「花で候」の巻もいよいよ佳境に入る。
七十三句目
けふの月見もえんでこそあれ
秋とならん契宇治茶の後むかし 宗因
お茶というと今は煎茶が主流だが、この時代はまだ抹茶が主流だった。もう少し後の蕉門の時代になると隠元の淹茶法が広まり、唐茶が流行することになる。
抹茶は初夏に収穫して碾茶を作ると、それをひと夏冷暗所で保管し秋にそれを茶臼で引いて飲んだ。もちろん、それを待ちきれずに出来たばかりの碾茶をすぐに臼で引いて新茶を楽しむこともあったから、一概には言えない。
将軍家に献上された碾茶は『日本茶の歴史』(橋本素子、二〇一六、淡交社)によれば、
「宇治を旧暦の五月二十日前後に出発し、約三十日かけて夏六月に江戸に到着する。そして御茶壺のうち、夏切御壺と御試御壺は、そのまま夏のうちに江戸の将軍家で茶壺の口が切られて消費された。しかしメインの御用の茶壺は、秋に「口切」をして飲まれていた。」(『日本茶の歴史』橋本素子、二〇一六、淡交社、p.125)
という。
ただし、これは十八世紀の初め頃なので、宗因の時代はこの通りではなかったかもしれない。十六世紀に「口切」が旧暦十月の初め、つまり初冬に行われていたし、現代でも十一月(新暦)は茶人の正月と言われているから、秋の口切はそれに比べればやや早い。
将軍家ならずとも、夏の新茶も楽しんだ後、秋にようやくひと夏置いた熟成茶の封を切るということは宗因の時代に既に行われていた可能性は十分にあるし、そう考えるとこの句はわかりやすい。
「秋とならん契(ちぎる)」はようやく秋が来たので碾茶ひと夏置いた碾茶の封を「千切る」。それをもちろん男女の「契り」に掛ける。そしてそれがちょうどそれが名月の頃なので、「けふの月見もえんでこそあれ」と下句に繋がる。
そして、その封を切ったお茶はというと、最高級の宇治茶の後昔(のちむかし:「あとむかし」とも言う)
後昔は「コラム孫右ヱ門」というブログの2016年3月19日のところに詳しい説明がある。
それによると、碾茶には白製法と青製法があり、白製法は、
「早い時期に摘み取った茶の新芽は、この蒸し製法で仕上げると非常に白っぽい抹茶になります。
こうして製茶された茶は『白』と呼ばれ、茶葉を蒸す製法は『白製法』と呼ばれていました。」
これに対し青製法は、
「古田織部が将軍家の御茶吟味役(毎年抹茶を試飲して、買い上げ品目を定める役)を務めていた慶長末年、宇治茶師の長井貞信によって工夫された製法が『青製法』と呼ばれていたようです。」
とあり、
「『青製法』の資料は非常に少ないのですが、どうやら古来から続く『白製法』の生葉を蒸す替わりに、生葉を灰汁(あく)に浸した後、茹でてから炙り乾かす製茶方法だったようです。」
とある。そして、
「古田織部に続いて御茶吟味役となった小堀遠州は、古来から続く白製法による『白茶』の最高級品を『初昔』と名付け、生葉を灰汁に浸してから茹でる青製法による『青茶』の最高級品を『後昔』と名付けました。」
とある。
宗因のこの一句は、将軍家に匹敵するような上級武士の家で、秋の月見の夜に最高級の宇治茶の封を切るとともに、この月見の宴を婚姻の宴にしようというもので、上級武士の家にも盛んに出入りしていた連歌師宗因ならではの、格調高い一句と見るべきであろう。
なお、『連歌俳諧集』の注には
「三月節に入りては二十一日めに摘むを初昔といひ、其の後につむを後昔といふ。昔は廿一日の字謎なり」(事林広記)
とある。
廿と一と日を合わせれば、たしかに「昔」という字になる。ただ、『事林広記』はウィキペディアによれば、「事林広記(じりんこうき)は、南宋の末に福建崇安の陳元靚(ちんげんせい)が著した」とあり、もっと古い時代の中国で用いられていた、おそらく「後昔」の元の意味ではなかったかと思われる。
七十四句目
秋とならん契宇治茶の後むかし
おけるあふぎのしばしおなさけ 宗因
謡曲『頼政』の頼政自害の場面に、
「これまでと思ひて平等院の庭乃面、これなる芝の上に、扇をうち敷き、鎧脱ぎ捨て座を組みて、刀を抜きながら、さすが名を得しその身とて」
とある。
ただ、この物語の本説だと恋にならないので、それを換骨奪胎する必要がある。
秋の扇はWeblio 辞書の隠語辞典の「三省堂 大辞林」の所に、
「②〔漢の成帝の宮女班婕妤(はんしょうよ)が君寵(くんちょう)のおとろえた自分の身を秋の扇にたとえて詩に詠んだという故事から〕 相手の男から顧みられなくなった女性の身。団雪(だんせつ)の扇。」
とある。『連歌俳諧集』の注には「『秋扇賦』を作ってうらみを述べた故事による」とある。秋扇賦は團扇詩とも怨歌行とも言うようだ。
もっとも、ウィキペディアの「班ショウヨ」の項には、「『文選』の李善注によると、「怨歌行」は本来無関係な詩であったのを班倢伃に仮託したものだという。」とある。
怨歌行 班婕妤
新裂齊紈素 皎潔如霜雪
裁為合歡扇 團團似明月
出入君懷袖 動搖微風發
常恐秋節至 涼飊奪炎熱
棄捐篋笥中 恩情中道絕
ま新しい斉の国の白練りの絹を裂けば
霜や雪のように清らかに光る
これを裁断して寝室を共にする時の団扇にすれば
丸々と明月のようになる
君の懐に出入りしては
揺り動かしてそよ風になる
いつも恐れてた、秋が来て
涼しい風が猛暑を奪い去る
竹籠の中に捨て置かれ
君の情までもが道半ばに絶えてしまう
この詩の心と合わさることで、扇を芝の上にしばし置く行為はいかつい武者の者から女のものになる。
秋になって「飽きて」しまって、契った宇治茶も昔のことになり、宇治だけに平等院鳳凰堂で自害した頼政のように、捨て置かれる扇の私にしばしお情けを、となる。複雑な出典と掛詞と駆使した、宗因の最高の技術による付け句といえよう。
「團團似明月」は、
月に柄をさしたらばよき団扇かな 宗鑑
の出典でもある。この古典的な詩があるがゆえに、『去来抄』もこの句を「不易の体」としたのであろう。
七十五句目
おけるあふぎのしばしおなさけ
花の下たたれし君の尻の下 宗因
さて宗因ならではの佳句が続いた後は、お約束で卑俗に落とすことになる。「落ちをつける」というのは日常の会話でも大事なことだ。特に関西では。
我が身の分身ともいえる扇がどこに行ったのかと思ったら、立ち上がった彼氏の尻の下に敷かれていた。ここは笑いどころだ。
七十六句目
花の下たたれし君の尻の下
かすむもゆかし小便の露 宗因
これは、山崎宗鑑撰『犬筑波集』の、
霞の衣すそはぬれけり
佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして
を本歌として、女の放尿する姿にもまたむらむらっとくる様を付ける。
放尿フェチとまでは行かなくても、男なら誰しも多少そういう興味はあるのではないかと思う。こういう多用な性のあり方を認めるのも、俳諧の良い所だと思う。
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