薔薇の花もあちこちで咲いて、すっかり気分は夏のようだが、まだ旧暦では弥生の十九日。春はまだ終らない。
きょうは御近所を散歩して、一万歩ほど歩いた。最近はガラ携といえども万歩計が付いてたりする。グーグルマップにも載り、最近はすっかり有名になった花桃の丘も青葉が茂り、その脇では馬がひひらいでいた。
「宗祇独吟何人百韻」を読み終えたが、まだ春が余っているということで、同じ『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)にある、宗因の独吟百韻「花で候」の巻でも読んでみようかと思う。
この百韻は恋をテーマにした恋百韻で、以前小生の唯一の著書である『野ざらし紀行─異界への旅』(ゆきゆき亭こやん、二〇〇〇、東京図書出版会)のなかで、「宗因は『西翁十百韻』恋俳諧「花で候」の巻のような、恋の句だけで百韻を作るほどの、恋句の達人であり」と書いたことがあった。なお、この『野ざらし紀行─異界への旅』は若干書き直して、鈴呂屋書庫で公開している。
この「花で候」の巻は寛文十一年(一六七一年)に高滝以仙撰の『落花集』全五冊の内の一冊『宗因十百韻』に収められていて、後に延宝元年(一六七三年)に『西山宗因千句』(内題『西翁十百韻』)として再刊されている。談林俳諧がまだ江戸に来る前の上方で盛り上がっているときに作られたものだ。
西山宗因は加藤清正の家臣西山次郎左衛門を父とする。里村昌琢のもとで連歌を学び、本来は連歌師だった。
さて、その「花で候」の巻の発句を見てみよう。
花で候お名をばえ申舞の袖 宗因
お名前はと聞かれれば「花で候」と答える。本当の名前は「え申すまい」ということで、「舞」と掛けて「え申舞の袖」となる。
連歌も俳諧も雅号で呼び合う仲で、いわば匿名の世界だ。匿名で身分素性を隠すことで、身分を越えて平等になる事が出来る。花の下で身分の別なく酒を酌み交わすように、日本では昔から雅号という一種の匿名性が身分を越えた自由な発言を得る手段とされてきた。その伝統は今日のSNSでフェイスブックが日本で苦戦している原因ともいえよう。
日本では本名だと組織での立場や何かに拘束され、なかなか自由な発言がしにくく、ただ組織から与えられた決められた建前を言うばかりになる。だから、実名よりも匿名のほうがその人間の本音が語られるものとして信用される所がある。実名で語ることはただ組織の立場でそう言わされているだけの嘘ばかり、というのが今でも日本の社会の実情だ。
この発句には長い前書きがついている。
「いづれの時、いかなる人にか、難波堀江のよしあしにもつかず、男にもあらず、法師にもあらず、住る所もたしかならぬ翁ありけり。春の日の長あくびなるつれづれに、うとうとありきのうとからぬ友もがなと打ながめつつ行に、歌舞伎とかやよせ太鼓のてろつく天も花に酔る心ちして、鼠戸くぐりあへず、のけあみ笠のあけほんのりと見まゐらせ奉れば、打あぐる和歌の御声、親たれさまぞ御名をばえ申まいよのと、そぞろ詞のさまざまに、うつつなの身や、よしよし夢の間よ、ただしゆんできた物を。」
和歌連歌で盛んに用いられてきた掛詞の技法が駆使された戯文で、難波の芦に掛けて難波の「良し悪し」としたり「春の日永」に掛けて「長あくび」を導き出したりする。
当時流行していた歌舞伎踊りの客寄せのための寄せ太鼓のテンテンテロテロと鳴り響くところから「天も花に酔る心ち」を導き出し、芝居小屋の鼠戸(鼠木戸)に和歌(小唄)の声が聞こえてくれば、さぞかし立派な親を持っていることだろう親は誰だと言うにも名は言えないという。それを受けて、発句は歌舞伎踊りを舞う若衆の「お名をばえ申舞の袖」の詞をそのまま言い下すことになる。
初期の歌舞伎は歌舞伎踊りで、最初は男娼の舞う若衆歌舞伎と遊女の舞う遊女歌舞伎とがあったが、寛永六年(一六二九年)ごろから遊女歌舞伎は禁止されて廃れて行き、若衆歌舞伎の流れがやがて元禄の頃に市川団十郎などによって今の姿に発展していった。芭蕉其角両吟の「詩あきんど」の巻八句目に、
恥しらぬ僧を笑ふか草薄
しぐれ山崎傘(からかさ)を舞 其角
とあるのも若衆歌舞伎をイメージしている。
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