昨日の続き。
この部分は「幻住庵ノ賦」だと啄木のあとに「かつこ鳥我をさびしがらせよなど、ひとりよろこび」のフレーズが入る。
このフレーズは一年後の『嵯峨日記』の、
憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉
の句になる。これをはずした時点で、あるいはもうこの句は出来上がっていたのか。
元々この句は元禄二年秋の九月に、
伊勢の国長島、大智院に信宿す
憂きわれを寂しがらせよ秋の寺 芭蕉
の改作だった。「かつこ鳥我をさびしがらせよ」のフレーズが出来た時点で、この句を思い起こし、発句に使おうと思ってカットしたのではないかと思われる。
「かつこ鳥」はカッコウのことで、閑古鳥ともいう。ただ、「郭公」という字を当てると、なぜかホトトギスの意味になる。
「憂き」と「寂し」の関係は、世の中が嫌で憂鬱になって出家しても、時が経つと段々嫌なことを忘れ、良かったことばかりが残り、記憶は美化されてくる。
まだそこまで至らなければ、水無瀬三吟十句目の、
山深き里や嵐におくるらん
慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き 宗祇
ということになる。隠遁生活は寂しいが、まだ世俗での嫌なことをついつい思い出しては、寂しいけど物憂くもあるが、やがてそれも忘れ、寂しさだけにしてくれというのが芭蕉の句となる。
「魂呉・楚東南に走り、身は瀟湘・洞庭に立つ。」のフレーズは、最初は「呉楚東南のながめにはぢず、五湖三江もここに疑わしきや。」だった。
「五湖三江」は百度百科には「三江五湖」の形で「指东南方的三条江与太湖流域一带的湖泊」とある。グーグル翻訳だと「南東の三江川と太湖湖の湖を指す」となってやけに「湖」を連呼しているが、中国南東の太湖とその周辺の湖、周辺の川という意味だ。瀟湘・洞庭とは離れた長江下流にある。
五湖三江も名所ではあるが、杜甫の詩を生かすのであれば、あまり離れた名所を出すのは、ということで変えたのだろう。
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