さて、宗祇の独吟、宗因の恋百韻の独吟と読んできて、次は何にしようかと思ったが、ちょっと連句から離れて、初夏の季節にふさわしいといえば、芭蕉の「幻住庵記」ではないかと思った。
「幻住庵記」は『猿蓑』に掲載されているのが初出で確定稿とされている。そのほかに後になって出てきたもう一つの「幻住庵記」と、「幻住庵ノ賦」という二種の文章が『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)に収録されている。
「幻住庵記」のほうは、大雑把に言えば、
幻住庵の場所の紹介
奥の細道の旅
幻住庵からの景色のすばらしさ
筑紫の僧による幻住庵の命名
風流の道
先たのむの発句
という構成で、要約するなら、
石山の奥の国分山に八幡神社があり、その傍らに荒れ果てた庵があり、名を幻住庵という。曲水の伯父の庵だった。
自分は五十路に近くなり奥の細道を旅し、近江の国のここに来た。
初夏の山藤にホトトギスのなく季節、日枝の山々、辛崎の松はすばらしく、色々な故事を思い出す。
筑紫の僧が京都に来た時、額を乞われて「幻住庵」の三字を送られる。
自分は閑寂を好んで山野に籠ったわけではなく、色々やろうとしたが、ついにこの道につながる。
先たのむ椎の木も有夏木立
という感じになる。
前身となる「幻住案ノ賦」は最初のところが逆になり、
自分は五十路に近くなり奥の細道を旅し、近江の国のここに来た。その国分山に八幡神社があり、その傍らに荒れ果てた庵があり、名を幻住庵という。曲水の伯父の庵だった。
初夏の山藤にホトトギスのなく季節、日枝の山々、辛崎の松はすばらしく、色々な故事を思い出す。
筑紫の僧が京都に来た時、額を乞われて「幻住庵」の三字を送られる。
自分は閑寂を好んで山野に籠ったわけではなく、色々やろうとしたが、ついにこの道につながる。
という構成になる。発句はない。
作者として何か表現しようとすると、ついついまず自分のことを先に言いたくなる。しかし「幻住庵記」というタイトルのものを読者が読もうとする時には、まず幻住庵が何なのかのほうが気になるはずだ。くだくだと自分が何者であるかを語られて、いつになったら幻住庵が出てくるのかとなったら、幻住庵が出てくる前に読む気をなくす読者もいるだろう。「前置きはいいから早く幻住庵出せ」というところだ。
だから、幻住庵が先ずどこにあるどういう庵なのかを頭に持ってくるのは、本に載せるための完成稿に仕上げる段階では適切だったといえよう。
それから、自分についての説明も、色々言いたいことはあるものの、最小限にとどめるというのも適切な判断だ。
そしてメインとなる幻住庵周辺の景色のすばらしさを、様々な故事に照らし合わせながら熱弁をふるう。
そしてお世話になった筑紫の僧への謝辞を述べて、再び自分の事に触れて締めにする。「幻住庵ノ賦」はここで終るが、やはり最後に俳諧師らしい「ここで一句」が欲しい。そうやって『猿蓑』の「幻住庵記」は仕上げられたと思われる。
「幻住庵記」をそのまま読んでもいいが、こうしたメイキングを含めて読むというのもまた一興ではないかと思う。そういうわけで、先ず冒頭の部分を見てみよう。
「石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は弥陀の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなることを、両部光をやはらげ、利益の塵を同じうしたまふも、また貴し。日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬・根笹軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸ふしどを得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の叔父になんはべりしを、今は八年ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。」
石山は滋賀県大津市の瀬田川の西岸にある。草津宿の方から大津宿へ向うと、瀬田川にかかる瀬田の橋を渡る。芭蕉は貞享五年(一六八八)に、
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋 芭蕉
の句を詠んでいる。その瀬田の橋を渡ったあたりが石山になる。
このあたりは古代には近江国国府と国分寺があり、古代東山道が通っていた。古代東山道はほぼ近世の中山道に受け継がれている。近世の中山道は草津宿で東海道に合流する。
ここでいう石山は石山寺のある今の伽藍山のことではないかと思われる。
「石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山といふ。」とあるが、国分山は石山の西側にあり、岩間山はそのはるかに南側にある。
「幻住庵ノ賦」には「石山を前にあてて、岩間山のしりへにたてり。」とある。「しりへ」が岩間から北に伸びる尾根の端という意味なら、かなり正確に位置関係を表している。
「幻住庵記」の「岩間のうしろ」も「しりへ」の意味で用いたと思われるが、かえってわかりにくくなった。
「そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。」とは、古代にはこのあたりに近江国国分寺があり、「国分」という地名はそこからきていることを言う。
「ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。」の「細き流れ」は三田川で、「翠微」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
1 薄緑色にみえる山のようす。また、遠方に青くかすむ山。
「目睫の間に迫る雨後の山の―を眺めていた」〈秋声・縮図〉
2 山の中腹。八合目あたりのところ。
「麓に細き流れを渡りて、―に登る事三曲二百歩にして」〈幻住庵記〉
とある。麓に霞がたなびいた時に、その霞がかかるあたりという意味か。
「八幡宮」は今の近津尾神社で、曲がりくねった石段を登ってゆく。
「神体は弥陀の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなることを、両部光をやはらげ、利益の塵を同じうしたまふも、また貴し。」
というのは、明治以降は神仏が分離されたが、当時は神仏習合し、八幡大菩薩が祀られてたと思われる。八幡大菩薩は阿弥陀如来と同一視されてきた。
吉田家の唯一神道ではこうした集合を忌むというのは、おそらく吉田神道の系譜を引く吉川惟足の神道を学んだ曾良がそう言っていたのか。
芭蕉は一般論として「両部光をやはらげ、利益の塵を同じうしたまふも、また貴し。」という。両部神道の和光同塵の考え方に従い、阿弥陀如来の威光が八幡大菩薩を通じて人々に御利益をもたらすことを賛美する。
このあたりも、「幻住庵ノ賦」には「古き神社の立せたまへれば、六根をのづから清ふして塵なき心地なむせらる。」とだけあって、唯一神道と両部神道の問題にも、八幡大菩薩を祀っていることにも触れてない。
「日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬・根笹軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸ふしどを得たり。幻住庵といふ。」
この庵の荒れ果てた様子も、「幻住庵ノ賦」には「かの住捨し草の戸は」としかない。
おそらく幻住庵という主題を冒頭に持ってきたことで、それについて読者に鮮やかな印象を与えるために、原案よりも若干話を膨らませたのではないかと思われる。「狐狸」というと近代文学の作家に狐狸庵先生遠藤周作がいたのを思い出す。
荒れ果てた庵はいかにも世捨て人にふさわしく、こうした趣向は『嵯峨日記』の
「落柿舎は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中々に作みが ゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とヾまれ。彫せし梁、 畫ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ」
といった描写に受け継がれている。
こういう隠逸の士は住むために最低限の草取り、『嵯峨日記』の冒頭部分にあるように「予は猶暫とヾむべき由にて、障子つヾくり、葎引かなぐり」くらいのことはするが、大方荒れたままに放っておく。理由は簡単で、永住を意図してないからだ。一所不住、生涯を旅にすごすと決意した者は、土地に執着しない。いつここを離れるかと思えば、綺麗な庭を作り上げても無駄だからだ。
次にこの庵が曲水の叔父の住んでた庵を借りたものだということが明かされる。
「あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の叔父になんはべりしを、今は八年ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。」
曲水は「曲翠」ともいう。膳所藩の重臣で、経済的な面で芭蕉のお世話になった人だ。ここでも住居を手配してくれている。地位のある人なので「菅沼氏」と名字を明記している。
「勇士」とあるのはこの頃から正義感の強い人だったからか。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」によると、最期は「享保(きょうほう)2年不正をはたらいた家老を殺害して自刃(じじん)。58歳。子の内記も切腹,妻は出家し破鏡(はきょう)尼と号した。」という。これをもって菅沼家は断絶した。困った勇者様だ。
句のほうでは、『続猿蓑』に
梟の啼やむ岨の若菜かな 曲翠
の句がある。
「幻住庵ノ賦」には「勇士菅沼氏曲水の伯父なる人の、此世をいとひし跡とかや。ぬしは八とせばかりのむかしになりて、棲はまぼろしのちまたに残せり。誠に知覚迷倒も皆ただ幻の一字に帰して、無常迅速のことはり、いささかも忘るべき道にあらず。」とやや詳しく述べられている。
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