今日は久しぶりに雨の一日だった。
前にも紹介したが、鬼貫の『ひとりごと』には、貞門の松江重頼と談林の祖の宗因の同座する席のことが記されている。
「いにしへは名所などに、物をもて付る句は、古歌にても、古事にても、慥ならん證據なき句は、付させ侍らず。某はまた廿にも見たざる比、先師松江の翁と、梅花翁と列座の會に出て、
ちよと見には近きも遠し吉野山
といふ前句に、
腰にふくべをさげてぶらぶら
と付侍りければ、吉野山にふくべ、其故有事にやと、師のとがめにあひける程に、當惑して先御前句といへど、句前もとほく侍る間、付べきやうあらば、その儘付よとひたすら申されけるほどに卒爾の事をいひ出けんと、一座の人のおもへるところも面目なくて、
見よし野の花の盛をさねとひて
ひさごたづさへ道たどりゆく
といふ古歌にすがりて付侍りきと、當座の作意をもて此歌を拵て答ければ、めづらしく候、これは何にある歌にやと、尋ねられける程に、たしか万葉か、夫木にて見候といひければ、やがて執筆に書せられける。いかなれば師の心をかすめ、かく偽りをもてもたいなくも、懐紙をけがしたる咎、かへすがへすも道にそむきし事、今はたおそろしくぞ侍る。其外俳諧を只かろき事に、おもひなしたるうちの句など、ひとつひとつかぞへ出さば、無量のあやまりも侍らん。」
というように、談林の俳諧でも典拠には厳しかったようだ。
ちなみに「ひさご」を日文研の和歌データベースで検索すると、
すすみ出でてひさこ花とるすまひをさの
つきつきしともきさりよるかな
藤原為忠(為忠家後度百首)
さしかねてなけまふよりもすまひをさの
ひさこはなとるけしきまつみよ
藤原親隆(為忠家後度百首)
ひさご花咲けるけしきによそながら
そこのこころをくみてしるかな
源俊頼(夫木抄)
といった歌はあったが、確かにひさごに酒を入れてというような歌はなかった。
「すまひをさ」は相撲取のことか。ひさご花とセットになっているようだ。ウィキペディアの「花相撲」のところに、
「奈良・平安時代にかけて行われた宮中行事の一つである相撲節会(すまひのせちえ)では、東方力士が勝つと朝日を受けて咲く葵(あおい)の花、西方力士が勝つと夕日を受けて咲く夕顔(ひょうたん)の花を自分の髪に差して退場した。力士は、その花を食料品や衣類に交換して褒美として受け取った。花相撲の由来は、この時代にさかのぼる。」
とあるが、このネタなのか。
それでは「享徳二年宗砌等何路百韻」の続き。
三表、五十一句目。
忘れぬすぢをかたれ古へ
したしきも別れて残る身は憂きに 行助
死別した旧友に、昔に戻ってもう一度語りあいたいという意味に取り成す。「かたれ」で切って「いにしへ」と読む。「いにしへ」は語の成り立ちからして「去(い)にし・へ」で「過去へ」という意味を持つ。
「本歌連歌」の本歌は、
かならずと契りし虫ぞ別れきて
ともなふ事ぞ稀の世の中
で、日文研の和歌データベースにはない。恋でない「別れ」の例は案外少ないのかもしれない。
五十二句目。
したしきも別れて残る身は憂きに
旅の袖とふうどの浜風 宗砌
「うどの浜」は駿河国の歌枕、有度浜で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「有度浜」の解説」に、
「静岡市南部、駿河区と清水区にまたがる有度山(久能山)の南すその海岸。久能山縁起によれば、稲川太夫が浜の松の下の天人の舞を見て、子孫に伝えたという。宇度浜。宇土浜。」
とある。
うど浜に天のはごろもむかしきて
ふりけむ袖やけふのはふりこ
能因法師(後拾遺集)
うど浜の疎くのみやは世をはへむ
波のよるよる逢ひみてしがな
よみ人しらず(新古今集)
などの歌に詠まれ、雅語として問題はない。
「本歌連歌」の本歌は、
風さむし恨も浪も袖なれば
とひし之の身もことの浜風
で、日文研の和歌データベースにはない。
「こと浜」も、
逢ふことははやことはまに置く網の
いまひと目だに見ることもがな
郁芳門院安芸(久安百首)
天乙女おりゐし跡もこと浜に
真砂をしたふ千鳥なくらし
正徹(草魂集)
の用例がある。正徹の時代には「うと浜」と「こと浜」が一緒にされてたのかもしれない。
なお、
おほしまのなるとのうらのこきかたさ
うとのはまххかくやあるらむ
藤原元真(元真集)
の歌もあった。「うとの浜」は鳴戸にもあったか。時代的には有度浜の歌よりも古い。
「うと浜・こと浜」ともに天乙女を詠む歌と、逢えない気持ちを詠む歌と二系統あったと思われる。この本歌はどちらでもなく、羇旅の「うと浜・こと浜」の典拠として引き出されたと思われる。
五十三句目。
旅の袖とふうどの浜風
船路にも聞く日はあれな郭公 心恵
羇旅の船路に、海でホトトギスの声を聞くこともあるだろうか、とする。
「本歌連歌」の本歌は、
みじか夜もいかが明かさむとまり舟
聞くも身にしむ山時鳥
で、日文研の和歌データベースにはない。
ほととぎす鳴くや五月の短夜も
ひとりし寝ればあかしかねつも
柿本人麻呂
の歌は『古今和歌六帖』他、いくつかの歌集にも見られる。この「あかしかねつも」が明石に掛けた歌なのかどうかはわからない。
二声と聞かずば出でじ時鳥
幾夜あかしのとまりなりとも
藤原公通(新古今集)
の歌では、明らかに「明石の泊」と掛けて用いられている。これを典拠にすれば水辺の羇旅のホトトギスは成立しそうなものだ。
ただ、この歌だけだと微妙だということもあったのだろう。明石とは別の水辺・羇旅のホトトギスの典拠を必要としたのだろう。
明石のホトトギスというと、江戸時代の俳諧の『去来抄』に、
「面梶よ明石のとまり時鳥 野水
猿ミの撰の時、去来曰、此句ハ先師の野をよこに馬引むけよと同前也。入集すべからず。先師曰、明石の時鳥といへるもよし。来曰、明石の時鳥はしらず。一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主の手柄なし。先師曰、句の働におゐてハ一歩も動かず。明石を取柄に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。終に是をのぞき侍る。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,14)
というやり取りがある。芭蕉は新古今集の歌を知っていたが、去来は知らなかったようだ。それほど有名な歌でもなかったのだろう。
五十四句目。
船路にも聞く日はあれな郭公
村雨わたるをちの遠山 専順
前句の「日はあれな」を日付の日ではなく、日差しのこととして村雨を付け、船路のホトトギスに遠山をあしらう。
「本歌連歌」の本歌は、
遠近に雲立ち過ぐる山見えて
日影さだかに見えぬ村雨
で、日文研の和歌データベースにはない。
ホトトギスに五月雨を詠んだ歌は多いが、村雨のホトトギスもなくはない。
心をぞ尽し果てつるほととぎす
ほのめく宵の村雨の空
藤原長方(千載集)
声はして雲路にむせぶほととぎす
涙やそそく宵の村雨
などの例がある。
ただ、ここでは宵のホトトギスではなく、「日影さだかに見えぬ村雨」を典拠に、遠い山の村雨の雲はあるが、ホトトギスが鳴くから日影のあるところ(日の射す所)もあるのか、という趣向で付けている。
五十五句目。
村雨わたるをちの遠山
広野には夕陰誘引杜見えて 忍誓
誘引は「さそふ」と読む。
遠山に広野と違えて付ける。遠山は村雨が降っているようだが、手前に広がる広野には夕日が差して杜(もり)が見える。鎮守の森で神祇になる。
「本歌連歌」の本歌は、
あま雲は野守が袖に立ちまよひ
風吹きさそふ夕されの空
で、日文研の和歌データベースにはない。
野守はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野守」の解説」に、
「① 立入りを禁じられている野原の見張りをする人。野の番人。
※万葉(8C後)一・二〇「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」
※古今(905‐914)春上・一九「春日野のとぶひののもりいでてみよ今いくかありてわかなつみてん〈よみ人しらず〉」
② 農夫。
※浄瑠璃・冥途の飛脚(1711頃)下「あさでのしづや火をもらふ野もりが見るめはづかしと」
とある。②が近世の意味ならば①になる。
立ち入りが禁じられている野原は、春日野のような神域か、鷹狩をする野であろう。その意味で、雨の夕暮れの神祇の典拠となる。
五十六句目。
広野には夕陰誘引杜見えて
隙行く駒ぞはむ草もなき 宗砌
「隙行く駒」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「隙行く駒」の解説」に、
「(「荘子‐知北遊」の「人生二天地之間一、若二白駒之過一レ郤、忽然而已」による) 壁のすきまに見る馬はたちまち過ぎ去ることの意から、月日の早く過ぎ去ることのたとえ。隙(げき)を過ぐる駒。白駒(はっく)隙(げき)を過ぐ。ひま過ぐる駒。ひまの駒。
※千載(1187)雑中・一〇八七「いかで我ひまゆく駒をひきとめて昔に帰る道を尋ねん〈三河内侍〉」
とある。千載集に證歌があることも例文に示されている。
広野には放牧されている普通の馬が草を食んでいるが、時の流れという早馬は道草を食うこともない。
「本歌連歌」の本歌は、
小幡より都にひける手なれ駒
心急がばかひ草もなし
で、日文研の和歌データベースにはない。
「隙行く駒」を出すことは問題ないが、それの食う草もないという趣向はこの歌が典拠になる。
五十七句目。
隙行く駒ぞはむ草もなき
浅からず願ふは法の水なれや 行助
時の流れは速く、人はあっという間に老いぼれて死を迎える。そこで願うのは仏法の水で、ものが水だけに「浅からず」となる。
「法(のり)の水」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「法の水」の解説」に、
「① 仏法が衆生の煩悩を洗い浄めるのを水にたとえていう語。法水。
※公任集(1044頃)「尋ねくる契しあれば行末も流れて法の水はたえせじ」
② 仏像などに注ぐ水。聖水。〔日葡辞書(1603‐04)〕」
とある。①の意味になる。例文にもあるように、和歌に用いられている。
「本歌連歌」の本歌は、
室の戸のかけひの水の絶々に
影こそやどれ有明の月
で、日文研の和歌データベースにはない。「水の絶え絶え」は水が浅いということで、それに宿る有明月を真如の月として釈教に解し、浅い水でも法の水は浅からず、というところか。
五十八句目。
浅からず願ふは法の水なれや
すむてふ事はやすき彼国 専順
仏法を求めて彼国にわたろうと志す。行って住むだけなら簡単だが、悟りを開くのははるかに難しい。
「本歌連歌」の本歌は、
あらましをおもひ立つ夜のかり衣
おもふぞとほき彼国の道
で、日文研の和歌データベースにはない。
狩り衣は狩りに行くのではなく旅に出るという意味だろう。行き先の彼の国は唐土であろう。古くは最澄・空海も唐に渡った。渡来僧を詠む典拠となる。
遣唐使の時代は生存率50パーセントとも言われたが、室町時代には勘合貿易もあり航路も安定し、明に渡る人も多かった。雪舟もこの興行よりも少し後の時代になるが、絵の修行のために明に渡っている。
後の水無瀬三吟の四十三句目にも、
月日のすゑやゆめにめぐらん
この岸をもろこし舟のかぎりにて 宗長
の句がある。
五十九句目。
すむてふ事はやすき彼国
爰をさる程をさかひの後の世に 宗砌
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は「去此不遠(こしふおん)」の心としている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「去此不遠」の解説」には、
「〘名〙 仏語。極楽浄土は西方十万億土のかなたにあるが、法味観念の上から見れば、この娑婆世界からは遠くないの意。
※仮名草子・竹斎(1621‐23)上「いかにみなみな女ばうたち、大事のあんじんをばときのこしたるぞ。こしふをんととく時は、ここをさる事とをからず」 〔観無量寿経〕」
とある。
西方浄土は十万億土の彼方とはいえ遠い所ではなく、住みやすい国。
「本歌連歌」の本歌は、
世中は何事なくてとにかくに
別路とほくいたる彼岸
で、日文研の和歌データベースにはない。「ここを去って後の世に」という文脈自体がこれまでにないものなので、「別路とほくいたる彼岸」を典拠としたか。「ここをさる」の語句が和歌データベースではヒットしない。
六十句目。
爰をさる程をさかひの後の世に
あけていづみの杣の仮伏 心恵
前句の「さかひ」を大阪の堺として和泉の国を付ける。摂津・和泉・河内の境にあるところから「堺」の名がある。
堺を去ったのち、「世に・あけて」を「夜に・あけて」とし、夜明けには和泉の国に入る、そんな杣人の仮の宿だった。
杣人はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「杣人」の解説」に、
「〘名〙 杣木を切り倒したり運び出したり造材したりすることを職業とする人。きこり。杣師。樵夫(しょうふ)。そまうど。そま。
※万葉(8C後)七・一三五五「真木柱つくる蘇麻人(ソマひと)いささめに仮廬(かりほ)のためと造りけめやも」
とある。
「本歌連歌」の本歌は、
涼しさは積る泉の宿ながら
あつき日影の杣のかりふし
で、日文研の和歌データベースにはない。「そまのかりふし」もヒットしないので、この言葉の典拠とするとともに、「いづみ」に「杣」の縁にもなる。
六十一句目。
あけていづみの杣の仮伏
山陰にかた許なる松の門 忍誓
松の門(かど)は正月の門松ではなく、ここでは松の木のある門のこと。「松の門あけて」と下句に繋がる。
松の門はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「松の門」の解説」に、
「① 松の立っている門。山住みの人の家にいう。山中の住家。
※壬二集(1237‐45)「とはれんとさしてはすまずまつのかど見はてんための秋の夕暮」
② 門松の飾ってある門。松の戸。」
とある。
許は「ばかり」と読む。山陰に簡単な松の門の家があって、門を開けるとすぐに泉のある、そんな杣の仮宿だった、という意味になる。
「本歌連歌」の本歌は、
松の戸は此の山本に見えながら
庵りの煙立ちぞかねぬる
で、日文研の和歌データベースにはない。
山の松の戸は、
山深み春とも知らぬ松の戸に
たえだえかかる雪の玉水
式子内親王(新古今集)
の例もある。杣の仮伏のような卑しい者の松の戸の典拠としたか。
六十二句目。
山陰にかた許なる松の門
塩干の磯屋あらす浪風 宗砌
前句の松の門を海辺の松原の辺りの住処とする。塩干はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「潮干」の解説」に、
「① 潮が引くこと。ひき潮。潮がれ。また、潮が引いたあとの浜。干潟になった海岸。
※万葉(8C後)一七・三八九一「荒津の海之保悲(シホヒ)潮満ち時はあれどいづれの時か吾が恋ひざらむ」
② 陰暦三月の大潮のとき、舟で海へ漕ぎ出し、干潮になれば舟を降りて潮干狩などをし、潮が満ちてくればまた舟に戻って遊ぶこと。しおひあそび。《季・春》」
とあり、この場合は①の干潟の意味であろう。風が強く吹けば高波にさらされる。
「本歌連歌」の本歌は、
風むかふ雲のうき浪立つと見て
釣りせぬさきに帰る舟人
で、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、謡曲『羽衣』の、
「風向ふ、雲の浮波立つと見て、雲の浮波立つと見て、釣せで人や帰るらん。待て暫し春ならば吹くものどけき朝風の、松は常磐の声ぞかし。波は音なき朝なぎに、釣人多き・小舟かな釣人多き小舟かな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.30712-30717). Yamatouta e books. Kindle 版. )
の元ネタの歌としている。『解註謡曲全集』の野上注には、
「○風向ふ雲の浮波立つと見て釣せぬ(先に帰る舟人)―― 藤原為相(ためすけ)の歌。此の歌は遠浦帰帆(瀟湘八景)を詠んだものと云われる。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.30911-30913). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とある。
謡曲は三保の松原が舞台で、この能のワキの漁夫を連想させる。この歌というよりも、世阿弥の能を典拠としたような感じもする。
謡曲の言葉や物語を典拠とするのは、江戸時代の談林俳諧になって盛んになるが、それを先取りしたような感じだ。
六十三句目。
塩干の磯屋あらす浪風
行く秋の湊の田づら守り捨てて 心恵
前句の磯屋を干潟を干拓した所に作った田んぼの刈穂の庵とし、稲刈りが済んで秋も終われば去って行く。
「本歌連歌」の本歌は、
露ふかくあれたる草の色ながら
かよひぢ絶ゆる小田のかり庵
で、日文研の和歌データベースにはない。
稲刈の跡の放置された仮庵の典拠とする。
結びおく露もたまらで荒れにけり
尾花かこひし小田のかり庵
阿仏(安嘉門院四条五百首)
時過ぐる小田のかり庵あれはてて
人こそすまね露は守りける
時光(延文百首)
のような八代集の時代よりも後の和歌には、こうした趣向もなくはない。
六十四句目。
行く秋の湊の田づら守り捨てて
枯るる蘆辺に落つる雁金 行助
「落つる雁金」は落雁のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「落雁・落鴈」の解説」に、
「① 池や沼などにおりたつ雁。《季・秋》
※光悦本謡曲・善知鳥(1465頃)「平砂に子をうみて落雁の、はかなや親はかくすとすれど」 〔江総‐贈賀左丞蕭舎人詩〕」
とある。
刈穂の庵も捨て去られた後は、雁金が降りてきてそこを棲家とする。
「本歌連歌」の本歌は、
秋風に蘆の葉がれのありながら
雲かる声の落つる雁音
で、日文研の和歌データベースにはない。「蘆辺に落つる雁金」の典拠になる。
「落つる雁金」の言葉は、
大江山かたぶく月の影冴えて
鳥羽田の面に落つるかりがね
慈円(新古今集)
の用例がある。
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