今日は晴れた。朝見える月はすっかり細くなり、春ももう終わりが近い。
それでは「花で候」の巻の続き。
二十九句目
なまなかしんでらちあけん中
いつも只病ほうけたる物おもひ 宗因
恋の病も重くなれば、いっそ死んでしまいたいと。
三十句目
いつも只病ほうけたる物おもひ
起たり寝たり空ながめたり 宗因
恋の病は別に寝たきりになるわけではない。むしろそわそわと落ち着かず、寝たかと思えば起き上がって空を眺めてみたりする。
三十一句目
起たり寝たり空ながめたり
むかしむかし男有けりあだ心 宗因
『伊勢物語』の書き出しの文句で、前句を在原業平さんとした。「あだ心」は浮気心。
三十二句目
むかしむかし男有けりあだ心
小むすめかとてよびし悔しさ 宗因
小娘かと思って娶ってはみたものの、歳をさば読んでいたか意外に年増で、むかしむかし付き合っていた男があったとさ。
三十三句目
小むすめかとてよびし悔しさ
見返しの笠の内をもちらと見て 宗因
後姿がまだうら若い娘に見えて声を掛けてみたが、振り向いたその顔は‥‥、古典的なネタだ。
三十四句目
見返しの笠の内をもちらと見て
南無あみだ仏恋はくせもの 宗因
阿弥陀如来像には頭の後ろのところに頭光という丸いものがある。これが笠に見えたのか、帽子を後ろにずらしてかぶることを阿弥陀に被るという。今は帽子だが、むかしは笠で、阿弥陀笠と言われた。そういうわけで笠と阿弥陀仏は付き物ということになる。
ただ付き物と言うだけで縁語みたいにして意味もない言葉を出すのは談林流の特長ともいえよう。
只振り向いた人の笠の内を見て、恋は曲者だと呟くのだが、南無阿弥陀は特に意味はない。二十二句目の「しづのをだ巻」と同じ。
「恋はくせもの」は謡曲『花月』に出てくる言葉。日本ではダイアナ・ロスのWhy do fools fall in loveが「恋はくせもの」と訳されている。
三十五句目
南無あみだ仏恋はくせもの
月にくる数珠のつぶつぶうき思ひ 宗因
阿弥陀仏から数珠を付ける。
月に向って数珠を繰りながらお祈りをする。数珠の粒(つぶ)と胸がどきどきするという意味の「つぶつぶ」とが掛詞になり、念仏を唱えながらも「恋は曲者」だという。
三十六句目
月にくる数珠のつぶつぶうき思ひ
契り置しはけふの聖霊 宗因
前句の「うき思ひ」を片思いではなく、死別した恋人への思いとする。
お盆は聖(精)霊祭(しょうりょうまつり)ともいう。お盆の祭壇は精霊棚といい、地方によっては精霊流しを行う。去年のあなたの思いでがーー。
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