今日は生田緑地ばら園に行った。
去年の五月十四日の俳話を見たら、「バラはほぼ咲きそろっていた。人が多く駐車場も列ができていた。バスで行ってよかった。」とあったが、今年も一緒だった。
去年はミサイルの発射があったようだが、一年たって想像以上に事態は良い方向に流れている。この流れを止めないでほしい。
それでは「花で候」の巻の続き。二裏に入る。
三十七句目
契り置しはけふの聖霊
みそ萩と袖の露とはいづれいづれ 宗因
みそ萩は「うたてやな」の巻の二十七句目、
我女房に逢もうるさや
鼠尾草は泪に似たる花の色 補天
の所でも触れたが、ミソハギ(Lythrum anceps)は「鼠尾草」という字も当てる。「盆花」ともいうし、「精霊花」ともいう。
萩の花はよく露に喩えられるが、ここではミソハギも袖の露もどれがどれだかと、似てるものとして扱われる。
死別した恋人に涙(袖の露)すると、精霊花のミソハギもまるで涙の露のようで「いづれいづれ」となる。
三十八句目
みそ萩と袖の露とはいづれいづれ
うかうかと行かへるかよひ路 宗因
これは一転して夜這いの句になる。「うかうか」は心が浮かれて思慮もなくという意味。今日の「うきうき」ほどポジティブではない。「うっかり」というのも同じ語源か。
ミソハギの咲く畦道を会いには行くものの、帰りは涙の袖の露となる。
三十九句目
うかうかと行かへるかよひ路
さりともと頼み頼みて九十九夜 宗因
これは謡曲『通小町』や『卒塔婆小町』に描かれている百夜通い伝説に基づくもの。ウィキペディアには、
「百夜通い(ももよがよい)とは、世阿弥などの能作者たちが創作した小小町の伝説。
小野小町に熱心に求愛する深草少将。小町は彼の愛を鬱陶しく思っていたため、自分の事をあきらめさせようと「私のもとへ百夜通ったなら、あなたの意のままになろう」と彼に告げる。それを真に受けた少将はそれから小町の邸宅へ毎晩通うが、思いを遂げられないまま最後の雪の夜に息絶えた。」
とある。
四十句目
さりともと頼み頼みて九十九夜
是非約束のきりは明晩 宗因
深草少将も九十九回目に会いに来た時にはこんなことを言ったのか。前句の深草少将と小野小町のエピソードから離れきってなくて、展開が不十分だが、本説付けのときはある程度はやむをえない。
四十一句目
是非約束のきりは明晩
返す返す神ぞ神ぞとかく文に 宗因
「神」は「しん」と読む。『連歌俳諧集』の注には「多く誓約のときに使う廊のことば。」とある。
前句を手紙の文言としてかろうじて打越の情を去る。
四十二句目
返す返す神ぞ神ぞとかく文に
おゆかしく候なつかしく候 宗因
ここでも苦しい展開が続く。とにかくどうとでも取り成せそうな言葉で逃げた形になる。
「ゆかし」は惹きつけられること。「なつかし」は側にいたいということ。
四十三句目
おゆかしく候なつかしく候
けいはくのたらたら泪こぼされて 宗因
打越の手紙の趣向を去るなら「けいはく」は手紙の末尾の文言の「敬白」と掛けない方がいい。あくまで「軽薄」で、「たらたら」は涙のこぼれる擬音であると同時に「たらす(騙す)」と掛けている。
「おゆかしく候なつかしく候」と軽々しくいうC調言葉に騙され、泣いた泪の数も知れない。
四十四句目
けいはくのたらたら泪こぼされて
はぎとられたる今朝のきぬぎぬ 宗因
これは美人局(つつもたせ)か。けな気に泣く女についほろっとなって一夜を過ごすが、恐いあんちゃんが出てきて身ぐるみ剝がされる。
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