ネット上はあいも変わらずディスりあってのディスりトピアで吊るし上げ、血祭りが大はやりだが、無視するというのも一つの良識だと思う。
そういうわけでいよいよ「花で候」の巻も名残の裏。一気に行きます。
九十三句目
やもめにうらに此一やしき
いたづらのふつつと髪や切ぬらん 宗因
夫と死別すると貞節の証として女性が髪を切り出家するというのは昔からあった。もっとも、「狂句こがらし」の巻の八句目のような「髪はやすまをしのぶ身みのほど」ということもあったようだ。
『源氏物語』帚木巻の有名な雨夜の品定めのなかで、左馬頭(さまのかみ)が、
「にごりにしめるほどよりも、なまうかびにては、かへりてあしき道にもただよひぬべくとぞおぼゆる。(俗世の濁りに染まるよりも、中途半端に仏道に入るのは、かえって往生できずに地獄をさ迷うことになるんじゃないかな。)」
と言うように、平安時代にもほとぼりの醒めるまでしばらく出家しておくという人はいたようだ。そういえば中宮定子も一度出家して還俗している。
宗因の句の場合、別に出家するために髪を切ったわけでもないから「いたづらの(無駄に)」髪を切ったとなるのだろう。
『連歌俳諧集』の解説には、談林の俳諧師西鶴が後に書くことになる『懐硯』を引用している。
「何の気もない顔して、姑の見る前にて、髪くるくると束ねて切りかくるを老母押しとどめ、其方が心底もつともなれども、いまだ若き身なれば我分別あり、待ち給へといふをふるはなし、もはやわたくしの髪の入る御分別(再婚の配慮)はふつふついやでござりますと、無理にはさみ切つて投げ出す」(『連歌俳諧集』p.330)
70年代くらいまでは、別に出家でもなければ再婚の意志のないことを示すためでもなく、単に気分転換のために失恋すると髪を切る人がいて、当時のニューミュージックなどに「私髪を切りました」なんてフレーズがあったりした。この世代のオヤジは今でも髪を切った若い女の子に「失恋したの?」なんて言って失笑をかったりする。
九十四句目
いたづらのふつつと髪や切ぬらん
後世の外にはものも思はじ 宗因
前句の「らん」を反語にして、無駄に切ったわけではなく、本気で出家し、後生のことだけを思う、とする。
九十五句目
後世の外にはものも思はじ
待宵の鐘にも発る無情心 宗因
愛しい人の訪れを待つ夕暮れにも、お寺の鐘の音が聞こえてきて、世の中が空しく思えて憂鬱になる。
恋というよりは釈教だが、名残の裏ということで、そろそろ締めに入ったという所だろう。
九十六句目
待宵の鐘にも発る無情心
こひしゆかしもいらぬ事よの 宗因
これも恋の言葉は使っているけど釈教の心だ。
九十七句目
こひしゆかしもいらぬ事よの
つれなきも尤賤の身ぢや程に 宗因
そうよ私は卑賤の身、そんな女に本気になったりしませんものね。つれなくするのも尤(もっと)もなことです。恋しいだとか惹かれるだとかいうこともどうでもいいのよね、と捨てられた女の恨み言。今だったらもっとあからさまに「体だけだったのよね」と言う所だろう。
怨念のこもった言葉だけど「身ぢゃ程に」と俗語で落とすところに幽かな笑いが生まれる。これは近代の演歌でもしばしば用いられる手法で、守屋浩の「僕は泣いちっち」などもそうだし、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」(山口洋子作詞)のサビの部分も、「あの人は行って行ってしまった」とあえて反復させる所が重要だと言われている。救いのない恋も、ちょっとした言葉遊びが救いになったりもする。
九十八句目
つれなきも尤賤の身ぢや程に
そもじとばかり文の上書 宗因
「そもじ」はWeblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「あなた。お前。そなた。▽対称の人称代名詞。女性が対等または目下の者に対して用いる。後、男性が女性に対しても言うようになった。」
とある。ここでは前句は身分の低い男の嘆きの言葉になる。今だとLINEの返事で「そ」とだけ書いてあったるすることもあると言うが、まあ、一々返事書くのも面倒だし、シカトするわけにもいかないし、というところか。
九十九句目
そもじとばかり文の上書
さしにさしお為に送る花の枝 宗因
其文字はその文脈によってはいろいろな意味になるようで、必ずしも蔑んで用いているとは限らない。名も知らぬ相手なら「そもじ様」と書くほかはるまい。
花の下で見初めた人なら、身分は低いし、名前も知らない。
平安時代の手紙は季節の花の枝などに手紙をくくりつけて送ったりした。花の下で見初めた人には花の枝を添えて手紙を送る。
そっけない前句から一気に王朝時代を偲ばせる華やかな定座へと展開し、次の挙句に繋げる。
挙句
さしにさしお為に送る花の枝
太夫すがたにかすむ面影 宗因
「太夫」は遊郭の遊女の中でも最高位の遊女。ウィキペディアによれば、
「宝暦年間に太夫が消滅し、それ以降から高級遊女を「おいらん」と称するようになった。」
とあるから、まだ花魁という名のなかった頃の最高級の遊女だった。
花の枝に、華やかに着飾った太夫は恋百韻を締めくくるにふさわしい。
この頃の太夫というと東の高尾太夫、西の夕霧太夫と言われている。 Tenyu Sinjo.jpというサイトによると、
「その知性と美しさで名をはせた夕霧は、京の生まれで、本名は照。もともと京の嶋原・扇屋の太夫であったが、扇屋四郎兵衛が寛文12年(1672)嶋原から大坂新町遊廓へ移転するとき一緒に連れてこられた。このとき19歳であった。」
という。これだとこの百韻が巻かれた寛文十一年にはまだ京都にいたことになる。
当時の金持ちの名士たちは、こぞってこの夕霧太夫に古式ゆかしく桜の枝に文を添えて贈ったことだろう。もちろんその姿は簡単には拝ませてはもらえない。それはどこまでも高嶺の花の「かすむ面影」だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿