2022年4月21日木曜日

 そういえば、どうでもいいような巨乳叩きや言葉狩りのニュースの陰で忘れ去られがちだが、園子温、榊英雄、木下ほうか、梅川治男など、日本でもMeTooという言葉は使われないが、同じような告発が相次いでいる。誰がどう見ても、こっちの方が大きな人権問題だ。
 二〇一七年にハリウッドを揺るがしたMeToo運動は、日本ではハイヒールの問題にすり替えたりして、劣化したパロディーしか生まなかったが、そういう言葉だとか運動だとかいう名前はなくても、日本は日本なりのやり方で、同じ問題に向き合って、解決していかなくてはならない。
 こういうことは一過性のブームではなく、個別な生存の取引の問題として地道な告発を繰り返すことの方が大事だ。
 日本の終身雇用制の元では、解雇されて失業者となる代わりに、昔から「窓際族」なんて言葉があったように、社内失業という形で余剰人員が処理されてきた。
 余所の社会では景気の変動で失業者は常に出るものという前提で、消費税を20パーセントにしてでもセーフティーネットを整える必要があった。日本は社内失業なので、それほど増税をしなくても、会社が不要な社員に給料を払い続けることで対応してきた。
 日本でベーシックインカムはもとより様々なセーフティーネットの議論が盛り上がらないのも、基本的に会社が生涯社員の面倒を見るもので、セーフティーネットは落伍者のものとされていたからだ。
 そのため、選挙になるとセーフティーネットは口先だけで財源確保の議論もなく、ひたすら減税を連呼することになる。
 終身雇用の恩恵を受けているサラリーマンが多数派を占める限り、日本のセーフティーネットの議論は進まない。減税の連呼と、できもしないばら撒き公約が繰り返される。
 逆に終身雇用を守るべきなら、年金の問題は企業に投げるという手もある。企業に老齢年金を義務付ければ、公的な老齢年金をかなり縮小できる。失業保険も企業の側に負担させればいい。ついでに再雇用の世話も企業に丸投げすれば、ハローワークも要らなくなる。
 高度成長期には、確かにこうした方向性があったと思う。オイルショック以降低成長期に入って、企業が福利厚生を切り捨ててきたことで、今の状態になっている。
 ただ、今後国家の方が困窮して来れば、企業に負担を求めるという選択肢もあると思う。終身雇用を守るのであれば、企業は生産性の向上に全力を注ぎ、その金を社会に還元しなくてはならない。

 それでは『蛙合』の続き、最終回。

 「第十九番
   左勝
 堀を出て人待くらす蛙哉      卜宅
   右
 釣得てもおもしろからぬ蛙哉    峡水
   此番は判者・執筆ともに遅日を倦で、我を忘
   るるにひとし。仍而以判詞不審。左かち
   ぬべし。」

 おそらくこの興行は、最初の芭蕉の「古池」の句があり、それに対を成す仙化の句ができ、もう一対この後に出て来る第二十番が先に作られたのであろう。
 その後、門人たちの持ち寄った句を大まかなテーマを決めて二句づつ番わせて行ったとき、この二句は最後に余ってしまったのではないかと思う。
 適当な判詞を付けるより、春の遅日を理由にして、洒落で終わらせようという意図であろう。
 「堀を出て」の句は江戸の小名木川のような運河の蛙で、時折通る舟に驚いて水から上がり、そのまま別の舟が来るのを待っているかのように土手に座っている蛙であろう。
 一方、「釣得て」の句は残念ながら「さでの芥」の句と被ってしまった。一方は叉手の外道で、一方は釣りの外道。役に立たないが故に放されるわけだが、釣りの句は人間の側からの面白くないで、蛙の側の共感が欠けている。そのため、「さでの芥」の句にも負けていた。ここでも右負けとなる。
 実際本当に蛙が釣れたら笑っちゃうと思うが。

 「第二十番
   左
 うき時は蟇の遠音も雨夜哉     そら
   右
 ここかしこ蛙鳴ク江の星の数    キ角
   うき時はと云出して、蟾の遠ねをわづらふ草
   の庵の夜の雨に、涙を添て哀ふかし。わづか
   の文字をつんでかぎりなき情を尽す、此道の
   妙也。右は、まだきさらぎの廿日余リ、月な
   き江の辺リ風いまだ寒く、星の影ひかひかと
   して、声々に蛙の鳴出たる、艶なるやうにて
   物すごし。青草池塘処々蛙、約あつてきた
   らず、半夜を過と云ける夜の気色も其儘にて、
   看ル所おもふ所、九重の塔の上に亦一双加へ
   たるならんかし。」

 「うき時」の句は草庵で暮らす隠遁者の風情で、隠遁者にとっての「憂き」とは、隠遁の原因になったような、まだ世俗にいた頃受けた様々な苦痛を思い出す状態で、これが次第に癒されてくると、「寂しさ」へと変わって行く。
 ヒキガエルは声が低く、雨の中でも遠くからの声が聞こえてくる。梅雨の鬱陶しい雨の夜に、低く絶え間なく聞こえてくるヒキガエルの声、それがかつて受けた世俗の罵詈雑言のトラウマを掘り起こす。思わず叫びたくなるような状況だろう。
 まさに「わづかの文字をつんでかぎりなき情を尽す、此道の妙」だ。
 「ここかしこ」の句はいつもながら其角らしい難解さを含んだ句だ。
 「星の数」は今日のような満天の星空の美しさのイメージではない。当時は満天の星空は当たり前すぎてそれを美しいとは思わなかったし、むしろ月のない夜は恐ろしい闇の世界だった。
 その闇の中、そこかしこから響いてくる蛙の声、所も風を遮るもののない大河のほとりで、春とはいえ夜風は寒い。それは果てしない虚無と渾沌の呼び声だ。蛙の声に春の艶なるものは含まれていても、あくまで荒涼とした「物凄き」世界だ。
 芭蕉の古池の句はまだ、世俗では春が来ているのに、この古池は取り残されたように荒涼としているという世界だったが、其角の句はその閑寂をはるかに越えている。
 「青草池塘処々蛙」は芭蕉の古池の句を指して言っているのだろう。この言葉は謝霊運の『登池上樓(池上樓ちじょうろうに登る)』の「池塘生春草(池塘春草を生ず)」から来ている。

   登池上樓   謝霊運
 潛虬媚幽姿 飛鴻響遠音
 薄霄愧雲浮 棲川怍淵沈
 進徳智所拙 退耕力不任
 徇祿反窮海 臥痾對空林
 衾枕昧節候 褰開暫窺臨
 傾耳聆波瀾 擧目眺嶇嶔
 初景革緒風 新陽改故陰
 池塘生春草 園柳變鳴禽
 祁祁傷豳歌 萋萋感楚吟
 索居易永久 離羣難處心
 持操豈獨古 無悶徴在今

 (地に潜む龍の子はその奥ゆかしい姿が麗しく、空飛ぶ巨大な雁は遥か遠くからの声を響かす。
 なのに私は空に迫り雲に浮かぼうとしては心が萎縮し、かといって川に棲み淵の底に身を潜めるのは身も切られる思いだ。
 君子となって徳を世に広めるには智恵が足らず、引退して畑を耕して暮らすにはそれに耐える体力もない。
 役人の給料を求めては最果ての見知らぬ海辺に来て、厄介な病気を抱えてはひと気のない林を眺める。
 寝床にいたため季節がわからなくなっていたが、簾の裾を開けてはしばらく外を覗き見た。
 耳を傾けて大きな波の連なるのを聞き、目を挙げては険しくのしかかってくるかのような山を眺める。
 初春の景色は去年の秋冬の名残の風を革め、下から登ってきた陽気が去年の陰気に取って代わってゆく。
 池の土手は春の草を生じさせ、庭に鳴く鳥も変わった。
 ゆったりとした遅日に『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞』の「招隠士」を感じる。
 一人引きこもれば永久にそのままになりそうで、群から離れたら心を落ち着けることは難しい。
 それでも操を守り続けるのは一人古人だけだろうか、易に言う「無悶」の徴は今ここにある。)

という詩で、『文選』に収録されている。
 其角の句も世間では春が来ているというのに、わが心は未だ闇の中にいるという意図で詠んだのであろう。この荒涼たる心は見てとれるが、芭蕉の古池の句のような青草池塘のわずかな心の救いすらもない。
 この二句のテーマは「闇の蛙」と言って良いだろう。。判はないが、第一番が言わずとも芭蕉の勝ちであるように、この第二十番も其角の勝ちということを暗に仄めかしているのではないかと思う。
 其角も遊郭に通い、享楽的な生き方に身を置いていたが、それだけに人間の心の闇を嫌というほど見てきた人だったのだろう。それだけに俳諧の風流に救いを求めた一人だった。
 天和の頃には、芭蕉の「蛙飛び込む水の音」の下七五に「山吹や」の五文字を冠した其角だったが、芭蕉の「古池や」の五文字に触発され、それをさらに一歩推し進めた、より荒涼とした虚無と渾沌の世界に踏み込んでいった。それが「九重の塔の上に亦一双加へたるならんかし」だったのだろう。
 「屋上屋を重ねる」というもので、ちょっと極端にやりすぎたかな、という評価だった。

  「追加
    鹿島に詣侍る比真間の継はしニて
 継橋の案内顔也飛蛙        不卜」

 まあ、最後に「物すごい」句が来てしまったので、ほんの少しここでシリアス破壊しておく必要もあったのだろう。落ちを付けるというか。
 真間の継橋は下総国府の南側にあった橋で、ウィキペディアには、

 「真間の継橋とは下総の国府があった国府台へ向かうための橋で、砂洲を中継地点として複数の板橋を架け渡してあったことから「継橋」という名を得たとされる。この橋は真間の象徴として『万葉集』にも詠まれており、歌枕として知られた存在であった。」

とある。
 古代東海道は鐘ヶ淵の辺りで隅田川を渡り、今で言えば京成立石、京成小岩の辺りを結び、下総国府のあった今の千葉商科大の辺りへ一直線に通じ、そこから北へ常陸国へ向けて折れ曲がっていた。南側の真間の継橋のあった道はおそらく上総、安房へ向かう道だったのだろう。
 今は小さな橋になっているが、かつては大日川(今の江戸川)下流域の砂州を繋ぐ複数の橋だったようだ。
 芭蕉が鹿島詣での旅で通った道筋は小名木川を舟で言って行徳から木下街道に向かっているから、この辺りは通ってないと思う。歌枕ということで、わざわざ立ち寄ったのであろう。
 この継橋はとっくの昔になっくなっていて、その正確な場所すらさだかでなく、江戸時代にはあたりはすっかり田んぼになっていたのだろう。
 細い畦道のような所を歩いて真間の継橋の跡を訪ねてゆくと、進むごとにじゃぼじゃぼ飛び込む蛙が、真間の継橋はこっちだよと案内しているかのようだ。あちこちに飛んでいくから、どこが本当なのかわからない。
 まあ、こういう他愛のない笑いで、『蛙合』興行の落ちを付けるとしましょうということで、執筆が挙句を付けて一巻を終わらせるような感覚で載せたのではないかと思う。実際の興行が行われてたとすれば、不卜が執筆を務めて、これらの句と判詞を書き留めていたのであろう。
 和歌では『千載集』に、雑体歌が収録されている。

   下総の守にまかれりけるを、
   任果てて上りたりけるころ、
   源俊頼朝臣もとにつかはしける
 東路の八重の霞を分けきても
     君にあはねば猶隔てたる心地こそすれ
               源仲正
   返し
 かきたえし眞間の継橋ふみみれば
    隔てたる霞も晴れて向へるがごと
               源俊頼

 源仲正の歌の方は五七五七七七の仏足石歌の体だが、源俊頼の歌は五七五五七七で仏足石歌と旋頭歌の中間のような体だ。
 「かきたえし」とあるから、この時代でも既に真間の継橋はなくなっていて、伝説の橋になっていたのだろう。

 夢にだに通ひし中もたえはてぬ
     見しやその夜のままの継橋
               西園寺実氏(続後撰集)
 夢ならでまたや通はむ白露の
     おきわかれにしままの継橋
               土御門院(続後撰集)

などのように、「かきたえしまま」「夜のまま」「わかれにしまま」の「まま」と掛けて用いられる。

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