今日も一日雨。オミ株の方も感染者数が急激に増えるような兆候はない。多分、これからもより強い感染力と引き換えに、弱毒化する傾向が続くのではないかと思う。
そういえば最近「ネトウヨ」の意味がかなり変容している。最初はネット上で一人でたくさんのアカウントを作って拡散させる右翼のことだったが、やがて左翼が自分たちの思想の共鳴しない人をみな十把一絡げに「ネトウヨ」と読んで、日本人の八割がネトウヨになった。
最近では何を対象にしているかわからない。QアノンだとかDS陰謀説を信じる人が限定的に「ネトウヨ」と呼ばれるみたいだが、実態がつかめない。
多分推測だけど、昔、七十年代八十年代に勝共連合ってのがあって、あの当時の学生の間では確かにそいつらは右翼の代表みたいなもんだったから、そのイメージを引きずった左翼の爺さんたちが勝共連合のなれの果てをネトウヨと呼んでいるのかもしれない。
勝共連合は統一教会と生長の家が中心だったが、生長の家は中絶反対の議員を自民党が冷遇して落選させたあたりから自民党と反目するようになり、プロライフ・エコロジー路線を強化していった。ただ、その路線変更についていけなかった一部が日本会議にいるという。
この手のネトウヨは人数も少ないし、何よりもネットに疎いから、大した影響力もない。保守派の大勢がウクライナ支持に回っているから、叩く所なくて藁人形を叩きたいだけなのか、右翼全体のイメージダウンを狙っているのか。あるいは、一部の反ワク親ロシアの新左翼系の人を隠すためか。
まあ、言葉は時代によって変わって行く。おかげで筆者もネトウヨではなくなったようだ。筆者はワクチンちゃんと打ってるし、ウクライナの勝利を願っているからね。
新左翼は戦後、日本共産党のマルクス・レーニン主義に反発した、トロツキーの永久革命やサルトルの実存主義、マルクスの『経哲草稿』からヘーゲル哲学に傾倒したヘーゲル・マルクス主義などを信奉する人達で、日本共産党と仲が悪い。
新左翼は革命マルクス派(核マル派)、中核派、暴力革命路線を取って総括リンチで自滅した連合赤軍なども含まれるが、実際には穏健な人たちの方がはるかに多く、彼らは旧社会党から今の立憲や社民・令和の中にも巣食っているし、マスコミや官僚の中にも紛れ込んでいる。
筆者も学生時代は中核派の先輩(多分今はフリースクール運動をやっている人だと思う)と若干の交流もあったし、民青にも新左翼にも属してなかったから、ノンセクト・ラディカルだと思ってた人もいたようだが、今は完全に左翼とは決別している。
日文研の和歌データベースはここんとこはまっている。
山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉
の句で、「和歌ではすみれは山に詠まない」というのに去来が反論するのが『去来抄』にあったが、
箱根山うす紫のつぼすみれ
ふたしほみしほ誰か染めけむ
大江匡房(堀河百首)
老いぬれば花の都にありわびて
山にすみれを摘まむとぞおもふ
永縁(堀河百首)
色をのみ思ふべきかは山の辺の
すみれ摘みける跡をこひつつ
寂蓮法師(寂蓮無題百首)
とふ人は主とてだに来ぬ山の
懸け路の庭に咲くすみれかな
藤原為家(夫木抄)
きぎす鳴く山田の小野のつぼすみれ
標指すばかりなりにけるかな
藤原顕季(六条修理大夫集)
など、結構あるというのが分かった。
それでは「享徳二年宗砌等何路百韻」の続き。
三裏、六十五句目。
枯るる蘆辺に落つる雁金
田鶴の鳴く夜寒の月の朝まだき 専順
蘆辺の雁金に月夜の鶴を添える。
田鶴というと今日では、
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ
葦辺をさして鶴鳴き渡る
山部赤人(続古今集)
がよく知られているが、この歌が勅撰集に選ばれたのは文永二年(一二六五年になる。蘆辺の田鶴を景物として月などとともに詠むようになるのは、新古今集の時代以降盛んになる。
田鶴ではなく鶴であれば、
和歌の浦に月の出しほのさすままに
よる啼く鶴の聲ぞかなしき
慈円(新古今集)
の歌があるが、月夜に鳴く田鶴の歌となると、もう少し時代が下り、
和歌の浦蘆辺の田鶴の鳴く声に
夜わたる月の影ぞひさしき
後堀河院(新勅撰集)
になり、これだと本歌としてふさわしい年代ではなくなる。
「本歌連歌」の本歌は、
在明の月をばいよよ侘びつらん
田鶴鳴きあかす長き夜の内
で、日文研の和歌データベースにはない。月に鳴く田鶴の典拠とする。
六十六句目。
田鶴の鳴く夜寒の月の朝まだき
雲ゐは霧のたえまをも見ず 宗砌
雲ゐの田鶴は、
雲井にて人をこひしと思ふかな
我は蘆辺の田鶴ならなくに
よみ人しらず(後撰集)
むかしみし雲ゐをこひて蘆鶴の
沢辺に鳴くやわが身なるらん
藤原公重(詞花集)
の歌があり、鶴は雲の上の住まいが恋しくて鳴くとされ、配流の境遇と重ね合わせて詠まれていた。
宗砌の句もまだ夜の明けぬ頃に鳴く田鶴の声に、霧に見えない雲居が恋しくて鳴いているという趣向で付けている。
「本歌連歌」の本歌は、
遠近の峰より嶺の雲霧は
風ならずして絶間をも見ず
で、日文研の和歌データベースにはない。霧の絶え間すらない、という趣向の典拠となる
霧の絶え間に見えるということだと、
武蔵野を霧の絶え間に見わたせば
ゆくすゑとほき心地こそすれ
平兼盛(後拾遺集)
の歌もある。
六十七句目。
雲ゐは霧のたえまをも見ず
わけのぼる嶺の梯人はこで 忍誓
前句の雲居を単に雲の意味として、峰と峰を繋ぐ架け橋に喩える。
嶺の梯(かけはし)は、
かささぎの渡すやいづこ夕霜の
くもゐに白き峯のかけはし
藤原家隆(新勅撰集)
山深くまた誰が通ふ道ならむ
これより奥の峰のかけはし
鷹司冬平(玉葉集)
など、八代集以降に用いられるようになる。
「本歌連歌」の本歌は、
峰よりは嶺のかよひぢ跡もなし
日影に渡る雲の梯
で、日文研の和歌データベースにはない。
六十八句目。
わけのぼる嶺の梯人はこで
ささふく軒のつづく奥山 心恵
奥山に人が来るのは嶺の梯を通ってではなく、あくまで軒の続く下界の道を通って、はるばる旅をして行き着く。
大峰山の峰入りではないかと思う。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「峰入」の解説」に、
「〘名〙 修験者が、大和国(奈良県)吉野郡の大峰山にはいって修行すること。陰暦四月本山派の修験者が、熊野から大峰山を経て吉野にぬける「順の峰入り」と、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」とがある。大峰入り。《季・夏》
※光悦本謡曲・葛城(1465頃)「此山の度々峯入して、通ひなれたる山路」
とある。季節は時代によって変化があったと思われる。
役行者が一言主の神に作らせようとした、葛城山から吉野金峰山への石橋を意識してのものだろう。前句の「嶺の梯」をこの石橋のこととする。「ささふく軒のつづく奥山」は熊野路のことになる。
「本歌連歌」の本歌は、
庵しむる軒端の山の風さむし
いささをざさの時雨なるいろ
で、日文研の和歌データベースにはない。山の中の笹葺く軒の典拠となる。
「ささふく」の用例は、
小笹葺く賎のまろ屋の假の戸を
あけがたに鳴く時鳥かな
藤原実定(新古今集)
の歌がある。
六十九句目。
ささふく軒のつづく奥山
玉霰音する日こそ寂しけれ 行助
笹葺く軒に霰の降る音を付ける。笹葺きの草庵として、「つづく」は軒ではなく、奥山が続くとする。
「本歌連歌」の本歌は、
木葉ちる峰の庵の冬籠り
思ひかずそふあられ雪の日
で、日文研の和歌データベースにはない。山の庵で聞く霰の典拠とする。
山の庵の霰は、
嵐吹くみ山の庵の笹の葉の
さやぐを聞けば霰降るなり
藤原為家(玉葉集)
の歌もある。
七十句目。
玉霰音する日こそ寂しけれ
雪降る比は野辺も目かれず 宗砌
「目かれ」は目が離れることで、見なくなること、逢わなくなることをいう。「目かれず」だから、雪が降ると逆に野辺をいつまでも見ていることになる。
霰だけだと淋しいが、雪になると雪景色を見て心も慰められる。
「本歌連歌」の本歌は、
くるとあくとめかれぬ物を梅の花
いつの人まにうつろひぬらむ
紀貫之(古今集)
になっている。見飽きないものを「目かれず」とする典拠となる。
七十一句目。
雪降る比は野辺も目かれず
伏す鳥を狩場のせこの打ちむれて 専順
前句の「目かれず」を人が大勢来るという意味にして、雪が降っても狩場には人がたくさん来るとする。
「本歌連歌」の本歌は、
鷹がりの鳥の落方末を見よ
心を岡の野べのせこかひ
で、日文研の和歌データベースにはない。「狩場のせこ」の典拠とする。
七十二句目。
伏す鳥を狩場のせこの打ちむれて
馴れにし犬ぞ杖におどろく 忍誓
鷹狩は犬を用いる。犬を使って鳥を飛び立たせ、それを鷹が狩る。ここでは背子が杖で鳥を飛び立たせようとしたので、犬がびっくりする。
前句の「打ちむれて」を杖で打とうとして群れると取り成す。「犬も歩けば棒にあたる」という諺もあるが、昔の犬は棒でよく打たれたのだろう。
「本歌連歌」の本歌は、
いやしきのきたるかひなしかり衣
うつにもさらぬ家々の犬
で、日文研の和歌データベースにはない。犬が棒で打たれることの典拠とする。
七十三句目。
馴れにし犬ぞ杖におどろく
老人や思ひの家を守るらん 宗砌
何やら怪しいものが侵入してきたのだろう。老人(おいびと)が杖で追っ払おうとすると、飼ってた犬の方が打たれると思ってびっくりする。
「本歌連歌」の本歌は、
いにしへの道はただしく残りけり
家を守りの雲の老人
で、日文研の和歌データベースにはない。「家を守る老人」の典拠となる。
「老人(おいひと)」も用例は少ない。
さくらはな白髪にまじる老人の
宿には春ぞ雪も絶えせぬ
藤原兼輔(兼輔集)
などが僅かにある。
七十四句目。
老人や思ひの家を守るらん
昔の歌の道はのこれり 行助
古代の歌の道は二条家・冷泉家に受け継がれて、それぞれ家を守ることで中世にも残ることができた。
「本歌連歌」の本歌は、
かしこきは昔の跡の大和歌
代々をのこせる水くきの跡
で、日文研の和歌データベースにはない。歌の道の残ることの典拠とする。
いにしへの流れの末の絶えぬかな
書きつたへたる水くきの跡
藤原家隆(続拾遺集)
の歌もある。
七十五句目。
昔の歌の道はのこれり
石見がた名のみ高津の浦さびて 忍誓
石見国高津の浦は柿本人麻呂終焉の地で、高津の浦は寂れても、人麻呂以来の和歌の道は今日まで残っている。
「本歌連歌」の本歌は、
岩見がた高津の松の木の間より
うき世の月を見はてぬる哉
で、人麻呂辞世の歌として『六花集』に伝えられていると、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注にある。
七十六句目。
石見がた名のみ高津の浦さびて
風吹きしほる松ぞかたぶく 専順
前句の「浦さびて」に「松ぞかたぶく」と付く。風を添えることで「かたぶく」は「吹く」と掛けることになる。
「本歌連歌」の本歌は、
露ながら松やかたぶく山風に
浜辺の千草うら枯にして
で、日文研の和歌データベースにはない。「松の傾く」の典拠となる。
七十七句目。
風吹きしほる松ぞかたぶく
花の木の枝を垣なる谷の庵 宗砌
谷だから松も傾く。谷の庵に花を添える。
「本歌連歌」の本歌は、
谷の戸の籬に咲ける梅の花
心なげにも折りやるつらん
で、日文研の和歌データベースにはない。谷の籬の花の典拠となる。
七十八句目。
花の木の枝を垣なる谷の庵
鳥の声する春の古畑 心恵
花に鳥、谷の庵に古畑を添える。
「本歌連歌」の本歌は、
草ふかくなるふるはたに鳥鳴きて
ねぐらをしめて巣にも帰らず
で、日文研の和歌データベースにはない。古畑の鳥の典拠となる。
「ふるはた」に鳥の用例は、
古畑のそはの立つ木にゐる鳩の
友呼ぶ聲のすごき夕暮
西行法師(新古今集)
にも見られる。
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