昨日の続き。
幻住庵の位置や様子、誰の庵だったかが簡潔に語られ、幻住庵が何であるか一応のイメージが出来た所で、芭蕉さんがどうしてここに来たかという経緯を簡単に説明する。
「予また市中を去ること十年ばかりにして、五十年やや近き身は、蓑虫の蓑を失ひ、蝸牛家を離れて、奥羽象潟の暑き日に面をこがし、高砂子歩み苦しき北海の荒磯にきびすを破りて、今歳湖水の波にただよふ。鳰の浮巣の流れとどまるべき蘆の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。」
「市中を去る」というのは延宝八(一六八〇)年、日本橋から深川へ居を移し、世俗の業務から離れ、隠棲することになった、いわゆる「深川隠棲」を言う。
三十七歳での隠居は当時としてはそんなに特別早いものではない。人生五十年の時代に、三十七歳は既に初老に差し掛かる頃だ。それにくわえて芭蕉には持病があり、健康上の問題もあったのだろう。
そして芭蕉が幻住庵に来たのが元禄三年(一六九〇)だから、ちょうど十年ということになる。芭蕉は四十七歳。五十に近いのは間違いない。
「蓑虫の蓑を失ひ、蝸牛家を離れて」は芭蕉が『奥の細道』の旅に出る際に
芭蕉庵を人に譲り、実際に自分の家がなくなったことを表すものだ。
「奥羽象潟の暑き日に面をこがし」とあるが、芭蕉はこれよりかなり手前の須賀川で、
早苗にも我色黒き日数哉 芭蕉
の句を詠んでいる。象潟に着いたときには暑い盛りで、北の方とはいえやはり暑かったという記憶なのだろう。
このころはまだ『奥の細道』の執筆には入ってなかったが、『奥の細道』の酒田から市振への道筋で「此間九日(このかんここのか)、暑湿(しょしつ)の労に神(しん)をなやまし、病(やまひ)おこりて事をしるさず。」とある。
「高砂子歩み苦しき北海の荒磯にきびすを破りて」はおそらく越後から越中市振へ行く途中、山が迫り狭い海岸沿いの道を行く「親知らず子知らず」のことであろう。ただ、曾良の『旅日記』には特に難儀した記述はない。
このあたりのことは、「幻住庵ノ賦」だと大分長くなる。冒頭の部分になる。
「五十年ややちかき身は、苦桃の老木となりて、蝸牛のからをうしなひ、蓑虫のみのをはなれて、行衛なき風雲にさまよふ。かの宗鑑がはたごを朝夕になし、能因が頭陀の袋をさぐりて、松嶋・しら川に面をこがし、湯殿の御山に袂をぬらす。猶うたふ鳴そとの浜辺よりゑぞがちしまを見やらんまでと、しきりに思ひ立侍るを、同行曾良なにがしといふもの、多病いぶかしなど袖をひかるるに心たゆみて、象潟といふ所より越路のかたにおもむく、さるは高砂子のあゆみくるしき北海のあら磯にきびすを破りて、湖水のほとりにただよふ。」
「しら川に面をこがし」だと、「早苗にも」の句とほぼ一致する。出羽三山の湯殿山では、
語られぬ湯殿にぬらす袂かな 芭蕉
の句を詠んでいる。
「うたふ鳴そとの浜辺」は「善知鳥(うとう)鳴く、外の浜」で、
みちのくの外ヶ浜なる呼子鳥
鳴くなる声はうとうやすかた
藤原定家
の歌がある。「善知鳥(うとう)」は「歌ふ」に掛けて用いられるため、ここでは「うたふ」と書かれているのだろう。
「外の浜」は津軽の青森湾に面した外ヶ浜で、蝦夷への入口だったのだろう。
芭蕉はこのまま外ヶ浜から蝦夷に渡り、千島まで行きたいと思ったが、当然ながら曾良に止められる。芭蕉が千島がどれぐらいの距離の所にあると思っていたのかはわからないが、そんなところまで行ったら帰る頃には北海道の冬も早く、連日の氷点下の行軍となっただろう。
当時の旅の大変さを考えれば、ここで引き返したら、もう二度とここまで来ることもないだろう。これより北は生涯の見残しとなり、恨みを残すことになる。おそらく曾良にさんざん八つ当たりしたのではないかと思われる。だから近江にまで戻ったとき、こんなことを恨みがましく書いていたのではないかと思う。
さすがに完成稿の段階ではこの恨みがましい言葉はカットされ、「象潟といふ所より越路のかたにおもむく、さるは高砂子のあゆみくるしき北海のあら磯にきびすを破りて」の言葉を膨らます感じで仕上げたようだ。ただ、日焼けのネタを無理に挿入したため、白河の関を越え須賀川で詠んだ「我色黒き」が象潟になってしまったようだ。
「湖水のほとりにただよふ。」のあとの部分は「幻住庵記」の方は、
「今歳湖水の波にただよふ。鳰の浮巣の流れとどまるべき蘆の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。」
「幻住庵ノ賦」の方は、
「ことし湖水のほとりにただよふ。鳰の浮巣の流れとどまるべき蘆の一葉のやどりもとむるに、その名を幻住庵といひ、その山を国分山といへり。」
となり、家を改装した所は描かれず、そのまま幻住庵の場所説明に入る。順序が逆になるというのは前に述べたとおりだ。
漂う流浪の身にとって幻住庵はすがるべき一本の芦のようなもので、家を修理して住んだことが書かれている。この一文は、『嵯峨日記』の「予は猶暫とヾむべき由にて、障子つヾくり、葎引かなぐり」という描写にも引き継がれることとなる。
いつ来たのかわかりやすいように日付も入れている。
芭蕉は九月二十二日に、
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ 芭蕉
と詠み、故郷の伊賀へと向う。その途中、『猿蓑』の元となった、
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉
の句を詠む。
その後京都へ行き、十二月に大津に来る。その後一度伊賀に戻ってから、再び大津に来て、四月六日に幻住庵に入る。
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