2018年5月20日日曜日

 このまえ列挙した2013年以降に見たアニメのなかで、『たまこまーけっと』と『翠星のガルガンティア』が抜けていた。
 あの事件は結局幼女趣味によるものではなく、事故を起こしてそれを隠そうとしただけのものだったのか。どっちにしてもアニメ関係ない。
 今は『シュタインズ・ゲート ゼロ』が始まったことから、元の『STEINS;GATE』の方をもう一度見ている。七年も経っていてすっかりストーリーを忘れていたからだ。ネットの定額制はありがたい。
 それでは「花で候」の巻の続き。

 七十七句目

   かすむもゆかし小便の露
 ほのぼのと赤ゆぐほせる春の日に 宗因

 「赤ゆぐ」は赤湯具で風呂(サウナ)にはいるときに女性が身につける腰巻のこと。前句の「小便の露」を腰巻の染みとして、干しているうちに段々薄れてゆく様を「かすむ」とした。
 何でそんな染みが付いたかって、それは言えないでしょう。

 七十八句目

   ほのぼのと赤ゆぐほせる春の日に
 湯をあがりゆくふりをしぞ思ふ  宗因

 「ほのぼのと」の上五が出たあたりから、当然、

 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に
     島隠れゆく舟をしぞ思ふ
            詠み人知らず(古今集)

の歌を意識していたと思われる。独吟だと、次にこれを本歌で展開しようという計算がしやすい。その分、意外性に乏しく予定調和になりやすい。
 この頃の風呂はサウナだから、湯気の霧の中に消えてゆく。干してある赤湯具に、その持ち主の尻を思い出しているのだろう。

 四表
 七十九句目

   湯をあがりゆくふりをしぞ思ふ
 ふつと只泪こぼする浅ましや   宗因

 『連歌俳諧集』の解説にあるとおり、高師直(こうのもろなお)が塩冶高貞の家に忍び込んで風呂を覗いた故事で付けている。本来の姓は高階(たかしな)で平安末から鎌倉初期の頃の人で高階泰経(たかしなのやすつね)がいる。高階は苗字ではなく姓になる。その一字を取って「高(こう)」を名乗った時でも、姓であるため「の」が入ることになる。
 高師直は足利尊氏の側近で、『太平記』では神仏を恐れない荒くれものとして描かれていて、こういう人間が無類の好色漢であるのはよくあることだ。
 ウィキペディアには、

 「師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、恋文を『徒然草』の作者である吉田兼好に書かせ、これを送ったが拒絶され、怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され終焉を迎えるまでを描いている。『新名将言行録』ではこれは事実としている。」

とある。この横恋慕の際に例の風呂場覗きを行い、塩冶一族が討伐されたときには高貞の妻も自害している。
 『太平記』の物語は江戸時代には庶民の間にも講釈師によって流布された。コトバンクの「太平記読み」の項の、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「太平記講釈ともいう。芸能の一種。『太平記』を朗読し,講釈する人。室町時代の日記類には物語僧から『太平記』を聞いたという記事が散見し,早くからこの種の者に朗読されてきた。江戸時代に入り慶長~元和 (1596~1624) の頃,『太平記』の評判書である『太平記理尽抄』の講釈が武家の間に起り,次第に流布し,貞享~元禄 (84~1704) の頃には民間でも盛んとなり,これが職業として確立してきた。」

とある。これが後の講談になる。
 宗因の独吟は貞享よりは前だが、時代の先端を行く風流人の間では、既にこの風呂覗きのエピソードは有名だったと思われる。まあ、これも見てきたような嘘の一つかもしれないが。

 八十句目

   ふつと只泪こぼする浅ましや
 かたるにおつること葉あやまり  宗因

 講釈師の見てきたような嘘は人を楽しませ、誰も傷つけないが、逆に本当のことをついぽろっと言ってしまうと、それが取り返しの付かないことになったりもする。言葉というのは難しい。
 しまったと思ったときには既に遅く、相手はぽろぽろと泪をこぼし、浅ましいことになっている。あわてて謝っても後の祭。

 八十一句目

   かたるにおつること葉あやまり
 なましりなじゃうるりぶしの前渡 宗因

 平仮名だけだとわかりにくいが、「生知りな浄瑠璃節の前渡り」。
 浄瑠璃は『宗長日記』の享禄四年(一五三一年)八月十五夜のところにも、

 「旅宿たすかる一両輩をつかはし、小座頭あるに、浄瑠璃をうたはせ、興じて一盃にをよぶ。」(『宗長日記』島津忠夫校注、一九七五、岩波文庫、p.164)

とあり、古い歴史を持っている。最初は琵琶の伴奏で語るものだったが、後に三味線になった。これが義太夫や人形浄瑠璃(文楽)に発展するのはもう少し後の貞享の頃になる。
 「前渡り」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 1 前を素通りすること。
「さすがに、つらき人の御―の待たるるも、心弱しや」〈源・葵〉
 2 ある人をさしおいて昇進すること。
「左大弁の―まかりならぬものなり」〈宇津保・国譲上〉
 3 人の前を体裁をつくろって通っていくこと。
「あだめくものは―して通る」〈仮・尤の双紙〉

とある。この場合は3の意味であろう。『連歌俳諧集』の注釈には「好きな人の前を気どって渡り歩くこと」とある。
 女の気を引こうと浄瑠璃の一節を口ずさんでみたものの、生半可な記憶で「言葉誤り」。
 初期の浄瑠璃の代表作で浄瑠璃の名の由来にもなった「浄瑠璃姫十二段草紙」は牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語だった。
 元禄五年十月の「けふばかり人も年よれ初時雨 芭蕉」を発句にした巻の二十八句目、

   いかやうな恋もしつべきうす霙(みぞれ)
 琵琶をかかえて出る駕物(のりもの)  芭蕉

の句は『奥の細道』の旅の途中、塩釜で聞いた奥浄瑠璃の記憶によるものと思われる。昔の名残をとどめる古風な奥浄瑠璃は、戦国時代さながらに琵琶の伴奏で語られてたのだろう。

 八十二句目

   なましりなじゃうるりぶしの前渡
 夜さの使に行さうりとり     宗因

 「夜さの使(つかひ)」は主人の夜の相手(遊女)を手配するために使わされた者か。草履取りの少年が使いに出されたようで、うろ覚えの浄瑠璃を口ずさんで通り過ぎてゆく。

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