今夜は雨の予報だったが、どうやら外れ、明日はいい天気になるという。梅雨入りはもう少し先になりそうだ。
では「幻住庵記」の続き。
さて、杜甫の「登岳陽樓」の興で、実際の幻住庵からの景色を言い興すことになる。
「山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫峰よりおろし、北風湖を侵して涼し。比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。ささほが嶽・千丈が峰・袴腰といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。」
「未申」は南西から西にかけてで、地図を見れば西には音羽山(標高593メートル)、その南に千頭岳(標高602メートル)、醍醐山(標高454メートル)、五雲峰(標高343メートル)、喜撰山(標高416メートル)といった低山が連なっている。南には岩間山(標高443メートル)がある。
夏の「風薫る」と言われる南風はこれらの峰より吹き降ろし、北から吹く風は琵琶湖に冷やされ、どちらも涼しい。
比叡山は北西の方向、琵琶湖の西岸にあり、比良岳はその更に北にある。滋賀辛崎は国分山から見るとちょうどその手前になる。
辛崎の松は花より朧にて 芭蕉
の句は貞享二年(一六八五)の『野ざらし紀行』の旅の時の句だ。
更に手前には琵琶湖に突き出るように膳所城が聳え、更に手前には瀬田大橋がある。
「釣たるる舟」は、
時雨きや並びかねたるいさざふね 千那
と『猿蓑』に選ばれたいさざ漁の舟だろうか。ただし漁期は秋から冬に掛けてで、この時期ではない。それに小魚なので網で捕る。
となると、そのほかの琵琶湖の固有種はというとビワマス(あめのうお)だろうか。
月は山けふは近江のあめの魚 荷兮
やきものは近江成けり江鮭魚 之道
の句はあるが、秋のものだ。之道の撰集のタイトルとなった「あめ子」は九月二十五日のところでも書いたが、琵琶湖に注ぐ川に遡上するビワマスの河川残留型で、川のものだ。
となるとニゴロブナだろうか。漁期は春で鮒ずしにする。これなら初夏でまだ残っていてもおかしくないかもしれない。
「笠取に通ふ木樵の声」の笠取山は岩間山のすぐ西にある。醍醐寺の笠取清滝宮がある。
「ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。」は国分山の南側の風景であろう。
三上山は草津より彦根よりの守山・野洲の辺りにある。標高432メートルで近江富士と呼ばれている。ここでも「士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。」とある。
ネット上では紫式部が、
打ち出でて三上の山を詠れば
雪こそなけれ富士のあけぼの
と詠んだと言われているが、『紫式部集』にはない。日文研のデータベースで検索しがた見つからなかった。今のところ真偽不明。
またネット上では、
三上山のみ夏知れる姿かな
の句が芭蕉の句とされているが、芭蕉の句ではない。レファレンス協同データベースによれば、士朗という暁台の弟子の句で、安永三年刊、士朗・都貢編『幣ぶくろ』に収められている。蕪村の時代の句。
田上山(たなかみやま)は国分山の南東にある太神山(たなかみやま:標高600メートル)のあたりの山全体を指すという。今では湖南アルプスと呼ばれているようだがそんなに高い山ではない。山の向こうは焼物で有名な信楽。
木綿だたみ田上山のさなかづら
ありさりてしも今ならずとも
詠み人知らず(『万葉集』巻十二、三〇七〇)
の歌もある。
「ささほが嶽・千丈が峰・袴腰といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。」
ささほが嶽は笹間ヶ岳、袴腰は腰袴山。千丈が峰はよくわからない。千丈川という小さな川はあるが。
黒津の里は田上山の手前の瀬田川と大戸川の合流点にある。「網代守るにぞ」の歌は『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)に、
田上や黒津の庄の痩男
あじろ守るとて色の黒さよ
という古歌を『万葉集』の歌と混同したとある。この歌はこれより後に書かれた『近江與地志略』(享保十年)にあるという。この地方に芭蕉の時代からこういう伝承歌があったのか。
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