そういえば前に「超訳百人一首 うた恋。」ってアニメがあったのを思い出して、dアニメにあったので久しぶりに見てみた。在原行平が、江戸時代の頃と随分イメージが違っている。これが今の歴史観なんだろうな。江戸時代だと基本謡曲『松風』だからな。
ウィキペディアでも、
「なお、『古今和歌集』によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴である須磨琴を製作したと伝えられている。なお、謡曲の『松風』は百人一首の行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている。」
となっていて、今の歴史学ではあまり重視されてないようだ。
歴史を考える時に多産多死補正が必要なのではないかと思う。大河ドラマの鎌倉殿も、かなり今の少産少死の感覚が入っているのではないかと思った。特に自分の息子を殺されたのにその犯人をいつまでも生かしておいて、最後には許しまで与える頼朝にはかなり違和感があった。多分先に『曽我物語』の方を読んでしまったからそう感じるのだろう。
ウクライナの戦争もフロンティアの内戦が当たり前の所では、また見方が違うんだろうな。でも、白人だから大騒ぎしているというのは当たらないと思う。大量の核を保有している国の侵略だから問題なんで、同じ白人でも北アイルランドのことなど、日本ではほとんど話題にもならない。
知床の事故でもそうだけど、経営者の理不尽な命令というのはどこの会社でもあることだ。強靭な意志を持つ親分型経営者になぜ逆らえないかというと、保身に走る仲間の裏切りも計算に入れなくてはならないからだ。
嵐の中を舟を出せと言われても、自分は生活のためにこの会社にしがみつきたいと思っていれば、その船長に「気をつけろよ」くらいは言えるが、一緒になって会社と戦ったりはしない。一人の犠牲で多くの社員の首がつながるなら、という判断をしてしまうものだ。
西洋はギルドの伝統があり、それが近代の労働組合に繋がっている。日本でギルドというと異世界の冒険者ギルドくらいだ。
日本の労働組合は職人ギルドからの進化形ではなく、社会主義者によるトップダウン型の組織だから、会社の理不尽な命令に加えて、労働組合の理不尽な命令にまで耐えなくてはいけなくなる。だから、労働組合は人気がない。
経営側を説得するには、経営側の納得する理論、つまり会社にメリットのある提案をする必要がある。そのためには経営のことを勉強しなくてはならない。嵐に舟を出すことに抵抗するなら、安全を優先することが会社のメリットになるという所で説得を試みる必要がある。
そういう知恵を日本の労働組合は持っていない。はなから資本主義を否定しているからだ。
賃上げ要求にしても、賃上げが会社にとってメリットにならなくてはならない。例えば、賃金が高ければ優秀な人材が集まるという所で、実力に見合った適切な賃金体系を提案するとか、そこまでできれば日本の会社も良くなると思う。
経営者が会社を儲かるようにしたいのは勿論のこと、社員も会社が儲かれば必ずメリットがある。対立図式では足の引っ張り合いにしかならない。会社が儲かり社員も儲かる最善のやり方というところから、「安全」に関しても「給与」に関しても取り引きしていかなくてはならない。
あと、変換ミスで正徹の草根集が草魂集になっていた。お詫びします。
それでは「川尽て」の巻の続き、挙句まで。
二十五句目。
笑に懼て沉む江の鮒
松並ぶ石の鳥居の陰くらし 露沾
富岡八幡宮の辺りか。かつては永代島と呼ばれていた隅田川河口の島にあった。
天和二年(一六八二年)成立の戸田茂睡の『紫の一本』の永代島の所には、
「八幡の社あり。この地江戸を離れ宮居遠ければ、参詣の人も稀にして、島の内繫昌すべからずとて、御慈悲を以て御法度もゆるやかなれば、八万の社より手前二三町が内は、表店はみな茶屋にて、あまたの女を置きて参詣の輩のなぐさみとす。
就中鳥居より内おば洲崎の茶屋といひて、十五六二十ばかりのみめかたち勝れたるを、十人ばかりづつも抱へ置きて、酌をとらせ小歌を謡はせ、三味線をひき鼓を打ちて、後はいざ踊らんとて‥‥以下略」
と賑わっていた。鳥居の内は人の笑い声で溢れていて、それに驚いたか、鳥居の影の江に鮒は深く沈む。
二十六句目。
松並ぶ石の鳥居の陰くらし
凩夜々に寒ン笛を吹 其角
寒ン笛は「かんてき」であろう。
一転して寂れた神社の境内に、木枯らしがぴゅうぴゅうと、夜に寒い中に聞えてくる笛の音のように聞こえてくる。
二十七句目。
凩夜々に寒ン笛を吹
葺かけて月見の磯屋荒にけり 沾徳
かつては月見の宴があって、笛や鼓で賑わっていた磯屋も荒れ果てて、今は木枯らしの寒笛の音しかしない。
二十八句目。
葺かけて月見の磯屋荒にけり
御廟の衛士か袂露けし 露荷
荒れた磯屋では衛士が御廟を守っている。
衛士というと、
御垣守衛士のたく火の夜はもえ
昼は消えつつものをこそ思へ
大中臣能宣(詞花集)
の歌が百人一首でもよく知られている。
二十九句目。
御廟の衛士か袂露けし
角切て裾野に放す鹿の声 嵐雪
春日大社の鹿の角切は寛文の頃に始まったという。麓には本地垂迹の関係にある興福寺があり、明治の神仏分離前は隆盛を誇っていた。北円堂は藤原不比等の廟だったともいう。
三十句目。
角切て裾野に放す鹿の声
鉢に食たく篁の陰 虗谷
篁(たかむら)は竹薮のこと。奈良の順礼僧が竹薮の陰で飯を焚いている。
二裏、三十一句目。
鉢に食たく篁の陰
山おろし笈を並べてふせぐ覧 其角
巡礼者は笈を背負って旅をしているので。飯を焚く時、風から火を守るのに笈を並べて壁にする。
三十二句目。
山おろし笈を並べてふせぐ覧
聞に驚く毒の水音 露沾
水毒のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水毒」の解説」に、
「〘名〙 水あたりの原因となる水の毒。
※俚言集覧(1797頃)「加梨勒 かりろくは薬名にて水毒を解す」
とある。
突然の下痢に野糞をするのを笈を並べて隠してやるが、音は隠せない。
三十三句目。
聞に驚く毒の水音
笘買によする湊は人なくて 露荷
笘は苫のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「苫・篷」の解説」に、
「① 菅(すげ)、茅(かや)などを菰(こも)のように編み、小家屋の屋根や周囲などのおおいや和船の上部のおおいなどに使用するもの。〔十巻本和名抄(934頃)〕
※後撰(951‐953頃)秋中・三〇二「秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ〈天智天皇〉」
② 江戸時代、大工仲間で着物をいう。〔新ぱん普請方おどけ替詞(1818‐30頃か)〕」
とある。①の苫を買いに港に入ったが人はいなくて、あとで毒の水が流れていたと聞いて驚く。
三十四句目。
笘買によする湊は人なくて
雪の正月を休む塩焼 沾徳
苫屋というと古典では藻塩焼く小屋で、
藻塩焼くあまの苫屋のしるべかは
うらみてぞふく秋のはつかぜ
藤原定家(拾遺愚草)
藻塩焼くあまの苫屋にたつ煙
ゆくへもしらぬ恋もするかな
源俊頼(散木奇歌集)
などの歌がある。ただ、江戸時代には入浜式塩田が普及し、藻塩は廃れていた。
浦の苫屋に人がいないのは、雪の正月で藻塩焼きを休んでいたからだ。
三十五句目。
雪の正月を休む塩焼
万葉によまれし花の名所よ 虗谷
名所は文字数から「などころ」であろう。
桜花いま盛りなり難波の海
押し照る宮に聞こしめすなへ
大伴家持(夫木抄)
だろうか。
浪花は浪を花に見立てたもので、雪もまた花に見立てられる。三重の意味で花の名所と言えよう。
挙句。
万葉によまれし花の名所よ
霞こめなと又岩城山 嵐雪
岩城山は、
岩城山ただ越えきませ磯崎の
許奴美の浜に我れたちまたむ
よみ人しらず(夫木抄)
の歌に詠まれている。東海道の薩埵山のこととされ、許奴美の浜は興津の海岸だという。
「また言ふ」に「いはき山」と掛けて用いられている。花の霞よ立ち込めてくれと願って、一巻は目出度く終わる。
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