2022年4月28日木曜日

 まあ、とにかくウクライナでも日本経済のためにも、みんな一生懸命戦ってるんだと思うよ。だから、それを揶揄したり神経を逆なでするような報道は本当に糞だと思う。この国もしっかり守っていかなくてはいけないしね。
 防衛という意味では、筆者はまずは日本の文化の防衛に心血を注ぎたい。たとえ日本が他国に支配されても、亡命した人がこの国を思い出せるように。そして、いつか国土を取り戻した時のために。
 まあ、筆者は一度も海外に行ったことがないし、当然亡命の当てなんて何もないから、最後まで日本に残ると思うけどね。

 それではまだ春は終わらないという所で、引き続き『続虚栗』から「啼々も」の巻を読んでみようと思う。
 発句は、

 啼々も風に流るるひばり哉    孤屋

で、空高く揚がって間断なく囀る、いわゆる揚げ雲雀を詠んだもので、それが風に次第に流されてゆくというところに俳諧の笑いを見出している。
 孤屋は後に野坡・利牛とともに『虚栗』の時代を作っていく人だが、この頃は其角の弟子だったか。
 揚げ雲雀は、

 雲雀あがる山のすそ野の夕暮れに
     若葉のしばふ春風ぞふく
              後二条院(風雅集)
 春深き野辺の霞の下風に
     ふかれてあがる夕雲雀かな
              慈円(風雅集)

など、和歌にも詠まれている。
 脇。

   啼々も風に流るるひばり哉
 烏帽子を直す桜一むら      野馬

 野馬も後の野坡で、『虚栗』の時代を作っていく。
 風が強いということで、お公家さんも烏帽子を飛ばされそうになって位置を直す。
 雲雀に桜は、

 梢より羽風をふれて桜さく
     野辺の雲雀もおつる花かな
              正徹(草根集)

の歌がある。
 第三。

   烏帽子を直す桜一むら
 山を焼有明寒く御簾巻て     其角

 山焼きは元は焼畑耕作時代の名残だったのだろう。正月の早い時期に行われ、山焼きのくすぶる炎が生み出す陽炎が、本来春の季語の陽炎だったのだと思う。
 焼畑農法が廃れたあとは神事として山焼きが行われてきた。
 奈良の若草山の山焼きは有名だが、その起源は、若草山焼き行事実行委員会事務局のホームページでは、鶯塚古墳の幽霊が出るから、誰かがそれを追払うために勝手に火をつけたのが起源だとしている。それも江戸時代後期の話としてるから、芭蕉の時代にはなかったことになる。芭蕉も奈良の句は詠んでいるが、山焼きの句はない。
 となると、古典の山焼きは後世に作られた神事とは別物で、本来の畑作のためのものだったと見た方がいいのだろう。
 ウィキペディアに「焼畑農業」の項には、

 「古代の段階では畿内周辺においても行われている。中世・近世においても焼畑は水田耕作の困難な山間部を中心に行われた。近世以前は山中を移動して生活する人々が多数存在したが、時代が下るに連れ定住して焼畑を中心に生計を立てる集落が増えた。
 近世においては江戸時代中後期の徴税強化や山火事などの保安上の理由、山林資源への影響から禁止・制限が行われた。かつて焼畑は西日本全域、日本海沿岸地域を中心に日本全域で行われていたが、明治32年に施行された国有林施業案の影響により焼畑を営む戸数は激減した。」

とある。
 夜明けの山焼きは、

 あづま野のけぶりのたてるところ見て
     かへりみすれは月かたぶきぬ
              柿本人麻呂(玉葉集)

の歌を思わせる。
 四句目。

   山を焼有明寒く御簾巻て
 光けうとく網に入魚       孤屋

 「けうとく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「気疎」の解説」に、

 「〘形口〙 けうと・し 〘形ク〙 (古く「けうとし」と発音された語の近世初期以降変化した形。→けうとい)
  ① 人気(ひとけ)がなくてさびしい。気味が悪い。恐ろしい。
  ※浮世草子・宗祇諸国物語(1685)四「なれぬほどは鹿狼(しかおほかみ)の声もけうとく」
  ※読本・雨月物語(1776)吉備津の釜「あな哀れ、わかき御許のかく気疎(ケウト)きあら野にさまよひ給ふよ」
  ② 興ざめである。いやである。
  ※浮世草子・男色大鑑(1687)二「角落して、きゃうとき鹿の通ひ路」
  ③ 驚いている様子である。あきれている。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Qiôtoi(キョウトイ) ウマ〈訳〉驚きやすい馬。Qiôtoi(キョウトイ) ヒト〈訳〉不意の出来事に驚き走り回る人」
  ④ 不思議である。変だ。腑(ふ)に落ちない。
  ※浄瑠璃・葵上(1681‐90頃か)三「こはけうとき御有さま何とうきよを見かぎりて」
  ⑤ (顔つきが)当惑している様子である。
  ※浄瑠璃・大原御幸(1681‐84頃)二「弁慶けうときかほつきにて」
  ⑥ (多く連用形を用い、下の形容詞または形容動詞につづく) 程度が普通以上である。はなはだしい。
  ※浮世草子・好色産毛(1695頃)一「気疎(ケウト)く見事なる品もおほかりける」
  ⑦ 結構である。すばらしい。立派だ。
  ※浄瑠璃・伽羅先代萩(1785)六「是は又けふとい事じゃは。そふお行儀な所を見ては」

とある。ここでも古代の「いみじ」「まばゆし」「すごし」や現代の「やばい」と同様の、悪い意味だったのが最高の意味に転じられる現象が起きているようだ。
 句の方は、山では山焼きが行われ、海では漁火に魚が意味に掛かるとする相対付けになる。
 五句目。

   光けうとく網に入魚
 水鳥や碇のうけの安からぬ    野馬

 水鳥が沢山いるので、係留碇を投げにくいということか。大漁で帰ってきたけど、魚を満載していると鳥が群がってくる。
 六句目。

   水鳥や碇のうけの安からぬ
 梢活たるゆふだちの松      其角

 碇が投げられないから松の梢を掴んで船を岸に引き寄せる。折から夕立で視界も悪い。
 初裏、七句目。

   梢活たるゆふだちの松
 禅僧の赤裸なる凉みして     孤屋

 禅僧は物事に頓着しないから、夕立が来ると松の下で素っ裸になって涼んでいる。
 八句目。

   禅僧の赤裸なる凉みして
 李白に募る盃の数        野馬

 杜甫の『飲中八仙歌』に、

 蘇晋長斎繍仏前 酔中往々愛逃禅
 李白一斗詩百篇 長安市上酒家眠

とある。李白が蘇晋と一緒に飲む情景を想像したか。これも相対付けになる。
 九句目。

   李白に募る盃の数
 俳諧の誠かたらん草まくら    其角

 この頃はまだ蕉門の俳論として「風雅の誠」があったかどうかはよくわからない。普通に俳諧の神髄について李白と語り明かしたいということであろう。其角も酒飲みだし。
 十句目。

   俳諧の誠かたらん草まくら
 雪の力に竹折ル音        孤屋

 雪に折れる竹は、

 くれ竹の折れふす音のなかりせば
     夜ふかき雪をいかでしらまし
              坂上明兼(千載集)
 明けやらぬ寝覚めの床に聞ゆなり
     籬の竹の雪の下折れ
              藤原範兼(新古今集)

など、和歌に詠まれている。
 夜を徹して俳諧の誠を語っていたら、いつしか外は雪で、竹の折れる音がする。和歌の趣向ではあるが、これこそ俳諧に通う、というところか。
 十一句目。

   雪の力に竹折ル音
 樫原や猪渡る道まけて      野馬

 この場合の樫原は樫原流槍術であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「樫原流」の解説」に、

 「近世槍術(そうじゅつ)の一流派。鍵槍(かぎやり)を主とする。流祖は樫原五郎左衛門俊重(とししげ)(?―1655)。俗に柏原流と書く。俊重は初め穴沢主殿助盛秀(あなざわとのものすけもりひで)(雪斎(せっさい))について直槍(すぐやり)を学び、のち鍵槍の術に熟達した。回国中阿波(あわ)においてやむなく真槍(しんそう)をもって勝負し、高野山(こうやさん)に籠居(ろうきょ)中、紀州和歌山の徳川頼宣(よりのぶ)に招かれ、200石を領して大番衆(おおばんしゅう)に任じた。この門から小谷角左衛門、同作左衛門、木川市左衛門らの名手が出て流名を高め、幕末には笠間(かさま)、高槻(たかつき)、姫路、松山、松江などの諸藩で行われた。[渡邉一郎]」

とある。
 猪の通る道で、雪斎の力で猪と戦ったが、負けて竹槍が折れた。
 十二句目。

   樫原や猪渡る道まけて
 男に見えぬ女かなしき      其角

 樫原を普通に樫の木の生い茂った原の意味として、猪に負けて通ってこなくなった男に、男らしくないと女が悲しむ。
 樫原は、

 とやまなる岡の樫原吹き靡き
     荒れゆくころの風の寒けさ
              藤原為家(夫木抄)

の歌がある。

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