今日は午前中雨が降った。そのまま一日今日はお篭り。たまの休みだからこれもまたいい。
「宗祇独吟何人百韻」ついに挙句に。さあ挙句の果てに何がある。
九十五句目
山こそ行衛色かはる中
つれもなき人に此の世を頼まめや 宗祇
宗牧注
人ハ難面(つれなき)物なれども、世はさハあるまじきほどに、難面き人のやうに世は頼まじと也。
周桂注
世ハあだなる物なれバ、人のごとくつれなくハあらじと也。たのみはつべき此世ならねバ、行末ハ山居もしつべき心にや。
「つれもなき」は「つれなき」を「力も」で強調した形。「つれなきも」の倒置だが、連体形が「ひと」を受けるため「つれなきも人」にも「つれなき人も」でもおかしいので、「つれもなき人」に落ち着く。
「此の世を頼む」というのは、自分は世を捨てるという意味で、前句の「山こそ行衛」が出家の意味に取り成される。
色変わりつれなくなった人に、あなたは現世で生きて行きなさい、私は出家します、という意味になる。
九十六句目
つれもなき人に此の世を頼まめや
しぬる薬ハ恋に得まほし 宗祇
宗牧注
此世を憑ても甲斐なければ、毒薬にても死せんと也。
周桂注
恋ハくるしき物なれバ、しにたしと也。
「死ぬる薬」は『源氏物語』総角巻に、
恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに
雪の山にや跡を消なまし
の歌の用例がある。「雪の山」は『竹取物語』の富士山で「不死」の薬を焼いて限りある命を受け入れたことをイメージしたものといわれている。
ここではそれとは関係なく、自殺願望の句となる。前句の「や」を反語に取り成すと心中ということになるが、いずれにせよ病んだ句だ。江戸時代の心中ものを経て、今日のヤンデレにつながっているのかもしれない。
九十七句目
しぬる薬ハ恋に得まほし
蓮葉の上を契りの限りにて 宗祇
宗牧注
一蓮同生の契をいそぐ心にや。
周桂注
後ハ蓮台にあらんほどに、死たきと也。
「蓮台の上の契り」は『源氏物語』鈴虫巻の、
蓮葉を同じ台(うてな)と契りおきて
露の分かるる今日ぞ悲しき
に見られるが、この場合は契りも空しく離れ離れになるというもの。これに対し、宗祇の句はやはり心中をほのめかす展開になっているが、無理心中ではなく同意の下での心中を願う展開になる。
九十八句目
蓮葉の上を契りの限りにて
ちるや玉ゆら夕立の雨 宗祇
宗牧注
納涼の仕立也。夕だちの雨といふ事、歌には見えずと也。
周桂注
すずしき心也。夕立の雨、古き歌ニおほくはみえぬにや。万葉に、夕立の雨打ふれバ春日野の尾花が上の白露おもほゆ。風雅集ニ、後鳥羽院、かた岡のあふちなみよりふく風にかづかづそそぐ夕立の雨。されども、夕立の雨このむまじき詞也。時雨の雨にハかハりたり。夕だつといはば、雨となくてハすべからず。新古今に、水うみの舟にて夕立の立ぬべき由申けるをききて、かきくもり夕だつ浪のあらけれバうきたる舟ぞしづ心なき。此歌ハ、夕だつ浪に夕立をそへたるなるべし。新拾遺、折しかんひまこそなけれおきつ風夕だつ浪のあらき浜荻、家隆。玉葉集ニ、夏風と云題ニ、夏山の梢の木々を吹かへし夕だつ風の袖にすずしき。
周桂の注は「夕立」の用例についてかなり詳しく説明している。最初の「万葉に」の歌は、
夕立の雨うち降れば春日野の
尾花が上の白露思ほゆ
詠み人知らず(万葉集二一六九、)
夕立の雨うち降れば春日野の
尾花が末(うれ)の白露思ほゆ
小鯛王、更の名は置始多久美(万葉集、三八一九)
と二首重複している。
かた岡のあふちなみよりふく風に
かづかづそそぐ夕立の雨
後鳥羽院(風雅集四〇四)
この二首を挙げて、まず「夕立の雨このむまじき詞也。」という。「夕だつといはば、雨となくてハすべからず。」というように夕立だけで雨の意味になるから、「夕立の雨」は同語反復だというのだろう。「夕立」は『応安新式』の一座一句物のところにあるので「夕立」自体は使ってはいけない言葉ではない。
「時雨の雨にハかハりたり。」とあるのは、時雨が一座二句物で、秋冬それぞれ一句づつになっているが、八十五句目に冬の時雨が出ているので、秋の句にしなくてはならなくなる。九十四句目の秋から三句しか隔ててないのでここでは出せない。
かきくもり夕立つ波の荒ければ
浮きたる舟ぞしづ心なき
紫式部(新古今集・羈旅歌)
をりしかんひまこそなけれ沖つかぜ
夕たつ波のあらき浜荻
藤原家隆(新拾遺)
夏山の梢の木々を吹かへし
夕だつ風の袖にすずしき
権中納言兼季(玉葉集)
この「夕だつ」は夕べに立つ浪や風を詠んだもので、夕立の歌ではない。
「たまゆら」は「玉響」で玉と玉がこすれる幽かな音から、わずかなという意味になる。ここでは雨露の玉と掛けて用いられる。
蓮葉の上を契りの契りも夕立に雨露がはじけるようなあっという間のこと、という、人の一生も一日花のムクゲの命もどちらも長い雨中の時間の中では一瞬のことという達観した句となる。
そろそろ挙句に向って、「解脱」を意識しだしたか。
九十九句目
ちるや玉ゆら夕立の雨
雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に 宗祇
宗牧注
夕立のしたる風雲、跡もなくなりたるは、見はてぬ夢なり。
周桂注
夕だちのあらきも夢也。あとなき心也。
夕立の雨のあっという間に去ってゆくように、我が一生の波乱万丈の雲風も、所詮は見果てぬ夢だと悟る夜にと、「覚むる」に単に夜の眠りから覚めるだけでなく、寓意を持たせている。
挙句
雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に
わが影なれや更くる灯 宗祇
宗牧注
有か無かに更たる灯也。
周桂注
身の老たる心を深夜の燈にたとへたるなるべし。
この世は結局一時の夢と悟り目覚めた時、自分の影は油のかすれた灯のように影が薄くなってゆく。燃え盛る炎はくっきりした影を作るが、火が弱まれば影も薄くなる。こうして火が消えたように、この私も世を去る日は近いのだろう、と弟子達への遺言にこの百韻を残す。
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