テレビは連日のようにロシアの快進撃を報道して、スプートニクよりひどい。まあ、国民は誰も信じちゃいないけどね。日本には「大本営発表」という言葉があるから、こういう印象操作には免疫がある。毎日快進撃している割には、ロシアの支配地域は一向に増えてないしね。
日本はロシアと国境を接していて、北方領土を奪われているから、ロシアがここで調子づいたら日本に攻めて来るんじゃないかという危機感を強く持っている。だから、自民党から共産党までウクライナ支持に回っている。最初の頃あった降伏論もすっかり沈黙してるね。
ただ、防衛に関して何ら議論が進展していないどころか、政治家は概ねきれいごとばかり言って、議論そのものに消極的だ。もっと国民の声が必要なのではないかと思う。防衛問題に消極的な党は参議院選で落とそう。いくら派手なばら撒き公約をしても、国がなくなったら元も子もない。
日本は輸入品価格が上昇しても、基本的に物価上昇は起きていない。輸入品価格の上昇をそのまま販売価格に反映させないように、企業が様々に知恵を絞ってコストダウンを図っているから、それが人件費の抑制につながり、基本的にデフレ基調は変わっていない。
かつて右肩上がりの時代の時、日本は常にインフレ基調だった。インフレだったから金利も高く、十年銀行に預けておけば、簡単に資産は倍になった。ただ、それを当時の左翼やマス護美は「狂乱物価」だと批判し続けてきた。
やがてバブルがはじけてデフレスパイラルの時代が来る。企業は物価を挙げまいと必死になる。その上終身雇用で労働者の解雇もできない。年功序列給だから、正社員の給料を下げることもできない。そのしわ寄せが非正規に向かう。
終身雇用制が維持される限り、非正規はドロップアウトであり、非正規雇用の改善には左翼までが消極的で、あくまで非正規雇用をなくし正規雇用化を進めることにしか関心がなかった。それは今も続いている。
終身雇用制と主婦制を守り、日本独自の経済を作るというのであれば、徹底したAI化とロボット化でコスト削減を図るしかない。その際の失業を防ぎつつ、人材を流動化させるには、社内企業や出向社員の制度をフル活用しなくてはならない。
ただでさえ、日本では会社内の畑違いの仕事への配置転換は普通に行われていた。それを社外に拡大して、必要な人材を必要な場所に配置転換してゆく必要がある。
終身雇用制の元では、企業家への道も終身雇用の枠からのドロップアウトとみなされてしまい、それがベンチャー企業の育たない元になっている。日本では新しい産業は斜陽企業の業種転換から生まれる。繊維やカメラなどのいくつかの会社がそれに成功している。
ベンチャーが育たなくても、企業内および出向による企業間の配置転換でも、同様の効果を上げることはできる。破壊的イノベーションのアイデアがあるなら、複数企業の間でその有志を集めて新プロジェクトとして立ち上げる方が、日本の現状には合っているかもしれない。
製造業やサービス業の余剰人員を大胆にAIやロボット業界に移動させることができれば、日本の生産性は飛躍的に向上する。物価上昇なしに給料の上がる豊かな社会を作れる可能性は十分にある。
それでは『蛙合』の続き。
「第十六番
左
這出て草に背をする蛙哉 挙白
右勝
萍に我子とあそぶ蛙哉 かしく
草に背をする蛙、そのけしきなきにはあらざ
れども、我子とあそぶ父母のかはづ、魚にあ
らずして其楽をしるか。雛鳧は母にそふて
睡り、乳燕哺烏その楽しみをみる所なり。風
流の外に見る処実あり、尤勝たるべし。」
蛙が草の中から這い出てきて、その草を背にして座っているという情景は、たしかに「あるある」ではあるが、それのどこが面白いのかよくわからない。
我が子と遊ぶ蛙は蝌(かえるご)、つまりオタマジャクシと遊んでるということか。浮草の上に座って水面を見つめている蛙は、我が子の遊ぶのを見守っているかのように見える。
「魚にあらずして」というのは、『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注にもあるが、『荘子』秋水編の「知魚楽」で、
莊子與惠子遊於濠梁之上。
莊子曰「鯈魚出遊從容是魚樂也」
惠子曰「子非魚安知魚之樂」
莊子曰「子非我安知我不知魚之樂」
惠子曰「我非子固不知子矣子固非魚也子之不知魚之樂全矣
莊子曰「請循其本子曰女安知魚樂云者既已知吾知之而問我我知之濠上也」
(これは荘子と恵子が濠水の橋に遊びに行った時の話。
「ハヤが遊んでて楽しそうだな。」
「そなたは魚ではないのだから、魚が楽しいかどうかなんてわかるはずもない。」
「なら、おめー、俺じゃないのに、何で俺が魚が楽しいかどうかわからないってのがわかるんかい?」
「そなたのことは承知しない。ただそなたは魚ではない故、魚が楽しいかどうかわかるはずもないと言っておるのだ。」
「ちょっ待てよ。『魚が楽しいかどうかなんてわかるはずもない』ってのは、俺がそれをわかっていると知っているからそう言ったんだろっ。俺にはわかるんだよ。この濠水の水辺でね。」)
という問答のことであろう。
この会話がかみ合わないのは、双方の「わかる」の意味が違うからで、共感というのは直感的にはわかるが、正確にわかるわけではないという、それだけのことではある。
直感は投網のようなもので、投げかけたからと言って、それで魚が取れるかどうかはわからない。だから人は涙話に騙されたりする。直感でこの人は困っているんだと判断しても、実はそれは演技で金をせびろうというだけのものだった、というのはよくある。
ただ、騙すというのは「わかる」というのが前提になっている。他人の気持ちが最初からわからないなら、苦しそうにうずくまって倒れていても無視して通り過ぎるだけだ。なまじっかわかるばかりに、そこで騙し騙されの駆け引きになるというだけのことだ。
魚が楽しそうだと思うのは、魚にも感情があるという推量で、誰しもこの推量の能力を持っているという前提で、我々の日常の会話は成り立っている。荘子はそれを言っているだけで、恵子はそれが厳密な認識ではないことを指摘しているだけだ。
浮草の蛙が我が子であるオタマジャクシを見守りながら一緒に遊んでいるように見える、というのは、この共感能力が生み出す気遣いであり、それを蕉門では「細み」と呼ぶものだが、実際これなしでは我々は他者との関係を築くことができない。
相手の気持ちが正確に認識できるわけではないが、実際にはこのあやふやな能力なしに社会生活というのは成り立たない。その意味ではこの能力は社会の基礎であり、儒教で言う「仁」の端緒になる。それを表現する所に、「風流の外に見る処実あり」ということになる。
それは後の言葉で言えば「風雅の誠」ということになる。
人間ばかりでなく、様々な生き物にこの共感能力をあまねく投げかける所に、この句は単に蛙の草の前に立つという表面的な描写以上の価値がある。それゆえ「萍」の句の勝ちとなる。
この対決は風流の根幹にかかわるが故に「尤勝たるべし」となる。
人の心がわかったようでわからないように、魚の心がわかるというのも正解だが、わからないというのも正解になる。わかるというのも大事だが、わからないということを知るのも大事だ。元禄四年の師走に芭蕉はこう詠む。
魚鳥の心は知らず年忘れ 芭蕉
この歳になっても未だ魚鳥の心が本当にわかったわけではない、という自戒であろう。
「第十七番
左勝
ちる花をかつぎ上たる蛙哉 宗派
右
朝草や馬につけたる蛙哉 嵐竹
飛花を追ふ池上のかはづ、閑人の見るに叶へ
るもの歟。朝草に刈こめられて行衛しられぬ
蛙、幾行の鳴をかよすらん、又捨がたし。」
桜が散って水面に落ちると、最近よく用いられる「花筏」の状態になる。そこを泳ぐ蛙は、頭に桜の花びらを乗っけたりする。見たわけではなくても、いかにもありそうだ。
桜の花の散る池をのんびり眺めてられるのは、やはり閑人であろう。本当に頭に花びらを乗せた蛙が現れたら、さぞかし感動することであろう。
朝草の句は、朝刈り取られた草にくっついた蛙は、馬に乗せられ、いずこともなく旅に出る。人生もまた行衛の知れぬ旅と思えば、これもまた感じ入るものもあって捨て難い。
これは花実の対決であろう。散る花の「花」、行方知れぬ旅の「実」。ここでは花の勝ちとする。
「第十八番
左持
山井や墨のたもとに汲蛙 杉風
右
尾は落てまだ鳴あへぬ蛙哉 蚊足
山の井の蛙、墨のたもとにくまれたる心こと
ば、幽玄にして哀ふかし。水汲僧のすがた、
山井のありさま、岩などのたたずまひも冷じ
からず。花もなき藤のちいさきが、松にかか
りて清水のうへにさしおほひたらんなどと、
さながら見る心地せらるるぞ、詞の外に心あ
ふれたる所ならん。右、日影あたたかに、小
田の水ぬるく、芹・なづなやうの草も立のび
て、蝶なんど飛かふあたり、かへる子のやや
大きになりたるけしき、時に叶ひたらん風俗
を以、為持。」
「墨のたもと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「墨の袂」の解説」に、
「墨染めのころも。また、そのたもと。
※浄瑠璃・蝉丸(1693頃)五「かさ一本におきふすも身の程かくす我庵と、すみのたもとにすみづきん、経論少々懐中し」
とある。
山に隠棲する僧は、自ら水を汲みに行く。その時に懐に蛙が飛び込んでくる、という情景を思い浮かべればいいか。
山の井はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「山井」の解説」に、
「〘名〙 山中にある井。山野に自然に水のわき出ている所。山の井。
※宇津保(970‐999頃)楼上下「楼の南なる山井のしりひきたるに、浜床(はまゆか)水の上に立てて」
とあるように、井戸として掘って造られたものではなく、湧き水などの天然の井戸をいう。
西行の「とくとくの泉」は芭蕉も『野ざらし紀行』の旅で訪れている。そういった西行の俤もあって「幽玄にして哀ふかし」というところなのだろう。
思いがけない蛙に春を感じ、岩などもあり見た目に冷え寂びた山居にも、思わず顔をほころばす。
辺りの自生する松の木に藤の花が咲き、その下を清水が流れる。そんな情景も浮かんでくる。
一方、尾は落ての句は、オタマジャクシにやがて手足が生え、尻尾が落ちて小さな蛙の姿に変わるその瞬間をとらえたもので、蛙の姿にはなったけど、まだ鳴くことはできない。
人間であれば元服であろう。子供の成長する姿というのは見ていて微笑ましいものだ。
この二句は微笑ましい句の対決であろう。一つは隠者の聖なる微笑み、一つは俗なる子孫繁栄の微笑み。俳諧は俗を以て聖を表すもので、どちらの要素も欠くことはできない。故に引き分け。
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