2022年4月10日日曜日

 ドゥームスクローリングという言葉は初めて聞いたが、日本ではそれほど問題にはなっていないみたいだ。多分いわゆる「意識高い系」の人がなりやすいのではないかと思う。
 世界のあちこちで悲惨な事件が起こっているが、それについて考えなければいけないという強迫観念にかられるのは、多分そうした人たちなのだろう。
 あるいはテレビのニュースを見なくてはならないだとか、新聞はちゃんと読まなくてはいけないだとか、そういう教育を受けて育った人達かな。今どき新聞を隅々まで読む人って、頭悪いんだろうな。あれだけで結構時間食うし、情報が偏るもとになる。
 ネットが発達したとはいえ、情報は絶対的には不足している。ただノイズばかりが過剰で、必要な情報を得るのが難しくなっている。テレビでも両論併記とかで、ロシアの流すデマ情報を毎日報道しているが、あんなものは聞く必要がない。
 ニュースを見るのは権利であって義務ではない。必要のない情報は時間の無駄だし、かえって判断の妨げになる。
 特に感情に訴えかけるような情報は無視していい。ウクライナの虐殺でもそういう事件があったということと、大まかな人数ぐらい抑えておけばいいことで、被害者の気持ちになる必要はない。そんなの真面目に聞いてたら、確かにドゥームスクローリングで鬱病になりかねない。
 nuriéに「命に値札を貼られ生きる。」という曲があったが、特に意識高い系の教師が、若者に過度にこうした情報に接するように求めることは問題だ。こうしたことも若者が自己肯定感を持てなくなる原因になる。
 ニュースは権利であって義務ではない。ニュースを見ることを強要してはならない。
 聞きたくないニュースは、「あーーあーーあーーーーー、何?‥‥聞えねーーー」、これで良い。我々はハッピーな生活をする権利がある。
 左翼はいいよな。どんな悲惨なニュースでも、全部政府が悪い、自民党が悪い、アメリカが悪い、安倍が悪いって無責任に言い放てばそれでいいからな。そういう奴らはドゥームスクローリングには縁がなさそうだ。
 あと、鈴呂屋書庫の「貞徳翁十三回忌追善俳諧」を書きなおしたのでよろしく。

 それではこの辺で発句の方をまた少し。『阿羅野』の花三十句を見てみよう。まずは十五句。

   花三十句

   よしのにて
 これはこれはとばかり花の芳野山 貞室

 吉野の千本桜の圧倒的な美しさに声を失う体。この句にこれ以上言うこともなかろう。

 我ままをいはする花のあるじ哉  路通

 「花のあるじ」は和歌にも詠まれる言葉だが、中世以降は花の本に隠棲する人のことを指すことが多い。

 この春は桜が下にいへゐして
     花のあるじと人にいはれむ
              藤原範光(正治初度百首)

 とふ人の見捨てて帰る山里に
     花のあるじの名こそ惜しけれ
              藤原為家(夫木抄)

などの歌がある。吉野隠棲の西行法師の面影も感じられる。
 吉野の山に桜を尋ねてみんなで花を楽しんでいる時に、そこにひっそり暮らしていた花の主の言うわがままはこれだろうか、

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ
     あたら桜の咎には有りける
              西行法師(山家集)

 薄曇りけだかくはなの林かな   信徳

 「はなの林」も和歌の言葉で、

 咲きにけり雲のたちまふ生駒山
     花の林の春のあけほの
              藤原為家(夫木抄)

など、雲とともに詠まれる。
 ここでは生駒山など花の名所の山に詠むのではなく、ただ市井にあっても空が薄く曇っているのを見ると、気高い花の林が思い浮かぶ、というものであろう。

 はなのやまどことらまへて歌よまむ 晨風

 「とらまへて」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「捉」の解説」に、

 「つらま・える つらまへる【捉】
  〘他ア下一(ハ下一)〙 とりおさえる。つかまえる。とらえる。とらまえる。
  ※咄本・春袋(1777)河太郎の火「かっぱ、火を貰にきたりといへば、〈略〉つらまへんといって、若い者、手組て居る所へ」

とある。
 花の見事さにどこを捉えて歌を詠んでいいものやらというもので、冒頭の「これはこれは」の句を更に俗語で落とした感じがする。

 花にあかぬなげきや我が歌袋   宗房

という『続山井』(湖春編、寛文七年刊)の句も思い起こさせる。

 暮淋し花の後の鬼瓦       友五

 当時の花見は寺社で行われることが多かった。吉野も金峰山寺だし、京だと清水寺、江戸では上野寛永寺か浅草浅草寺か。花見をすると否が応でもお寺の屋根の鬼瓦が目に入る。
 街灯もライトアップもない昔は、日が暮れると闇に包まれ、花も見えなくなるため、花見の人は日が暮れると帰って行った。花咲くお寺の夕暮れは鬼瓦だけが淋しそうにしている。夕日を浴びて、鬼の目にも涙というところか。

 山里に喰ものしゐる花見かな   尚白

 山里は大体食料に乏しいもので、そんなところに集団で押しかけ、何か食わせろって感じだと、やはり花の主に嫌われそうだ。

 何事ぞ花みる人の長刀      去来

 寺社での花見は庶民のもので、武家はそういう所に出入りするのを慎むべきものだったが、庶民の格好をしてまぎれればいいものを、大小二本の刀を挿して現れれば、何事かとぎょっとする。
 もっともこの時代の庶民も脇指はみんな持っていたと、西鶴の『好色一代女』にも記されている。

 みねの雪すこしは花もまじるべし 野水

 野水は名古屋の人だから、木曾御岳山の雪は毎日見ていたのだろう。吉野は遠いから、御岳山の雪を見て、あれが花だったらなと思う。

 はなのなか下戸引て来るかいな哉 亀洞

 花見というと酒盛りが付き物だが、下戸でもそれに付き合わされる。花見の席にはいやいや連れて来れれる下戸というのが必ずいるもんだ。

 下々の下の客といはれん花の宿  越人

 俳諧の祖の山崎宗鑑が庵の入口に、

 上は来ず中は日がへり下はとまり
     二日とまりは下下の下の客

の狂歌を掲げていたと言われている。これも「花の主」の我儘ということか。
 せっかく花見に来たのだから、下下の下の客と言われようと、心行くまで花見を楽しみたい。

 はなの山常折くぶる枝もなし   一井

 周りが桜ばかりの所に住んでいると、花の季節にはどの枝も花が咲いているので、折ってくべる枝がなくて困るだろうな、というお節介。やはり西行さんをイメージしているのか。

 見あげしがふもとに成ぬ花の滝  俊似

 「花の滝」は松永貞徳の『俳諧御傘』に、

 「花の滝と云は、滝のごとくの落花をも、又、花のちり交て落る滝をも、又、花の中に落る滝をも申詞なり。

 山桜咲初しより久堅の
     雲井にみゆる滝の白糸

 是等は落花の心少もなきに、花のちるを花の滝といふと、一篇に心得たるはあしき也。」

とある。歌は源俊頼で『金葉集』所収。この場合は花の咲く姿を天から落ちて来る滝に喩えたものであろう。
 俊似の句も同じような趣向で、見あげる桜の木を滝に見立てて、見あげている今立っている場所がこの滝の麓だ、とする。名前も俊似だけに、俊頼に似ている。

 兄弟のいろはあげけり花のとき  鼠弾

 「いろはあげけり」は『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注に、「いろはを習い終えたの意」とある。
 花の時は子供たちの手習いも早めに切り上げて花見をする。ただ、子供だけに「ゑひもせす」かな。

 ちるはなは酒ぬす人よぬす人よ  舟泉

 花が散る頃には、花見にやってきた客が家にあった酒をみんな飲んでしまう。何も残らないとなるとそれも潔い。まさに桜の散り際。

 冷汁に散てもよしや花の陰    胡及

 冷汁はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「冷汁」の解説」に、

 「〘名〙 (「ひやしる」とも) つめたく冷やして野菜などを入れた汁。ひやしじる。また、さめた汁。《季・夏》 〔大上臈御名之事(16C前か)〕
  ※俳諧・続猿蓑(1698)夏「冷汁はひへすましたり杜若〈沾圃〉」

とある。
 花見の席では冷や汁に桜の花びらが落ちることもあるが、それはそれでまた風流なものだ。
 元禄三年の、

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

の句にも影響を与えたかもしれない。

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