら露の命ぞ關を戻り足 桃隣
これは西行法師が小夜の中山で詠んだ、
年たけてまた越ゆべしと思ひきや
命なりけり小夜の中山
西行法師(新古今集)
の「命」の文字を拝借した形だ。
初秋で露の降りる季節で、白露のような命で関に戻ってきた、とする。
「遊行柳。芦野一口一丁、右へ行、田の畔に有。不絶清水も流るゝ。
〇秋暑しいづれ芦野ゝ柳陰
同所家中、桃酔興行。
〇來る雁の力ぞ那須の七構」(舞都遲登理)
行きは那須湯本から真っすぐ白河に行ったため通らなかった遊行柳は、帰りに立ち寄った。
秋暑しいづれ芦野ゝ柳陰 桃隣
この句も、
道のべに清水流るる柳蔭
しばしとてこそたちどまりつれ
西行法師(新古今集)
の歌の「柳蔭」を拝借している。夏ではないが残暑厳しく、芦野の遊行柳の柳陰でしばし涼をとる。
來る雁の力ぞ那須の七構 桃酔
「七構(ななかまえ)」の意味がよくわからない。桃隣が来てくれたところで、秋になって雁が飛来したみたいに元気づけられる、というのはわかる。七構は七つの(たくさん)のもてなしということか。
桃酔は芦野の人で、『陸奥衛』に、
春雨や寝返りもせぬ膝の猫 桃酔
の句がある。まあ、雨の日のネコはとことん眠いという、そういうタイトルの加藤由子さんの著書もあったが。
他にも、
温泉(ゆ)に近く薬掘たき芦野哉 桃酔
と地元を詠んだ句もある。
「喜連川、庚申に泊合て、
〇御所近く寐られぬ秋を庚申」(舞都遲登理)
喜連川(きつれがわ)は奥州街道の宿場で、芦野からだと、鍋掛、大田原、佐久山の次になる。その先は氏家、白沢、宇都宮になる。
御所近く寐られぬ秋を庚申 桃隣
喜連川藩は足利家の末裔の喜連川氏が治めている。ウィキペディアによると、
「頼氏は関ヶ原の戦い(1600年)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから、1602年(慶長7年)に1000石の加増を受けた。それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府を開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である御所号を許して厚遇した。また四品格となり、代々の鎌倉公方が叙任された左兵衛督や左馬頭を称したが、これは幕府からの受けた武家官位ではなく自称であった。にもかかわらず、幕府などもこの自称を認めていた。また足利の名字を名乗らず喜連川を称した。」
とのこと。「御所近く」の御所は喜連川氏のことで、喜連川氏のお膝元で、寝られぬ夜を過ごしました。なぜなら庚申の日だったから、といったところか。御所号は皇族、大臣、将軍に準じる大変な称号だった。
庚申待(こうしんまち)についてはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「庚申(かのえさる)の日、仏家では青面金剛(しょうめんこんごう)または帝釈天(たいしゃくてん)、神道では猿田彦神を祭り、徹夜する行事。この夜眠ると、そのすきに三尸(さんし)が体内から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げるといい、また、その虫が人の命を短くするともいわれる。村人や縁者が集まり、江戸時代以来しだいに社交的なものとなった。庚申会(こうしんえ)。《季 新年》」
とある。
「宇津宮へかゝり、社頭に登て叩首に、額日光宮と書り。二荒を遷敬し奉るけるにや。
〇笠脱ば天窓撫行一葉哉」(舞都遲登理)
宇都宮には下野國一之宮、宇都宮二荒山神社がある。日光の二荒山神社との関係は今を以てしてもよくわかっていない。日光の方は「ふたらさん」と読み、宇都宮の方は「ふたあらやま」と読む。起源も祭神も違う神社だという。
ただ、ウィキペディアによると、「江戸期には日光山大明神と称されたこともあり」とあり、桃隣が訪れたときには日光宮の額がかかっていたのだろう。江戸時代のことだから東照宮にあやかったということは考えられる。
叩首には「つかづく」とルビがふってあるが、「ぬかづく」の間違いではないか。
笠脱ば天窓撫行一葉哉 桃隣
「天窓」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に「あたま」と読んで「かしらの頂」を意味する用法があるようだ。「あたまなでゆく」なら字余りにならないし、意味も分かりやすい。
笠を脱いで頭を地にすりつけて参拝すると、頭の上に一枚の葉が落ちてくる。何かそれはありがたい徴なのだろう。
「小山に宿ス。七夕の空を見れば、宵より打曇、紅葉の橋も所定めず、方角を知べきとて、月を見れば影なし。力なく宿を頼、三寸を求め、牽牛・織女に備へ、間なくいたゞきてまどろみぬ。
〇又起て見るや七日の銀河」(舞都遲登理)
宇都宮からは日光街道になる。雀宮、石橋、小金井、新田と来てその次が小山宿になる。
折から七夕だが夕方から雲が出て月もなく三寸(みき)つまり酒を飲んでうとうとしていた。
又起て見るや七日の銀河 桃隣
銀河は「あまのがわ」と読む。「又起て見るや」は疑いの「や」で、多分そのまま寝ちゃったのだろう。
今の七夕は新暦になって梅雨に重なるため雨になることが多いが、旧暦の時代は逆に秋雨の季節が始まって雨になることが多かった。等躬撰の『伊達衣』に、
名月はいかならん、はかりがたし
七夕は降と思ふが浮世哉 嵐雪
の句がある。
ただ、この年元禄九年の七月七日は新暦の八月四日なので、夕立だったか。寒冷期だから今の気候の感覚とは違うかもしれないが。
「淺草に入て、はや江戸の氣色、こゝろには錦を着て、編綴の袖を翻し、觀音に詣ス。
〇手を上ゲて群衆分ケたり草の花
草扉はそこほれ、破れ果て、蜘蛛は八重に網を圍ふ。
〇盂蘭盆や蜘と鼠の巢にあぐむ
子
仲秋中旬」(舞都遲登理)
さて、ついに江戸に帰ってきました。編綴(へんてつ)の袖は継ぎはぎということか。ぼろは着てても心は錦というところで、浅草観音に詣でる。
手を上ゲて群衆分ケたり草の花 桃隣
群衆は「くんじゅ」だろう。陸奥を旅して帰ってくれば、江戸の人の多さに圧倒されたに違いない。旅の前はそれが当たり前だったけど、長い旅のあとだとその人混みも懐かしい。
家に帰ってくると、長いこと留守にしていたので、あちこち破れて蜘蛛の巣で埋まっている。桃隣の家は日本橋橘町にあったという。今の東日本橋三丁目だという。
盂蘭盆や蜘と鼠の巢にあぐむ 桃隣
「あぐむ」は「倦む」と書き、嫌になるということ。
最後に日付が入るが子年(元禄九年)仲秋になっている。帰ってきて一か月後には書き上げたようだ。
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