今日は『天野桃隣と太白堂の系譜並びに南部畔李の俳諧』(松尾真知子著、二〇一五、和泉書院)が届いた。取り合えず桃隣が日本橋橘町に住んでいたことが分かった。著者は一九六一年の生まれだから鈴呂屋とタメ。桃隣の太白堂は今も続いていて十三世がいるという。
さて、この辺でまた「舞都遲登理」の続き。前回は羽黒山に到着したので、これから月山と湯殿山を経て立石寺に。
「湯殿山へ登るに、麓は晴天、山は雨、漸月山ニ詣て、雪の嶺牛が首と云岨に一宿。
早天湯殿院へ詣ス。諸國の参詣、峯溪に滿々て、懸念佛は方四里風に運び、時ならぬ雪吹に人の面見えわかず。黄成息を吐事二万四千二百息。」(舞都遲登理)
芭蕉や曾良は南谷から月山に登り、山頂付近の角兵衛小屋に泊まり、翌日湯殿へ行って戻って南谷へ戻った。桃隣もまた月山に登ったが、この日は雨で何も見えなかっがのだろう。
麓は晴れていても山には雲がかかり雨が降ることはよくある。待った割にはいい天気とは言えないが、滞在期限が来てしまったか。
月山の山頂付近は「雪の嶺」で、そこから湯殿山方面に少し降りると牛首小屋がある。曾良の『旅日記』にも、
「七日 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首(本道寺へも岩根沢へも行也)、コヤ有。不浄汚離、ココニテ水アビル。」
とある。ここで一泊した。
翌日、朝早く湯殿山に向かう。大勢の参拝客が訪れていたが、水無月だというのに季節外れの吹雪で人の顔も分からないほどだったという。今では考えられないことだが江戸時代の寒冷期にはこういうこともあったのだろう。
「懸念佛」は「掛念仏(かけねんぶつ)」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「〘名〙 =かけねんぶつ(掛念仏)
※俳諧・口真似草(1656)一〇「つつしんできくや言葉の申次、談義のあとに又かけ念仏(ネフツ)〈信徳〉」
〘名〙 念仏講などの講中で、鉦(かね)や木魚をたたき、高声で掛け声して念仏を唱えること。かけねぶつ。
※浮世草子・本朝桜陰比事(1689)三「大鉦うち鳴して掛念仏(カケネンブツ)申すを法花のかたより是を嫌ひ」
とある。
「黄成息を吐事二万四千二百息。」というのは、よくわからないが白い息をはあはあしてたということか。
「抑御山は靈現あらたにして、神秘の第一也。嶮莫の峯天をつらぬき、雪の花は常盤の枝をささえ、二丈の氷硲峒にしたたり、銀竹は瀧の俤をなす。樹は地に伏て、共に穿つ。草は土中に薶瘞ス。其氣色全臘月のごとし。兩權現の外、靈地の奇瑞、人々の踊躍の歡喜をなし、一度詣ては年々思をかくるが故に、戀の山とは申也。堅秘密の御掟、尊き千品語ル事不叶。いよいよ敬て、つゝしむべきは此御山成けらし。
〇大汗の跡猶寒し月の山
〇山彥や湯殿を拝む人の聲
曾良登山の比
〇錢踏て世を忘れけり奥の院」(舞都遲登理)
「嶮莫」の莫には山偏がついているが、フォントが見つからなかった。「硲峒」の「硲」は谷間のこと。「銀竹」はつららのこと。
月山の山頂には雪の花が咲き、二丈(約六メートル)の氷が谷の洞窟にあり、つららは瀧のようだという。
「薶瘞(はいえい)」は埋もれること。木は地に伏すように生え、草は土に埋もれ、その景色は十二月(臘月)のようだという。
「戀の山」とは言っても性的な意味はない。このような恋の用法は、元禄二年九月の「はやう咲(さけ)」の巻の十三句目。
書物のうちの虫はらひ捨
飽果し旅も此頃恋しくて 左柳
にも見られる。
「堅秘密の御掟、尊き千品語ル事不叶。」は湯殿山のことだろう。『奥の細道』にも、
「惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。」
とあり、
語られぬ湯殿にぬらす袂かな 芭蕉
の句が詠まれている。
大汗の跡猶寒し月の山 桃隣
月山に登るには大汗をかくが、動くのをやめると途端に寒くなる。
山彥や湯殿を拝む人の聲 桃隣
湯殿山には大勢の人が参拝に来ていて、その声が湯殿山に木魂している。
錢踏て世を忘れけり奥の院 曾良
これは『奥の細道』の旅の時の句で、曾良の『俳諧書留』には、
錢踏て世を忘れけりゆどの道 曾良
になっている。『奥の細道』では、
湯殿山銭ふむ道の泪なみだかな 曾良
に改められている。
「登り下り凡十五里也。御山への登り口、都て七口、尊き光を得て、幾かの人民身命を繋ぎ、國豊なり。しづと云へかゝりて、山形の城下へ出ル。此所より廿丁東、チトセ山をのづから松一色にして、山の姿圓なり。麓に大日堂・大佛堂、後の麓ニ晩鐘寺、境内に實方中將の墓所有。佛前の位牌を見れば、
當山開基右中將四位下光孝善等
あこやの松、此寺の上、ちとせ山の岨に有けるを、いつの比か枯うせて跡のみ也。はつかし川は、ひら清水村の中より流出る。ちとせ山の麓也。
〇秋ちかく松茸ゆかし千載山
最上市
〇野も家も最上成けり紅の花」(舞都遲登理)
「登り下り凡十五里」は手向町より湯殿山まで十五里ということか。登り口は都(すべ)て七口あるという。
今の登山コースでも、湯殿山口、羽黒山口、肘折口、岩根沢口、本道寺口、志津口、装束場口の七口になっている。
「しづと云へかゝりて、山形の城下へ出ル。」とあるように、桃隣は志津口へ下り、山形城下へ出た。
志津口は牛首から南へ下るコースで、寒河江川に出る。今はダムがあって月山湖になっている。寒河江川に沿って下れば天童に出る。そこを南へ行けば山県の城下に出る。
千歳山は山形城の南東になる。円錐形のきれいな形の山で、全山が松に覆われているという。南側の麓に平泉寺大日堂がある。大仏堂もかつては存在していたらしく、山形市のホームページによれば、
「実は、かつて千歳山に大仏がありました。寛文12年(1672年)、山形城主であった奥平昌章公は、千歳山の南側に大仏殿六角堂を建立し、木造の巨大な釈迦如来を納めました。その大仏は約9メートルもあったといわれています。残念ながらその後、火災で消失してしまいました。
現在の山形市でもその片りんを見ることができます。江戸時代末期に大仏の再建が試みられましたが、頭部のみの制作にとどまりました。作られた頭部は現在、平清水にある平泉寺の大日堂に納められています。」
とのこと。
晩鐘寺は今の萬松寺(ばんしょうじ)のことであろう。千歳山の北側の麓にある。阿古耶姫と実方中将、十六夜姫の墓が並んでるという。
あこやの松は『平家物語』にも出てくるし、謡曲『阿古屋松』にもなっている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「謡曲。脇能物。廃曲。世阿彌作。陸奥の阿古屋の松に案内された藤原実方の夢の中に塩釜の明神が現われ、松の徳をたたえる。」
とある。
みちのくの阿古屋の松に木隠れて
出づべき月の出でもやらぬか
よみ人知らず(夫木集)
の歌にも詠まれている。
はつかし川は平泉寺の方を流れる小さな川で、今でも平清水という地名が残っている。これも十六夜姫の伝承に属するもので、
いかにせん写る姿はつくも髪
わが面影ははずかしの川
という十六夜姫(中将姫)の歌が伝わっている。
そこで桃隣も一句。
秋ちかく松茸ゆかし千載山 桃隣
松がびっしりと生えている千歳山を見て、やっぱり松茸食べたいなと思うのが俳諧だ。
最上市
野も家も最上成けり紅の花 桃隣
芭蕉は尾花沢で紅花を詠んだが、最上市も紅花の産地。最上(もがみ)の名に最上(さいじょう)を掛けて詠む。曾良の『俳諧書留』には、
立石の道にて
まゆはきを俤にして紅ノ花 翁
とある。尾花沢から立石寺に行く間に詠んだ句であろう。
「寶珠山・阿所川院・立石寺 所ノ者は山寺と云 城下ヨリ三里、慈覺大師開基。山ノ頂上ヨリ曲峒の立石、碧落に登テ、雲頭ヲ蹈ム。嶮難百折ノ靈地、仍、立石寺と名付給ふ。
對面石・文殊堂・藥師堂 毘沙門天傳教大師・金剛鰐口、是は主護義光朝臣寄進也。清和天皇御廟・三王權現 三月廿五日祭禮近郷氏神・常行念佛堂 此本尊彌陀・御手洗 則阿所川・御枕石・眞似大師御手掛石・無手佛。半途ニ十王・奥院 三十番神十羅刹女・獨鈷水・骨堂・寶蔵・胎内潜・十王堂・印ノ松・慈覺堂・經堂・五大堂・白山堂・地蔵堂・不動堂・十八坊・天狗岩・タチヤ川。
〇閑さや岩にしみ入蟬の聲 芭蕉
〇山寺や人這かゝる蔦かつら 仙花
〇山寺や蔦も榎木も皆古風 風仙
〇山寺や岩に屓ケたる雲の峰 桃隣」(舞都遲登理)
立石寺は宝珠山阿所川院立石寺という。立石寺は古代日本語の音ではリプシャクジだったのだろう。それがリッシャクジになって今に残っているが、京の方では「ふ(ぷ)」の音が音便化してリウシャクジになったと思われる。山寺という名でもよく知られている。
碧落は青空のことで、天に向かって聳える切り立った岩にこのお寺は作られている。
対面石は山寺観光協会のサイトによると、
「慈覚大師が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人磐司磐三郎とこの大石の上で対面し、仏道を広める根拠地を求めたと伝えられ、狩人をやめたことを喜んだ動物達が磐司に感謝して踊ったという伝説のシン踊が、山寺磐司祭で奉納される。」
という。仙山線山寺駅から山寺へ向かってゆくと、立谷川を渡る宝珠橋の向こう側にこの対面石がある。
「文殊堂」は今はないのか、よくわからない。
薬師如来は立石寺の御本尊なので、「藥師堂」は根本中堂のことか。木造薬師如来坐像は十二世紀の平安時代のものとされている。
「毘沙門天傳教大師」は木造毘沙門天立像のことであろう。九世紀、立石寺開基の頃のものとされている。これも根本中堂にある。金剛鰐口も根本中堂にある。鰐口はお祈りするときにカーンとならすあの円盤状の鐘で、最上光直が兄の義光の長寿息災を祈って寄進したという。
「清和天皇御廟」は今はないのか御宝塔だけがある。立石寺の開基は清和天皇の勅願によるものとされている。
「三王權現」は山王権現のことで、根本中堂の脇にある日枝神社のことであろう。旧暦の三月二十五日に祭礼が行われる近隣の人々の氏神様だった。
「常行念佛堂」は山門の前にある念仏堂のこと。御本尊はにっこり笑顔の「ころり往生阿弥陀如来」。
「御手洗 則阿所川」は阿所川という川があって、そこが御手洗だということか、これもよくわからない。
山門を入って少し行くと姥堂があって、山寺観光協会のサイトによると、
「ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、そばの岩清水で心身を清め、新しい着物に着かえて極楽の登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する。」
とあるが、ここが御手洗かもしれない。
「御枕石」は御休石のことか。慈覚大師が腰を下ろして休んだと言われている。奥院へ登ってゆく道の途中にある。
「眞似大師御手掛石」はそれよりやや手前にある御手掛石のことか。
「無手佛」はよくわからないが、宝物館にある右肩以下が失われた阿弥陀如来立像か。
「十王」は仁王門にある。ここをくぐれば「奥院」になる。もっとも今の仁王門は嘉永元年(一八四八年)に再建されたもので、桃隣の頃のものではない。
ここまでの凝灰岩の岩肌には、板碑型の供養碑・岩塔婆が数多く刻まれている。姥堂で服を着替えるのは、ここから先があの世だという意味があり、その上にあるこの巨大な岩すべてが死者の霊の弔う墓石ともいえる。
芭蕉の、
閑さや岩にしみ入蝉の声 芭蕉
の句もまた、この岩にはかなく死んでいった無数の蝉のような命がしみ込んでいるのを感じたのであろう。宿に荷物を置いて夕暮れ時に訪れ、芭蕉が聞いた蝉は、おそらく悲しげなヒグラシの声だったと思われる。
「三十番神十羅刹女」は奥院如法堂に安置されている。
「獨鈷水」は慈覚大師が独鈷で突くと水が湧き出したといわれる湧き水で、奥院如法堂の前にあったという。
「骨堂」は死者の遺骨の一部を立石寺奥院に納める習慣があり、そのための納骨堂であろう。
「寶蔵」も昔は奥院にあったのだろう。今は根本中堂の方に立派な宝物殿が建っている。
「胎内潜」は仁王門からそれほど行かないところにある胎内堂で、岩の迫る道を這って進む胎内潜りができる。
「十王堂」はよくわからない。仁王門の所にあったという説もある。
「印ノ松」もよくわからない。松の木だったら既に枯れてしまったか。
「慈覺堂」もよくわからない。今の開山堂の所にあったか。開山堂は嘉永四年(一八五一年)に再建された。
「經堂」は開山堂の横の岩の上に建つ小さな納経堂のことか。
「五大堂」は五大明王を祀る堂で、開山堂の先にある。
「白山堂」は五大堂のそばにある白山神社のことであろう。
「地蔵堂」はよくわからない。
「不動堂」もよくわからない。
「十八坊」もよくわからない。
「天狗岩」は五大堂の先にあるという。
「タチヤ川」は下を流れる立谷川で間違いないだろう。
閑さや岩にしみ入蟬の聲 芭蕉
これはもういいだろう。
山寺や人這かゝる蔦かつら 仙花
山寺の急な石段に人は這うように登り、岩には蔦がからまっている。仙花は仙化のこと。
山寺や蔦も榎木も皆古風 風仙
蔦や榎に限らず、ここではすべてが古風に見えるということだろう。
山寺や岩に屓ケたる雲の峰 桃隣
「屓ケたる」は「負けたる」で、山寺の切り立つ岩は雲の峰にも勝る。
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